第二十八話 遭難二日目の朝
重い瞼をゆっくりと開ける。ぼやけた視界に、鮮やかな緑色のものが浮かび上がってきた。
眼をこすると、思考と視界が次第にはっきりしてくる。横になっていた身体を仰向けに寝返ると、土色の天井の中心から仄かな青白い光が目に飛び込んできた。
そこでようやく、いつも見上げている自分の家の木の天井とは違うことに気づく。慌ててもう一度、横を見やった。
染み苔のベッドの上に垂れた、艶やかなエナメル質の緑髪。長い睫。小さく寝息を立てる安らかな寝顔に、一瞬見惚れてしまう。
この少女は誰だったか。なぜ自分の隣で寝ているのか――焦りが胸をよぎる。だがすぐに思い出し、大きく背伸びと欠伸をしてから、ウィニーを起こさないようにゆっくりと起き上がった。
部屋を見渡す。片隅の編み上がった籠の傍らで、ラッヘンが自分の尻尾にくるまって眠っていた。
鉄刀樹の巨木の地下に造られたこの住居には、外から光を取り入れる窓がない。部屋の中を満たすのは、幽玉鉱の青白い光だけで、昼夜の区別はつかない。
だが、いつも鍛錬のために同じ時間に起きる習慣が身についているレイの体内時計が狂っていないのなら、今は日が昇って少し経った早朝のはずだった。
枕元に置いてあった刀を手に取る。寝入っている二人を起こさないようにゆっくりと扉を開けると、外へ通じる細い階段の上から微かな陽と、ひんやり湿った空気が流れ込んできた。
地上に出て気根のアーチ門をくぐる。背後に大きな存在を感じて振り向くと、分厚い朝霧を通して差し込む陽に照らされ、その中に茫洋と浮かび上がる鉄刀樹の巨木の姿があった。
昨夜は闇に包まれ、輪郭しか確認できなかった。それなのに今は、その時より遥かに大きく感じられる。
太い幹に複雑な縦筋が無数に走る、鉄刀樹特有の樹皮は樹全体を引き締めて見せる。上層の濃い霧に半ば埋もれかけた枝葉が淡い朝光を浴び、薄い影をレイの上に落としていた。
霧海に浮かぶその姿には、堂々と年を重ねた風格がある。見上げるレイを覆いかぶさるように見下ろすのではなく、包み込むように見守っている――そんなふうに感じられた。
その姿は、レイの脳裏で師である九郎の姿に重なった。
レイは巨木に正対し、長く息を吐いてから森を満たす静寂を大きく吸い込んだ。肺の中を満たした冷たい霧が、眠気に淀んだ感覚を一気に目覚めさせる。
素振りは朝の日課だ。烏丸流の素振りとは実戦を想定した演武であり、素振りにおけるレイの仮想敵はいつも師だった。
一週間前、師の技を初めて破った。だが、それが自分の実力だとは思っていない。
マッシュウ野盗団の襲撃で、自分の剣術と立ち回りが実戦でも通用することは証明できた。だが、バルバリッチャを撃退できたのは自分の力ではなく、セント・クレドの魔剣のおかげだ。自分の剣術は魔術の前ではまるで歯が立たなかった。
対魔術師戦の経験がなかったことを言い訳にはしたくない。決定的な敗因は、一瞬で勝負を決することのできる技がなかったことだ。
その欠点を補う可能性をレイが見出したのは、九郎との最終試験で『鍔鳴り』を打ち破った渾身の袈裟斬りだった。あの一撃なら、接近戦に持ち込んで勝負を決することができる。
思い通りに身体を動かすことができた――すなわち、行動の理想像を実現化した一撃。
それをロベルトは、無意識下で働いている能力のリミッターを解除することだと言った。そして、それがセント・クレドの魔剣の力を借りたものであることも、後で説明された。
ロベルト曰く――
「セント・クレドは定形を持たない古代兵器。そのペンダントは魔剣の実体を封じ込めていた入れ物でしかない。実体はすでに資格所持者であるお前の中に移っている。つまり精神が兵装化しているんだ」
確かにあの一撃を放った時、魔剣の声が聞こえた気がする。五感が異様に研ぎ澄まされ、空気の流れさえ見えるような気がした。極限まで遅延された時間の中を、自分だけがいつも通り動いているような感覚だった。
しかし、あの一撃をいつでも放てるわけではない。
身体能力のリミッターを外すことは、肉体に過剰負荷を強いる危険な荒業だ。常時能力を全開にしていたら筋繊維はあっという間にボロボロになる。加えて、魔剣の助けなしに人間レベルの精神力でそんなことがホイホイできるわけがない――というのがロベルトの見解だった。
先代所持者のフェルディナントは、魔剣の能力によって身体能力を極限まで高めた。後に『結界剣』の名で畏怖された人外の剣技によって帝国軍を退けたが、原罪の騎士団に投降した直後に肉体も精神も限界を超え、廃人状態になってしまったという。
