第二十九話 伝承の正体
霧降谷の底は相変わらず深く濃い霧で満たされている。重なった封鱗木や鉄刀樹の枝葉の隙間――上から覗けば、その霧の中を進んでいく三つの影が見えた。彼らの足取りは軽い。
先頭を行くラッヘンは時折、四足になって駆けながらシダの茂みの間を縫うように軽快に進んでいく。その後を追うレイとウィニーも、昨晩の闇夜に比べれば視界が利く分、ラッヘンを見失うこともなく順調についていけていた。
よく見るとラッヘンの進む場所は、下草が踏み敷かれた獣道になっている。だが、その上から覆いかぶさる大きなシダや山彦木の枝葉に巧妙に隠されていて、レイやウィニーの背丈ではいくら目を凝らしても遠目には見つけられそうになかった。
しかもラッヘンは、ただまっすぐ進まない。大きな地衣樹や根の隙間を縫うように進み、一定の方向へ向かっているかと思えば、突然大きく円を描くように大回りをしたり、坂を上っていたのに急に手をつかなければ降りられないほどの急勾配を滑り降りたりする。夜はなおのことだが、わずかに陽の射す昼間でさえ、どちらを向いて進んでいるのかさっぱり分からない。
不意に、先頭を進んでいたラッヘンの尻尾の揺れがぴんと立ち、止まった。
それが急停止だと気づくのが少し遅れたレイは、危うくその立派な尻尾を踏みつけそうになる。
「――わわっ、と。どうしたの、ラッヘン?」
急停止したレイの背中に軽くぶつかって、ウィニーも立ち止まった。
「あれ。色無しの霧、ひとつ」
ラッヘンが小さな指で指す方向に、直径十メートルほどの窪地があった。そこだけ押しのけたかのように霧が晴れ、空間が妙に澄んで見える。
レイは昨日、尾根の上で霧に惑わされた時、霧が薄まっていた風穴の場所があったのを思い出した。思わず新鮮な空気を求めて一歩踏み出す。
その途端、ラッヘンが足にしがみついて叫んだ。
「だめ! あそこ、いく、くるしい。――すぐ、しぬ!」
「多分、有毒なガスが溜まる場所なのよ。あそこから魔素は感じないしね」
呼び止められて改めて見回すと、周囲の小さな崖がすり鉢状になっていて、問題の空間は中央がさらに一段窪んでいる。魔素を感じないということは、魔術で発生させたものではなく自然に起きている現象だ。
「どこかの地裂から噴き出してる火山性ガスか、植物の腐敗ガスかは分からないけど……きっと、あの窪地に霧より重いガスが集まってくる地形なのよ」
普通の場所なら吸い込んでも命に関わることはないかもしれない。だが、あの窪地には霧を押しのけるほど高濃度のガスが溜まっている――それだけで十分に危険だ。
「でも、さっきラッヘンは“アルトパテルのひとつ”って言ったわよね。つまり『無色の隔絶』――そういう異常には種類があるってこと?」
「そう。色無しの霧、ある。いろいろ」
ウィニーの問いにラッヘンはうなずいた。
「まあ、もともとは昔の迷信だし、ほとんどは自然現象なのかもな。となると……一番警戒しとく必要があるのは、魔術っぽいヤツか」
レイが懸念するのは、彼らを惑わせた正体不明の霧だ。ウィニーの推測では、どうも魔術に近い――そんな感触があるという。
出来れば外れていてほしい。けれど、もしそれが彼の村を襲った痩せぎすの魔術士によるものなら、すでにウィニーはレイの厄介ごとに巻き込まれてしまっている。
レイは、師と交わした誓いが試されている――「心法」に誓って彼女を護らなければならない、という思いを一層強くした。
「ちがう、れい。わかてない。ほんもの、『とれんぶる』、きけん」
足元からの声がレイの思考を断ち切った。
「とれんぶる……なんだそれ?」
「それが“本物”のアルトパテルってこと?」
聞き返す二人にラッヘンは再び激しくうなずき、早口で何か説明し始める。だが共通語に置き換えられないのか、ほとんどがバグミー語で、レイには判然としない。
「トレンブルか……うーん、聞いたことあるような無いような。少なくとも古西語じゃないし……相当古い言葉なのかも」
古西語の心得があるウィニーにも、内容は読み解けないらしい。だがラッヘンは、意味が伝わっていないこと自体はどうでもいいようだった。
「しんぱい、ない。おれ、ほんもの、みたこと、ない。首長、きいた、だけ。――誰も見たことない」
そう締めくくると、赤いマフラーを翻してくるりと尻尾を二人へ向け、苔むした地面を軽快に駆け出した。二人もその時は大して気にも留めず、後に続いて歩みを再開する。
