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56テールズ ~聖杯の伝説~  作者: 曽我部穂岐
第二章 霧中のエルミタージュ
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第二十九話 伝承の正体

 霧降谷の底は相変わらず深く濃い霧で満たされている。その霧の中を進んでいく三つの影が、重なった封鱗木シギラリア鉄刀樹ダガヤサンの枝葉の隙間から見える。彼らの足取りは軽い。


 先頭を行くラッヘンは時折、四足になって駆けながらシダの茂みの間を縫うようにして軽快に進んでいく。その後を追うレイとウィニーも昨晩の闇夜に比べれば視界が利く分、ラッヘンを見失うこともなく、順調についていけていた。


 よく見るとラッヘンの進む場所は下草が踏み敷かれた獣道になっている。しかし、その上から覆いかぶさる大きなシダや山彦木の枝葉に巧妙に隠されていて、レイやウィニーの背丈ではいくら目を凝らしても遠目には見つけられそうにもなかった。


 しかもラッヘンはまっすぐではなく、大きな地衣樹やその根っこの隙間を縫うように進んでいく。さらに一定の方向に進んでいたかと思えば、突然、大きく円を描いたように大回りをしたり、坂を上っていたのに急に手をつかなければ降りられないような急勾配を滑り降りたりする。夜はなおのことだが、わずかに陽の射す昼間でさえ、どちらを向いて進んでいるのか全く分からない。


 不意に先頭を進んでいたラッヘンの尻尾の揺れがぴんと立って止まった。それが彼が急停止したのだと分かって立ち止まるのが少し遅れたレイは、危うくその立派な尻尾を踏みつけてしまいそうになった。


「――わわっ、と。 どうしたのラッヘン?」


 急停止したレイの背中に軽くぶつかってウィニーも立ち止まる。


「あれ、『色無しの霧アルトパテル』、ひとつ」


 彼が小さな指で指す方向には、直径十メートルほどの窪地があり、そこだけ押しのけたかのように霧の晴れた空間になっていた。


 レイは昨日、尾根の上で霧に惑わされた時に霧が薄まっていた風穴の場所があったのを思い出して、思わず新鮮な空気を求めて足をその方向に踏み出した。


 その途端、その足にラッヘンがしがみついて叫ぶ。


「だめ! あそこ、いく、くるしい。――すぐ、しぬ」


「多分、有毒なガスが溜まる場所なのよ。あそこから魔素は感じないしね」


 呼び止められてあたりを見回すと、ちょうど周囲の小さな崖がすり鉢状になっていて、問題の空間はその中央がさらに一段窪んでいるようだった。魔素を感じない、ということは魔術で発生させたものではなく自然に発生した現象だということだ。


「どこかの地裂から噴き出してる火山性のガスか、植物の腐敗ガスかは分からないけど、きっとあの場所にこのあたりの霧よりも重い有毒ガスが集まってくる地形になってるのよ」


 普通の場所なら吸い込んでも命に係わることにはならないだろう。しかし、あの窪地には霧を押しのけるくらい高濃度のガスが溜まっているということだ。


「でも、さっきラッヘンは、アルトパテルのひとつって言ったわよね。『無色の隔絶アルトパテル』にはいくつか種類があるの?」


「そう、色無しの霧アルトパテル、ある、いろいろ」


 ウィニーの問いかけにラッヘンは首を縦に振る。


「まあ、もともとは昔の迷信だし、ほとんどは自然現象なのかもな。そうなると一番警戒しとく必要があるのは魔術っぽいヤツか」


 レイが懸念するのは彼らを惑わせた正体不明の霧だ。ウィニーの推測によると、どうも魔術らしいとのことだった。それが悪意あるものだとすれば、彼は自分を狙う者に心当たりがある。


 出来ればウィニーの推測が外れていることを望むばかりではあるが、もしそれが彼の村を襲った痩せぎすの魔術士によるものだとすれば、すでに彼女はレイの厄介ごとに巻き込まれてしまったことになる。レイは、師と交わした自分の誓いが試されている――「心法」に誓って彼女を護らなければならない、という思いを一層強くさせた。


「ちがう、れい。わかてない。ほんもの、『とれんぶる』、きけん」


 足元からの声がレイの思考を中断させた。


「とれんぶる…、なんだそれ??」


「それが本物の『無色の隔絶アルトパテル』ってこと?」


 聞き返す二人にラッヘンは再び激しく首を縦に振って、早口で何か説明を始める。しかし彼の知る共通語では翻訳できないようで、その話はバグミー語がほとんどでレイには内容が判然としなかった。


「トレンブルか――うーん、聞いたことあるような無いような…。少なくとも古西語バベルじゃないし…。相当、古い言葉なのかも」


 古西語が話せるウィニーにも話の内容は分からないらしい。だがラッヘンも意味が伝わっていないのはどうでもいいようであった。


「しんぱい、ない。おれ、ない、ほんもの、みたこと。首長フンム、きいた、だけ。――誰も見たことないクムンクフセ


 話をバグミー語でそう締めくくると、赤いマフラーを翻してくるりと尻尾を二人の方へと向け、苔むした地面を軽快に駆け始めた。二人もその時は大して気にも留めず、彼の後に続いて歩みを再開した。





