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56テールズ ~聖杯の伝説~  作者: 曽我部穂岐
第二章 霧中のエルミタージュ
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第二十八話 遭難二日目の朝

 重い瞼をゆっくりとあけると、ぼやけた視界に鮮やかな緑色の物体が浮かび上がってきた。眼をこすると次第にはっきりしてくる思考と視界。横になっていた身体を仰向けに寝返ると土色の天井の中心から仄かな青白い光が目に飛び込んできた。そこでようやくいつも見上げている自分の家の木の天井と違うことに気づいて、もう一度横を見やる。


 染み苔のベッドの上に垂れた艶やかなエナメル質の緑髪に長い睫。小さく寝息を立てる安らかな寝顔に一瞬、見惚れてしまう。この少女は誰だったか、なぜ自分の隣で寝ているのかと焦ってしまうが、すぐに思い起こして大きく背伸びと欠伸をしてから、ウィニーを起こさないようにゆっくりと起き上る。

 部屋を見渡すと片隅の編みあがった籠の傍らにはラッヘンが自分の尻尾にくるまって眠っていた。


 鉄刀樹の巨木の地下に造られたこの住居には外から光を取り入れる窓はなく、部屋の中は幽玄鉱の青白い光が満たすのみで昼夜の区別はつかない。

 だが、いつも鍛錬のために同じ時間に起きる習慣が身についているレイの体内時計が狂ってないのならば今は日が昇って少し経った早朝のはずだった。


 枕元に置いてあった刀を手に取って、寝入っている二人を起こさないようにゆっくりと扉を開けると、外へと通じる細い階段の上から微かな陽とひんやりと湿った空気が流れ込んできた。


 地上に出て気根のアーチ門をくぐり、背後に大きな存在を感じて振り向くと、分厚い朝霧を通して差し込んでくる陽に照らされて、その中に茫洋と浮かび上がる鉄刀樹の巨木の姿があった。


 昨夜は闇に包まれてその輪郭しか確認できなかったが、その時よりも遥かに大きく感じられる。太い幹に複雑な縦筋が無数に走る鉄刀樹特有の樹皮は樹全体を引き締まって見せ、上層の濃い霧に半ば埋もれかけた枝葉が淡い朝光を浴びて薄い影をレイの上に落としている。

 霧海に浮かぶ姿には堂々と年を重ねた風格があり、見上げるレイを覆いかぶさるように見下ろすのではなく、包み込むように見守っているように感じられた。その姿はレイの脳裏で師である九郎の姿に重なった。


 レイは巨木に正対すると長く息を吐いてから、森を満たした静寂を大きく吸い込んだ。肺の中を満たした冷たい霧が眠気に淀んだ感覚を一気に目覚めさせる。


 素振りは彼の朝の日課だ。烏丸流の素振りとは実戦を想定した演武である。そして、素振りにおけるレイの仮想敵はいつも師であった。


 一週間前、師の技を初めて破ったが、それが自分の実力だとは思っていない。マッシュウ野盗団の襲撃で自分の剣術と立ち回りが実戦でも通用することは証明できた。

 だが、バルバリッチャを撃退できたのは自分の力ではなく、セント・クレドの魔剣のおかげだ。自分の剣術は魔術の前では全く歯が立たなかった。


 対魔術師戦の経験がなかったことを言い訳にはしたくない。決定的な敗因は一瞬で勝負を決することのできる技がなかったこと。


 その欠点を補う可能性をレイが見出したのは、九郎との最終試験で『鍔鳴り』を打ち破った渾身の袈裟切り。あの一撃なら、接近戦に持ち込んで勝負を決することができる。


 思い通りに身体を動かすことができた、すなわち行動の理想像を実現化した一撃。それをロベルトは無意識下で働いている能力のリミッターを解除することだと言った。そしてそれがセント・クレドの魔剣の力を借りたものであることも後で説明された。


 ロベルト曰く、

「セント・クレドは定形を持たない古代兵器。そのペンダントは魔剣の実体を封じ込めていた入れ物でしかない。実体はすでに資格所持者であるお前の中に移っている。つまり精神が兵装化しているんだ」


 確かにあの一撃を放った時、魔剣の声が聞こえた気がする。五感が異様に研ぎ澄まされて、空気の流れさえ見えるような気がした。極限まで遅延された時間の中を自分だけがいつも通り動いているような感覚だった。


 しかし、あの一撃をいつでも放てるわけではない。


 身体能力のリミッターを外すことは肉体に過剰負荷を強いる危険な荒業で、常時能力を全開にしていたら身体中の筋繊維があっという間にボロボロになるし、魔剣の助けなしに人間レベルの精神力でそんなことがホイホイできるわけねえだろ、というのがロベルトの見解だ。


 先代所持者のフェルディナントは魔剣の能力によって身体能力を極限まで高め、後に『結界剣』の名で畏怖された人外の剣技によって帝国軍を退けたが、原罪の騎士団に投降した直後に肉体、精神ともに限界を超え、廃人状態になってしまったという。


