第六話 我らの時
こんな小さな町でも、町長というのはやはり忙しいらしい。幅のある軒下の隅の天井が一部抜けていて、そこを慌ただしく修理したのだろう、木の板が適当に打ち付けられている。家の主の煩雑さを物語る光景だった。
いや、彼が他人の世話を焼きすぎるがゆえの忙しさかもしれないが――この田舎町でさえこんな様子なんだから、王都ミクチュアの市長は一人じゃ過労死してしまうだろうな、とレイは思った。
実際にはミクチュアは唯一、大世界連盟直轄の都市である。王都という呼称は「すべての都の頂点にある都」――すなわち「王たる都」という意味で、「王が治める都」の略称ではない。
ゆえに市長という職は存在せず、ラテライト大陸の赤土の王国連盟の東西南北の四諸侯から相応しい者が選ばれ、執政官として政務のみを担う。
だが結論としてはレイの思う通り、こんな田舎町の町長より想像もつかぬほど忙しいことに違いはない。
たとえその者が、まったくのお節介でなかったとしても。
男は、『ただいま在宅中・町長』と白いチョークで殴り書きされた小さなボードが、ドアノブに傾いてかかっているのを確認してから、レイとジルの方を向いた。
「案内、ありがとよ。久々に長話をして少々疲れたが、それなりに……」
彼が礼を言い終わらないうちに扉が軋む音を立てて開き、中から木の箱を抱えた町長が出てきた。
町長は最初、足元の紙屑を拾おうとしていて、ドアの前の来客に気付いていなかった。だがすぐに顔を上げる。
「おお、ロベルト! どうした、遅かったじゃないか。君にしては珍しいことだ。約束の時間を一時間も過ぎているぞ。君がもう少し遅れていたら、私は柳下のダユ婆さんの所に、このシダ布の生地を持って行ってしまっていただろうよ。少し前に彼女から水樹草の葉をたくさんもらったのでね。これはその、ささやかなお礼というわけだ」
彼が遅れたのは話しながら歩いていたのもそうだが、最大の理由はレイが多くの話を聞き出そうとして、相当な遠回りをしたからだった。
「まあいい。この用事は後でもできる。だが長旅に疲れた客人を癒す一杯の、最高の紅茶は今しか出せん。散らかっているが、さあ、早く中に入ってくれ」
町長は部屋の中に木箱を置いて、そこで初めて男の背丈の後ろに見え隠れする、黒とブロンドの頭に気付いた。
「ん? お前さんの後ろにいるのはレイと、ジルか? ――そうか、分かったぞ。ロベルトを遅れさせたのはお前たちだな。まったく好奇心の強い、困った連中だ」
「いやいや、そんなことはないぞ。俺も十分、彼らに楽しませてもらったからな。あれほど俺の長話を熱心に聞いてくれる奴には、これからもそうそう出会わないだろう」
男はかぶりを振って彼らをフォローしたが、レイはまるで聞いていない。
彼はひびの入った窓から、書類か紙屑かの判別もつかないものが、積み重ねられた本と一緒に床へ散らばっている部屋を覗き込んでいる。
「そんなことより、おっさん。用事が済んだら俺の所に来て、もっといろいろ聞かせてくれよ。それに、こんな小汚い、書類と本の圧迫感で潰されそうな部屋で泊まるより、俺の家の方がずっと広いし快適だぞ。絶対」
「失礼だな、レイ。まあ、一応は片付けるつもりだったのだがな……何しろ忙しくて。いや、これでも少しは片付けたのだが……」
町長は言われた通りの散らかった部屋を振り返り、言い訳とも弁解ともつかない答えを返す。
一通り部屋を眺め、そして向き直った。
「――それより、だ。今はレイ、お前よりもロベルトだ。私に用があるのは彼だ。彼はそのために、わざわざミクチュアから訪ねてきたのだからな。それにもう黄昏も近い。お前たちは家に帰れ」
「なんだと、町長。そりゃ横暴だぞ、おーぼー!」
「そーだぞ、これは権力による理不尽な弾圧だ。我らは革命の精神を掲げ、断固戦うべし!」
ブーイングを飛ばす二人に見かねて、ロベルトが言う。
「分かった、分かった。明日の昼にでもお前の所に行ってやるから、とりあえず俺をこの家の中に入れてくれないか。行きは急ぎだが帰りはそれほどでもない。二時間ほどなら余裕があるだろう」
「明日? ……まあ、いいか。明日でも」
「ええっ、明日かよ。――明日は親父が仕入れに出ないから、店から抜け出せるかどうか分からんってのに!」
渋々の承諾とそうでない声、その二つを聞きながら、フレンネル町長ニコラ・スタールの家の扉は閉まった。
少し肌寒い風が、薄い茜色の空を撫でていく。まだ淡い下弦の月が、霧降山の向かいの空に現れた。
町の小さな広場に、ぽつりぽつりと灯りが点り始める。
◆
その頃――
南東から風が吹き、西の空が端から少しずつ群青に沈んでいく。
その空の下、切り立った断崖絶壁の上に、栗毛の馬に乗った男が佇んでいた。
山間部の黄昏は夕闇への前奏曲のように、墜ちていく太陽が眼下の幾重にも重なる森の木々に赤い影を走らせる。
そして、その先に待ち構える冷たさを予感させる風が、残照の木漏れ日を揺らす。
「バルバリッチャ様。全隊、準備整いました。いつでも出撃できます」
側の木陰から出てきた野暮ったい顎髭を生やした男がひざまずき、馬上の彼に告げた。
背後の森の中には三十人ほどの男が潜んでいる。
ある者は頑丈な鉄板の鎧、ある者はバンダナに鎖帷子。一人として同じ格好の者はいない。
人間だけでなく獣人族や鬼族など、何人かの亜人も混じっている。
そしてその手には剣や斧や短銃――思い思いの武器が握られていた。その姿から、彼らが正規の軍隊ではないことが分かる。
彼らはまるで黒子のように気配なく、森の風景に溶け込んでいる。
「今はまだだ。我らの時は満ちていない」
馬上の男は落ち着いた表情で、まだ薄く蒼い空を眺めながら呟いた。
「太陽が完全に沈みし時、闇が支配する時こそが我らの時。時、満ち足りれば一気に襲いかかれ」
その言葉に顎髭の男はにやりと笑い、深々と頭を下げる。
「では、そのように。あの程度の町、我らの手にかかれば、ものの数時間で奪い尽くせましょう」
彼らの視線の先には、山々に囲まれたフレンネルの町がある。
その小さな古ぼけた町並みは、覆い被さる山麓の森に、今にも呑み込まれてしまいそうだ。
彼らの時を恐れるかのように、旅鳥の一団が町外れの梢から一斉に飛び去った。




