第三十話 貪り尽くせ
レイたちはあらがえぬ意思に導かれるまま谷を進んでいく。いつの間にかあたりを重く濃い霧がどっぷりと埋め尽くし、自分の足元さえ霞んで見える。
その霧が今までのものと違うのは、触れても全く冷たさや湿気を感じないということだ。そしてしばらく歩いた彼らは周囲の景色の変化に気づいた。鬱蒼と地衣樹が生い茂り、木々の隙間に埋もれた獣道しかないはずの森は、彼らの足の向く先だけを避けているかのように徐々に木々がまばらになり、やがて下草だけしか生えていない苔むした地面の一本道になっていた。
霧降谷を知り尽くしているはずのラッヘンもこのような道は見たことがなかった。道は不自然なまでに平坦で真っ直ぐに伸びていて、霧の奥へとどこまでも続いているかのように思えた。
身体は意思のままに勝手に進んでいくが、不思議と不安や焦燥感はない。しかしレイにはそれとは別の妙な違和感があった。何かが自分の中から抜け落ちた、あるいは消えてしまったかのような感覚。それが何なのか腑に落ちないまま進んでいたが、不意に考えが浮かんで前を歩くウィニーに問いかけた。
「なあ、ウィニーはさっき、この『とれんぶる』は魔術じゃない、って言ったよな」
「ええ、そーよ。この変な霧からは魔素を全く感じないもの。それに前も言ったけど、こんな広範囲に長時間持続する魔術なんて有り得ないのよ」
「しゃあ、魔術じゃないとしたら、他に考えられる可能性は?」
「……そね、少なくとも人に与えられた能力を超えてるのは確かよ。それにこの霧には意思があるわ。私たちをどこかへ連れて行こうとしてる。自然現象とは思えないし、消去法で考えられるのは――」
そこでウィニーは考え込んで沈黙する。
「――まさか、おとぎ話みたいにフォグドラゴンが霧を吐き出してるわけじゃあるまいし……、あと有り得るのは古代兵器ね」
「へえ、古代兵器か…」
レイは素知らぬ顔で相槌をうったが、ウィニーに質問をした時点でその答えにたどり着いていた。レイが先程気付いたのはこの霧に包まれてから、セント・クレドの「感覚」が失くなっているということだった。
ロベルトによるとセント・クレドの魔剣の本質はレイの精神と同化しているらしい。魔剣はレイの手にした武器を媒体に実体化しているに過ぎないと聞いた。確かに今朝の素振りの際も意識を済ませて心の中を探ると、自我とは別の何かがそこに居るという感覚があった。
しかし先程、ふとセント・クレドが発現させればこの霧を何とかできるかも知れないと思い、ウィニーに気づかれぬように何度か精神集中をしてみたが、心の中に魔剣の気配が全く感じられなかったのだ。
「だとしたら、まずいな…」
この霧によってセント・クレドはすでに奪われてしまったのか、それとも封じられているのか。この霧がセント・クレドを狙っている者の仕業だとすれば、これ以上ウィニーを巻き込むわけにはいかない。
思わず漏れた呟きに、ウィニーがその真意を知らずに言葉を返す。
「それって、レイが因縁つけられてるっていう野盗団のボスのこと言ってるの? でもあいつか持ってる古代兵器って、そんな凄いことができる代物じゃなかったはずよ」
「私も古代兵器に詳しいってわけじゃないけど、魔術士として言うならこんな大規模な事象を引き起こせるなんて並の古代兵器じゃないと思うわ。『魔力が構成に劣る』って格言があるの。どんなに優れた魔術構成を編めたとしても術者の魔力が低ければ相応の威力しか出ないのが節理。よーするにどんな優れた道具も使い手が悪ければ意味がないのと一緒で、この霧は事象発生の過程が人間の扱える容量超えてるもの。こんなことが簡単に出来る危険な古代兵器があるなら王国騎士団とか連盟が野放しにしておくわけないじゃない。目の色変えて探し出して、すぐに叩き潰してるはずだもの!」
次第に早口になって語気を強めるウィニーを横目にレイは恐る恐る聞いた。
「あー、ひょっとしなくても、けっこうイライラしてる?」
「……まーね。レイには分かんないだろうけど自意識が制御できないってのは、術士として相当な不快感だわ。もし、レイの考えが当たってて、そのなんとかっていう野盗団のボスが現れたら、問答無用で最大威力の魔術叩き込んでやりたいくらいのフラストレーションなんだけど!」
「おー…そいつは頼もしいような、恐ろしいような…」
レイはウィニーと初めて遭遇した際に、自分めがけて放たれた特大の真空弾を思い出し、背中ににじんだ妙な汗に思わず首をすくめた。
「れい、うにー、みる!」
先頭を歩くラッヘンの声に前を見ると、だんだんと霧が薄れてきていた。それと同時に今まで身体を動かしていた「進まなければ」という意思も徐々に消えていった。