「ねえ、雰囲気がさっきと違ってきてない? ラッヘン、道は合ってるのよね?」


 それからさらに一時間ほど歩いた頃だろうか。ウィニーが不安を口にした。もう随分と長い時間谷を登っているはずだが、周囲を包む霧は一向に薄くならない。それどころか徐々にその密度を増してきていた。


「……あてる。とおる、いつも、ここ。…でも、ちがう…?」


 ウィニーの言葉にラッヘンが立ち止まって、精一杯背伸びをしながら周囲を見渡す。そして小さく首をかしげると、小走りで少し離れたところにある岩に駆け上り、そこでも背伸びをしてまた周囲を見回す。


 幾度かそれを違う場所で繰り返した後、駆け足で二人の元へ帰ってきたラッヘンの口調は今までとは違うものになっていた。


「よくない、これ、よくない…。いつも、とおる、ここ。いつも、ちがう…!」


 彼は明らかに焦っているように見えた。その瞬間を見計らっていたかのように不意に冷たい風が横から吹きつけて、霧の冷たさが彼らの身を震わせた。


「霧が濃くなってきたわね…。私も何か嫌な予感がするわ。もしかしてこれも『無色の隔絶アルトパテル』なの……」


 つい先程までわずかな温かみを届けていた陽は、いつの間にか頭上を覆った分厚い霧に遮られて、谷底は薄い闇に包まれていた。周囲の視界も風によって流れ込んだ濃い霧によって徐々に隠されつつあった。


「――! よくない、わかた……これ、ほんもの!!」


 不意にラッヘンが小さく叫んだ。


「えっ、さっき言ってた本物のアルトパテルってことか?」


「そう、『とれんぶる』――首長フンム、きいた、おなじ。……いつも、おなじ、いつも、ちがう!」


 彼は軽くパニックに陥っているようだった。どうしてよいのか分からず落ち着かない様子できょろきょろと周囲を見回し、うろうろと同じ場所を右往左往していたのだが、突然、その尻尾が大きく毛立って起き上ると、獣道を逸れて鬱蒼とした仏手檜葉ブシュヒバの茂みの方へと向かってすたすたと一直線に歩き始めた。


「待って、こういう時はここを動かないのが一番いいと思うんだ!」


 ラッヘンは呼び止めるレイの声にも歩みを止めず、首だけ振り返った。


「れい、ここ、いる、できない……わかる…」


 はっきり言い終わると同時に、その小さな身体は仏手檜葉の茂みの中へと消えた。


「ちょ、ちょっと! ラッヘン! 一人で先に行ったら危ないわ、戻ってきて!!」


 慌ててラッヘンを追いかけて駆け出したウィニーだが、不意にその歩みが遅くなった。


「な、なにこれ!? 身体が勝手に――ううん、行かなきゃ…!?」


 ――違う。ウィニーは違和感に立ち止まったはずだった。しかし、彼女の足は茂みに向かって吸い寄せられるように歩き続けていた。


「嘘よ、こんな……思考を、――違うわ。これは思考を、じゃない。『意思』を操作する魔術なんて考えられないわ!」


 身体が意に反して動いているのではなかった。身体は意のままに動いていた。ただ、それを動かしているのは強烈に湧き上がる、その先に進まなければという使命感。


魔術マギア…? ちがう! ほんもの、色無しの霧アルトパテル魔術マギアちがう!」


 それはラッヘンも同じで、がさがさとシダの葉をかき分けながら意思の赴くままに進んでいく。


「魔術じゃない…? 確かに――魔素は、感じないわ。じゃあ……、これはいったい何なの!?」


「みんな落ち着いて! この霧、昨日のアルトパテルに比べれば悪意は全然感じないよ」


 レイも最後尾に続くが、彼はこの感触を以前どこかで感じたことがあった。そのため他の二人に比べればまだ冷静でいられた。


「いやいや、これが落ち着いていられるかっての! レイはどーゆー図太い神経してんのよ! 感じないの!? この心の奥底から這い上がってくるような気持ち悪い強制感!」


 それは自分の心の中にいる別の何かが、意思を乗っ取って動かしているような感覚。それは不快感ではない。ただ、それに絶対にあらがえないということからくる、どうしようもない不安。


「…『とれんぶる』…よんでる、にげる、できない…」


「行くしかないよウィニー」


 ラッヘンとレイはすでに意思に逆らうことを諦めた様子で幾分か落ち着きを取り戻した口調で、まだ逆らってその場にとどまろうと足掻いているウィニーに諭すように言う。


「うー、ううー。分かってるわよぅ…。分かってるっていうか、もう体が勝手に進んじゃってるけど――」


 魔術制御の根幹は意思を魔術構成に正確に乗せること。そのために魔術士は意思を制御し把握することを常日頃から心がけている。そんな彼女にとって自分の意思が操られているこの状況は、心の中を虫が這っているような耐え難い不快であった。


「なんで私がこんな目に合わなきゃなんないのよ―――!!」


 どこにもぶつけようのない憤りを霧の海にぶちまけるウィニーを見て、レイは不思議と落ち着いた思考で自分は冷静でなんだか申し訳ないなあと他人事のように考えていたのだった。


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