確かにロベルトの言う通り、セント・クレドなしであの一撃を放つのは難しいだろう――そう薄々感じている。
九郎は勝負において相手が誰だろうと手を抜いたりはしない。普段の稽古もそうだが、真剣勝負となればなおさらだ。眼にも映らない剣速ゆえ回避は不可能、不破剣技とまで言われる師が全力で放った『鍔鳴り』を刀ごと弾き飛ばして打ち破った。ということは、それをも上回る想像もつかない剣速が出ていたということだ。
正直なところ、未だに「打ち破った」という実感がない。
だが、心を静めて意識を全身に巡らせるコツは掴めた。たとえセント・クレドが発現しなくても、精神集中によって攻撃の精度を高めることはできるはずだ。
実戦において、あの時のように集中に費やす時間があるとは限らない。刹那の勝機を我が物とするには、瞬時に集中状態を作り出し、攻撃に転じなければならない。
レイがセント・クレドという強大な力を手にしながらも、それに頼らずあくまで自分の実力を高めようとするのは、彼が根っからの剣術家であり、鍛錬で身に着けた能力以外を信用していないからだ。
そしてそれは、師から体現によって教わったことでもある。
「運が結果を決することはあっても、勝負の内容は修練を裏切らん」
「修行が足りん、精進せい」
それが九郎の口癖だった。最初は剣術を教えることを拒んでいた九郎だが、いざ教えるとなるとその意気込みは凄まじかった。だがスパルタ教育は、レイにとって苦痛ではない。鍛錬によって日々どんなにわずかでも成長していくことが楽しくて仕方がなかった。
だから彼は剣を手に取った日から、毎朝の素振りを欠かしたことは一日もない。
そして――今日も同じだ。
巨木に師の姿を重ね、ゆっくりと刀を抜く。構えは正眼から少し右へ傾ぎ、壱ノ型。
頭の中から雑念を追い払う。心を落ち着かせ、静寂が広がっていく姿をイメージする。
やがて、心の中に何もない静けさが訪れた。
雑念が湧く間もないうちに、すぐさま行動の理想像を想い描く。
それは彼が毎朝の鍛錬で何千、いや何万回と繰り返した斬撃だ。明確に意識すれば瞬時に組み上がるイメージ。
理想像の完成と同時に、無意識に身体が動く。
振りかぶり。
踏み込み。
振り下ろし。
鋭い風切り音とともに薄い霧が風圧で吹き飛ばされ、一瞬、周囲の明るさが増した。
しかしレイはすぐに壱ノ型に構え直す。再び立ち込める霧の中に描いた師の姿は、全く揺らいでいない。剣速、剣圧ともに、あの時の一撃には到底及ばない。
左肩が振り下ろしの途中で、少しぶれたかもしれない。刃の軌道がわずかに歪んだだけでも刀に伝わる力に無駄が生じ、完璧な斬撃とはならない。
レイは深く息を吐く。もう一度、刀を握る手に力を入れ直し、鉄刀樹の大木と向き合った。
意識を集中させ、無心で刀を振る。一呼吸の間にまた振りかぶり、振り下ろす。
そうやって刀と一体化したレイが、何回の素振りを繰り返しただろうか。日は完全に昇り、霧降谷の底までも微かな温かみのある光を届けていた。
いつの間にか冷たい朝霧は、谷底に流れ込んできた――暖められた山肌で生み出された重く湿った濃い霧に押し流されつつあった。
「おーい、何やってんのー」
不意に間延びした声が霧の向こうから聞こえ、レイは刀を振る手を止めた。顔を声の方に向ける。大木の根元のアーチ門から、やや寝ぼけ気味のウィニーの顔がのぞいていた。
その後ろに続いて、彼女のケープの端につかまったラッヘンが大あくびをしながら、ずるずると半ば引きずられるようについてきている。バグミー族は基本的に夜行性なので朝には弱い。
「朝から鍛錬なんて感心するわねー。まあ、ちょっと前から見てたんだけど。なかなか様になってたわよ」
「うーん、まだまだなんだけどね」
言いながら構えを解き、刀を鞘に納める。
「改めて見てみると結構、業物っぽい刀ね。拵えもすごくしっかりしてるし……高いの?」
近寄ってきたウィニーが、納めた刀を見て問う。確かに言われてみれば、打刀拵えの黒漆鞘は多少目立つ。
「えーと、それなりにするらしいよ。貰い物だからはっきりとは分からないけど。道興っていう刀工らしいんだけど知ってる?」
「ミチオキ? 知らないわね。まー、刀に詳しいわけじゃないんだけど。知ってる刀工って言っても浅蘇ノ住天魔とか、獅子家永継だっけ?――それくらいよ」
レイは「おー、永継ってじいさんの刀だわ」と思ったが、それを言うと話がややこしくなりそうなので黙っておく。ウィニーもそれ以上の興味は湧かなかったようで、すぐに話題を変えた。