完全に歩みを止めた三人は大きな開けた空間に立ち尽くしていた。自然に形成されたとは思い難い、完璧な円形の広場が鬱蒼と茂った地衣樹の森の真ん中にぽっかりと穴を開けている。直径三十メートルはあるだろうか、広場の地面もわずかな下草が生えているだけで、深い緑の染み苔が一面を埋め尽くし、地肌は全く見えない。
ここはどこだろうとあたりを見渡していたウィニーが不意に叫んだ。
「そんな……通ってきた道がないわ!」
振り向くと、薄れてきた霧の中に、つい先ほどまで歩いてきたはずの道はなく、広場を囲む陰鬱な地衣樹の暗がりが静かに広がっていた。方向を間違えたのかと思い周囲を見回すが、どこを見ても広場は密集した地衣樹に囲まれていて、獣道らしきものの影すら見えない。
「みる! エヒシ、ある!」
同じく抜け道を探していたラッヘンが広場の輪郭であるものを見つけて二人を呼んだ。
微睡草、あるいはバグミー語でエヒシと呼ばれる植物は、人の手の入らない深山幽谷に生える金鳳花科の多年草で、小ぶりだが鮮やかな黄色い花を咲かせる。
ラッヘンが言うには霧降谷にはこの植物の群生地がいくつか点在していて、風に流されて飛んでくる睡眠作用のある花粉も「無色の隔絶」の一つだという。
三人にとってより重要な情報はこの谷で微睡草が生えているのは深いところ、それも海抜ゼロメートルに近い最深部にのみだということだった。
「おかしいわね。私たちはかなり谷を登ってたはずでしょ? それにあの変な霧――『とれんぶる』に包まれた後もここまで来た道は平坦だったのに…。ねえ、ラッヘン何か分からない?」
「うう…おれ、ここ、しらない。とれんぶる、はじめて――誰も見たことない」
ラッヘンは初めて遭遇する事態にすっかり怯えてしまい、レイの足元にしがみついて不安な表情であたりを見回している。霧降谷を棲み家にするバクミー族とはいえ、彼らが住んでいるのは谷の中層で、晴れることのない深い霧に包まれた深部には、よほどのことがない限り行くことはない。
「まさか谷底まで飛ばされたってのか? とにかく、この広場から出たほうがいいんじゃないのかな」
「でも、どこに向かっていけばいいの? ラッヘンもここがどこだか分からないなら下手に動くのは危険よ。せめてもう少し霧が晴れてくれたら――」
意見が分かれた二人だったが、不意にウィニーが言葉を途中で止めた。彼女は眼を閉じて沈黙し、広場を静寂が支配した。
「うにー?」
レイの足元にしがみついたまま不安そうに下から顔を覗きこむラッヘンに、声を小さくしてウィニーが答える。
「魔素よ……急に魔素が流れ込んで来てるの。それも相当な濃度の」
見ると広場を囲んだ地衣樹の足元から、頭上を覆う濃い霧とは違う薄い煙幕のような霧が、這うようにじわじわと流れ込んで来ていた。
「また霧……この嫌な感じ、前にもあったぞ!」
レイの記憶が呼び起され、無意識に刀の柄に手が伸びた。次の瞬間、広場を囲んだ地衣樹の奥から、どすの利いた低い声があたりに響いた。
「――くくく、こんなところに居やがったか。まったく手間取らせやがって」
とっさに二人は声のした方向へと身構え、ラッヘンはレイの足の陰に隠れて恐る恐るその方向を伺う。
「わるいマギア…?」
「やっぱりあいつか…! あの霧を吸い込むとまずいぞ。みんな、このマスクをつけといて!」
レイは今朝出発する前に準備しておいた、シトリ特製のアセラス軟膏をたっぷりと塗り込んだ麻布を三つ、素早く背嚢から抜き出す。
「いいえ、その必要はないわ。――レイ、ラッヘン! 下がって!!」
しかし、その動作を制止したウィニーは臆した風もなく歩み出て、二人の前に仁王立ちする。
「まーさか、ほんとにレイの言ってたことが当たるなんて思わなかったけど…! とにかくあんたは最高に運が悪いわね。私の怒りは頂点に達してんのよ!!」
ウィニーは両手を声のした森の奥へと掲げる。周囲の大気がその掌の中心に大きな渦を巻いて収束し、彼女の次に発した声ともに、広場の外輪へと向かって一陣の突風となって吹き付けた。
「風よ、貪り尽くせ!!!」
【用語解説】
『微睡草』
人気のない深山幽谷に生える金鳳花科の多年草。草丈三十~五十センチメートル、独特の光沢ある黄色い花弁の花を咲かせ、その花粉には強い睡眠作用があることから、微睡草の名で呼ばれる。この花を見かけるということは、森や山の深みに入ったという証明であり、旅人の間では不吉の前兆とも言われる。
花粉もそうであるが、根の延長に発達する塊根にはさらに強い睡眠成分を含み、薬用としても重宝されている。