 確かにロベルトの言う通りセント・クレドなしであの一撃を放つのは難しいだろうことは薄々ながら感じている。九郎は勝負において相手が誰だろうと手を抜いたりはしない。普段の稽古もそうだが、真剣勝負となればなおさらだ。


 眼にも映らない剣速ゆえ回避は不可能、不破剣技とまで言われる師が全力で放った『鍔鳴り』を刀ごと弾き飛ばして打ち破ったということは、それをも上回る想像もつかない剣速が出ていたということだ。正直なところ、未だに打ち破ったという実感がない。


 だが、心を静めて意識を全身に巡らせるコツは掴めた。たとえセント・クレドが発現しなくても、精神集中によって攻撃の精度を高めることはできるはず。実戦においてあの時のように集中に費やす時間があるとは限らない。刹那の勝機を我が物とするには、瞬時に集中状態を作り出し攻撃に転じなければならない。


 レイがセント・クレドという強大な力を手にしながらも、それに頼らずあくまで自分の実力を高めようとするのは、彼が根っからの剣術家であり、鍛錬で身に着けた能力以外を信用していないからだ。


 そして、それは師から体現によって教わったことでもある。


「運が結果を決することはあっても、勝負の内容は修練を裏切らん」

「修行が足りん、精進せい」


 それが九郎の口癖だった。最初は剣術を教えることを拒んでいた九郎だが、いざ教えるとなるとその意気込みは凄まじかった。だが、スパルタ教育はレイにとっては苦痛ではなかった。鍛錬によって日々どんなにわずかでも成長していくことが楽しくて仕方がなかった。だから彼は剣を手に取った日から、毎朝の素振りを欠かしたことは一日もない。


 そして、それは今日も同じ。


 巨木に師の姿を重ね、ゆっくりと刀を抜く。構えは正眼から少し右(かし)ぎ、壱ノ型。


 頭の中から雑念を追い払う。心を落ち着かせ、静寂が広がっていく姿をイメージする。


 やがて、心の中に何も無い静けさが訪れた。


 雑念が湧く間もないうちに、すぐさま行動の理想像を想い描く。


 それは彼が毎朝の鍛錬で何千、いや何万回と繰り返した斬撃。明確に意識すれば瞬時に組み上がるイメージ。


 理想像の完成と同時に無意識に身体が動く。


 振りかぶり。


 踏み込み。


 振り下ろし。


 鋭い風切り音とともに薄い霧が振り下ろしの風圧で吹き飛ばされて、一瞬、周囲の明るさが増した。


 しかし、レイはすぐに壱ノ型に構え直す。再び立ち込める霧の中に描いた師の姿は全く揺らいでいない。剣速、剣圧ともにあの時の一撃には到底及ばない。


 左肩が振り下ろしの動作の途中で少しぶれたかもしれない。刃の軌道がわずかに歪んだだけでも刀に伝わる力に無駄が生じて完璧な斬撃とはならない。


 レイは深く息を吐くと、もう一度、刀を握る手に力を入れ直し、鉄刀樹の大木と向き合った。


 意識を集中させ、無心で刀を振る。一呼吸の間にまた振りかぶり、振り下ろす。


 そうやって刀と一体化したレイが何回の素振りを繰り返しただろうか。日は完全に昇って、霧降谷の底までも微かな温かみのある光を届かせていた。いつの間にか冷たい朝霧は、谷底に流れ込んできた暖められた山肌で生み出された重く湿った濃い霧に押し流されつつあった。



「おーい、何やってんのー」


 不意に間延びした声が霧の向こうから聞こえて、レイは刀を振る手を止めた。顔を声の方に向けると大木の根元のアーチ門から、やや寝ぼけ気味のウィニーの顔がのぞいていた。


 その後ろに続いて、彼女のケープの端につかまったラッヘンが大あくびをしながら、ずるずると半ば引きずられるようについてきている。バグミー族は基本的に夜行性なので朝には弱い。


「朝から鍛錬なんて感心するわねー。まあ、ちょっと前から見てたんだけど、なかなか様になってたわよ」


「うーん、まだまだなんだけどね」


 言いながら構えを解いて、刀を鞘に納める。


「改めて見てみると結構業物っぽい刀ね。拵えもすごくしっかりしてるし。……高いの?」


 近寄ってきたウィニーが納めた刀を見て問う。確かに言われてみれば打刀拵うちかたなこしらえの黒漆鞘は多少目立つ。


「えーと、それなりにするらしいよ。貰い物だからはっきりとは分からないけど。道興っていう刀工らしいんだけど知ってる?」


「ミチオキ? 知らないわね。まー、刀に詳しいわけじゃないんだけどね。知ってる刀工って言っても浅蘇ノ住あさすのじゅう天魔てんまとか、獅子家しじや永継ながつぐだっけ?――それくらいよ」