「ねえ……雰囲気、さっきと違ってきてない? ラッヘン、道は合ってるのよね?」
それからさらに一時間ほど歩いた頃だろうか。ウィニーが不安を口にした。随分長い時間登っているはずなのに、霧は薄くならない。それどころか、徐々に密度を増してきている。
「……あてる。とおる、いつも、ここ。……でも、ちがう?」
ラッヘンは立ち止まり、精一杯背伸びをして周囲を見渡した。小走りで少し離れた岩に駆け上がり、そこでも背伸びをして見回す。
それを何度か繰り返してから、駆け足で二人の元へ戻ってきた。
その口調は、今までとは違っていた。
「よくない、これ……よくない。いつも、とおる、ここ。いつも……ちがう!」
明らかに焦っている。
その瞬間を見計らったかのように、冷たい風が横から吹きつけ、霧の冷たさが彼らの身を震わせた。
「霧が濃くなってきたわね……。私も、嫌な予感がする。もしかしてこれも『無色の隔絶』なの……」
つい先程までわずかな温かみを届けていた陽は、いつの間にか頭上を覆った分厚い霧に遮られていた。谷底は薄い闇に包まれ、視界も風に押し込まれた濃霧によってじわじわと削られていく。
「――! よくない。わかた……これ、ほんもの!!」
不意にラッヘンが小さく叫んだ。
「えっ、さっき言ってた“本物”のアルトパテルってことか?」
「そう、『とれんぶる』。首長、きいた、おなじ。……いつも、おなじ、いつも、ちがう!」
軽くパニックに陥ったように、ラッヘンは落ち着かない様子で周囲をきょろきょろと見回し、うろうろと右往左往した。
だが突然、尻尾の毛がぶわりと逆立つ。
次の瞬間、獣道を逸れて鬱蒼とした仏手檜葉の茂みへ、すたすたと一直線に歩き始めた。
「待って! こういう時は、ここを動かないのが一番いいと思うんだ!」
呼び止めても、ラッヘンは歩みを止めない。首だけ振り返り、短く言った。
「れい。ここ、いる、できない……わかる」
言い終えると同時に、小さな身体は仏手檜葉の茂みに呑まれて消えた。
「ちょ、ちょっと! ラッヘン! 一人で先に行ったら危ないわ、戻ってきて!」
慌てて追いかけて駆け出したウィニーだったが、不意に歩みが鈍った。
「な、なにこれ!? 身体が勝手に――ううん、行かなきゃ……!?」
――違う。身体が勝手に動いているのではない。身体は意のままに動いていた。
ただ、それを動かしているのが“自分の意思”だと信じ込まされている。胸の奥から強烈に湧き上がる、その先へ進まなければならないという使命感――それが意思を塗り替えている。
「嘘よ、こんな……思考を――違うわ。思考じゃない。『意思』を操作する魔術なんて考えられない!」
ウィニーの声には、魔術士としての本能的な拒絶が混じっていた。
「魔術……? ちがう! ほんもの、色無しの霧、魔術ちがう!」
それはラッヘンも同じらしい。がさがさとシダの葉をかき分けながら、意思の赴くままに進んでいく。
「魔術じゃない……? 確かに――魔素は、感じない。じゃあ……これはいったい何なの!?」
「みんな落ち着いて! この霧、昨日のアルトパテルに比べれば悪意は全然感じないよ」
レイも最後尾に続く。彼はこの感触を、以前どこかで感じたことがあった。そのため他の二人に比べれば、まだ冷静でいられた。
「いやいや、これが落ち着いていられるかっての! レイはどーゆー図太い神経してんのよ! 感じないの!? この心の奥底から這い上がってくるような気持ち悪い強制感!」
不快感ではない。だが、絶対に抗えない――その事実が、どうしようもない不安を育てる。
「……『とれんぶる』……よんでる。にげる、できない……」
「行くしかないよ、ウィニー」
ラッヘンとレイは、すでに逆らうことを諦めたような口調で言う。まだ足掻いていたウィニーも、結局は進むしかないことを理解していた。
「うー、ううー。分かってるわよぅ……。分かってるっていうか、もう体が勝手に進んじゃってるけど――」
魔術制御の根幹は、意思を魔術構成に正確に乗せること。そのため魔術士は、意思を制御し把握することを常日頃から心がけている。
そんな彼女にとって、自分の意思が操られているこの状況は、心の中を虫が這っているような耐え難い不快だった。
「なんで私がこんな目に合わなきゃなんないのよ―――!!」
どこにもぶつけようのない憤りを霧の海に叩きつけるウィニーを見て、レイは不思議と落ち着いた思考で――自分は冷静で、なんだか申し訳ないな、と他人事のように考えていたのだった。