「あ、そうそう! ラッヘンが朝ごはん用意してくれたから呼びに来たんだったわ」
そういえば昨日の昼から何も食べていない。素振りの間は集中して気づきもしなかったが、認識した途端に空腹感が襲ってきた。
火を忌み嫌う風習を持つバグミー族は当然ながら料理にも火を用いない。ラッヘンの出してくれた食事は、彼らの主食である山菜とキノコ、地衣樹の果実、乾燥させた川魚。そして甘草の根やアセラスなどの薬草と、鉄刀樹の樹液を湧き水に加えて発酵させた「ルート」という飲み物だった。
山菜とキノコはアク抜きしたうえで塩漬けしたもので、生でも十分美味しく食べられた。緑色で円錐形の、よく分からない名前の地衣樹の果実は割ると黄色いイチジクのような小果が詰まっていて、果物というより茹でた芋に近い味と食感だった。
ルートはアルコールの含まれていないビールのような、表面が泡立った茶色い炭酸飲料だ。バグミー族では祝い事など特別な席でしか出されないご馳走なのだが、甘味の中に樹液の独特な苦みがあって正直、二人の口にはあまり合わなかった。
かと言って残すのも失礼なので、しかみ顔になりそうなのを堪えながら何とか飲み干した。
食事を終えた後、二人は前の晩の約束通り、助けてくれたお礼にラッヘンから商品を買うことにした。
ラッヘンは待ってましたと言わんばかりに通路の奥の倉庫から鉄刀樹の樹皮や手編みの籠を次々に引っ張り出し、広間の中央いっぱいに並べた。
旅立ったばかりで路銀をあまり消費したくないレイは、恩にかこつけて値段を吹っかけられるのではないかと内心びくびくしていた。だが、ラッヘンの提示する商品の値段は素人のレイが考えても分かるくらい良心的――むしろ安すぎる価格で、逆に商売として成り立っているのか心配になるほどだった。
それはラッヘンが善良な商人というより、確実に商品の相場を理解していないように見えた。霧降谷ではそこらじゅうに自生している鉄刀樹も、外界においては軽量防具の最高素材とされる希少品だ。そのあたりの感覚が、どうにも噛み合っていないらしい。
そもそも霧降谷で自給自足の生活をしているバグミー族にとって、外界の通貨など本来なんの価値も持たない。普通、バグミー族が谷の外で商売をする際は物々交換を常とする。だがラッヘンはむしろ外界の通貨に興味があるようで、商品の値段を決める際も「銀色の貨幣はいっぱい持ってるから安い」とか「金ぴかの貨幣はあんまり持ってないから高い」とか、そんな感覚で決めているらしかった。
綿蔓布の掛け布が商品に並んでいないことに、あざとく気付いたウィニーが「売るとしたらいくら?」と値段を聞いてみた。ラッヘンはかなり長考した末に「きんぴか、さんまい」と言った。
それを聞いてレイは内心「高え!」と思ったが、ウィニーは「やっす!」と叫んでいた。貴族の贈答品として扱われるだけあって、末端価格でもマモン金貨二十枚は下らない代物らしい。さすがにウィニーも「いい、ラッヘン。絶対にそんな値段で売っちゃダメよ」と諭していた。
しかし、いくら安いとはいえ、商品の仕入れに来たわけでもないレイたちが荷物になる高級素材を担いで谷を上るわけにもいかない。ちなみに鉄刀樹の樹皮は加工の過程で燻蒸により水分を飛ばして軽量化させるが、鉄と同等の硬度を持つだけあって、生木からはがして乾燥させただけの状態ではかなり重い。
結局レイが買ったのは、地衣樹の茎で編まれた頑丈なロープと、麻の背嚢の底に敷く小さな編み籠だけだった。
ウィニーは「良質の火薬になるから街に来た行商人とかに売れるのよ。これだけあればいい小遣い稼ぎになるわー」と言って乾燥させた火薬蔦の粉末を大量に買い、もともと大した値段でもないのに値切りまくって――ただ同然で手に入れた麻袋に流し込んでいた。
そんなこんなで予定外の買い物を、思ったより楽しんでしまった。
彼らが不意に当初の目的――霧降谷から脱出――を思い出し、ラッヘンの案内で彼の家を発ったのは、大方昼近くになった頃だった。
【用語解説】
『ルート』
数種類の薬草と樹液を使って大きな桶で発酵させたノンアルコールビールのような飲み物。実際は2%以下のアルコールを含む。蜂蜜や甘草などで甘味をつけるのが特徴で、嗜好品というよりは薬用や滋養強壮の目的で飲まれることが多い。バグミー族に限らず世界各地で醸造されていて、その地方ごとに材料の組み合わせが異なる「地ビール」ならぬ「地ルート」がある。