 レイは、「おー、永継ってじいさんの刀だわ」と思ったが、それを言うと話がややこしくなりそうなので黙っておく。ウィニーもそれ以上の興味は湧かなかったようで、すぐに話題を変えた。


「あ、そうそう! ラッヘンが朝ごはん用意してくれたから呼びに来たんだったわ」


 そういえば昨日の昼から何も食べていない。素振りの間は集中して気付きもしなかったが認識した途端に空腹感が襲ってきた。



 火を忌み嫌う風習を持つバグミー族は当然ながら料理にも火を用いない。ラッヘンの出してくれた食事は彼らの主食である山菜とキノコと、地衣樹の果実、乾燥させた川魚、そして甘草リコリスの根やアセラスなどの薬草と鉄刀樹ダガヤサンの樹液を湧き水に加えて発酵させた、ルートと言う飲み物だった。


 山菜とキノコはアク抜きしたうえで塩漬けしたもので、生でも十分美味しく食べられた。緑色で円錐形のよく分からない名前の地衣樹の果実は、割ると黄色いイチジクのような小果が詰まっていて、果物というよりは茹でた芋に近い味と食感だった。


 ルートはアルコールの含まれていないビールのような表面が泡立った茶色い炭酸飲料で、バグミー族では祝い事など特別な席でしか出されないご馳走なのだが、甘味の中に樹液の独特な苦みがあって、正直、二人の口にはあまり合わなかった。かと言って残すのも失礼なので、しかみ顔になりそうなのを堪えながら何とか飲み干した。


 食事を終えた後、二人は前の晩の約束通り、助けてくれたお礼にラッヘンから商品を買うことにした。

 ラッヘンは待ってましたと言わんばかりに、通路の奥の倉庫から鉄刀樹の樹皮や手編みの籠を次々に引っ張り出してきて、広間の中央いっぱいに並べた。


 旅立ったばかりで路銀をあまり消費したくないレイは、恩にかこつけて値段を吹っかけられるのではないかと内心びくびくしていたが、ラッヘンの提示する商品の値段は素人のレイが考えても分かるくらい良心的な、むしろ安すぎる価格で、逆に商売として成り立っているのかと心配になるくらいだった。


 それはラッヘンが善良な商人というよりは、確実に商品の相場を理解していないようであった。霧降谷ではそこらじゅうに自生している鉄刀樹も、外界においては軽量防具の最高素材とされる希少品なのだが、そのあたりの感覚が理解できていないらしい。


 そもそも霧降谷で自給自足の生活をしているバグミー族にとっては外界の通貨など全くなんの価値も持たない。普通、バグミー族が谷の外で商売をする際は物々交換を常とするのだが、ラッヘンはむしろ外界の通貨に興味があるようで、商品の値段を決める際も「銀色の貨幣はいっぱい持ってるから安い」とか「金ぴかの貨幣はあんまり持ってないから高い」とか、そんな感覚で商品の値段を決めているらしかった。


 綿蔓布クスクタコットンの掛け布が商品に並んでいないことにあざとく気付いたウィニーがラッヘンに売るとしたらいくらか値段を聞いてみたところ、彼はかなり長考した末に「きんぴか、さんまい」と言った。

 それを聞いて、レイは内心「高え!」と思ったが、ウィニーは「やっす!」と叫んでいた。貴族の贈答品として扱われるだけあって、末端価格でもマモン金貨二十枚は下らない代物らしい。さすがにウィニーも「いい、ラッヘン。絶対にそんな値段で売っちゃダメよ」と諭していた。


 しかしいくら安いとはいえ、商品の仕入れに来たわけでもないレイたちが荷物になる高級素材を担いで谷を上るわけにもいかない。ちなみに鉄刀樹の樹皮は加工の過程で燻蒸により水分を飛ばして軽量化させるが、鉄と同等の硬度を持つだけあって生木からはがして乾燥させただけの状態ではかなり重い。


 結局、レイが買ったのは地衣樹の茎で編まれた頑丈なロープと麻の背嚢の底に敷く小さな編み籠だけだった。ウィニーは「良質の火薬になるから街に来た行商人とかに売れるのよ。これだけあればいい小遣い稼ぎになるわー」と言って乾燥させた火薬蔦マガジンラックの粉末を大量に買って、もともと大した値段でもないのに値切りまくってただ同然で手に入れた麻袋に流し込んでいた。



 そんなこんなで予定外の買い物を、思ったよりも楽しんでしまった彼らが、不意に当初の目的――霧降谷から脱出――を思い出して、ラッヘンの案内で彼の家を発ったのは大方、昼近くになった頃だった。


【用語解説】


『ルート』

数種類の薬草と樹液を使って大きな桶で発酵させたノンアルコールビールのような飲み物。実際は2%以下のアルコールを含む。蜂蜜や甘草などで甘味をつけるのが特徴で、嗜好品というよりは薬用や滋養強壮の目的で飲まれることが多い。バグミー族に限らず世界各地で醸造されていて、その地方ごとに材料の組み合わせが異なる「地ビール」ならぬ「地ルート」がある。

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