第二十七話 地下住居
夜霧の中、霧降谷をさまよっていたレイとウィニーはバグミー族の陽気な商人ラッヘンの案内で彼の家に向かうことになった。
二人でさまよっているときは活躍したウィニーの『一掴みの灯』だが、夜目が利くラッヘンにとっては眩しすぎて視界の妨げになるらしく、信用を挽回しようとし灯を掲げて先頭に立ったウィニーは怪訝な表情とともに「ひかる、うにー、めいわく!」と一蹴され、少し落ち込んだりした。
ラッヘンの案内する道は、どこまで続いているかわからない仏手檜葉の深い茂みをかき分けたり、地面から飛び出た鉄刀樹の歪な気根の隙間を這いつくばってすり抜けたりする獣道で、勝手知ったるラッヘンはすいすい進んでいくのだが、深い霧でぼんやりとした闇の中に木々の輪郭がわずかに浮かぶ程度の視覚しか持たない二人はしゃがんだり立ったり曲がったりの繰り返しで、どこをどう進んでいるのか見当もつかない。
行く先の闇の中にひらひらと揺れる白い筋の浮かんだ尻尾を見失えば、さらに最悪な事態になりそうで必死にその軌跡を追うのだが、前方ばかりに注意を払っていると染み苔まみれの濡れた石に足を取られたり、不意に横から現れる山彦木の白く細い枝に顔を叩かれたりして、次第にかすり傷が増えていく。
それでも途中何度か尻尾を見失って右往左往していると、思いもしない方向から「ちがう、こっち」とつたない声がして、闇の奥に赤い瞳が光って一瞬、ぎょっとするのだが、すぐに安堵の溜息をつく。
そんなことを何回も繰り返していると幼少時からジルと一緒に山野を駆け回ってきた腕白小僧の自負、もとい体力に自信のあるレイも流石にくたびれてきた。ウィニーもはじめのうちは高そうな山羊革のケープが汚れないように気にしながら進んでいたが、今はもうなりふり構わなくなって泥だらけだ。獣道と冷たい霧がどんどん体力を奪っていき、疲労からくる眠気が次第に二人を襲う。
一向に終わらない行程に、思考もぼんやりしてきて、このバグミーは安全な棲み家ではなく悪意を持ってより谷の深みへ誘い込もうとしているのではないか、という不安が二人の脳裏に現実味を帯びて浮かび始めたころ、不意に前方の尻尾の揺らめきが止まった。
急に開けた視界の中央に現れたのは、苔むした広場の中央にそびえ立つ大きな鉄刀樹の古木だった。
樹齢百年は軽く超えているだろう。古木の上部は濃い霧にすっぽり隠れて見えないが、幹の太さを考えると高さは優に三十メートルはあるはずだ。疲れ切った二人の眼には、手前に立つラッヘンの小ささも相まって余計に大きく、そして頼もしく見える。
「ついた、おれ、いえ」
ラッヘンの指す方向には地面から突き出した衝立のような板状の気根の根元を掘って作られた、なかなか立派な根っこのアーチ門があった。門には根っこの彎曲に合わせた円形の簡素な木製の扉が取り付けてある。
「色無しの霧、じめんした、こない。あんぜん!」
巨木に見とれていたレイとウィニーにラッヘンが呼びかけて手招きする。
バクミー族の住まいは地衣樹の巨木の地下に、その地下茎を柱代わりにして作られている。地衣類とは言え、樹齢百年以上のものは幹の周囲五mを超え、地下茎は二メートルもの太さになる。それが鉄刀樹のものとなると強度は鉄筋の支柱と同じで、地上に木造の家を建てるよりはるかに頑丈だ。
二人が中腰になりながら扉をくぐり、ラッヘンの後について小さな地下階段を下ると、少し天井が高くなった土間があった。地下にもかかわらず仄かにその場所だけ明るいのは土の天井にびっしりと生えた発光苔のおかげだ。その奥に股状の地下茎の隙間に取り付けられた細長い扉があり、そこが部屋へ入り口のようだった。
「よごれ、あらう!」
ラッヘンはすぐに入り口には向かわず、土間の隅を指す。
土間の隅は一段掘り下げてあり、澄んだ水がたまった石製の洗い場になっている。よく見ると壁は鉄刀樹の太い地下茎がむき出しになっていて、洗い場の上には鉄の管が突き刺してある。
ラッヘンが管の先をふさいでいるなめし革のカバーを取ると、そこから澄んだ水がさらさらと流れ出した。地下茎の導管から直接、水を取っているようだ。
流し場に入り、ばしゃばしゃと頭から水を浴びるラッヘン。バグミー族は結構、清潔好きなのである。ラッヘンに倣って、二人も手足についた泥を洗い流すことにした。
レイが顔を洗うと鉄刀樹の水は外の霧ほど冷たくなくちょうど心地良い水温で、口に含むと木の香りとわずかな甘みがあった。
ウィニーは泥だらけになったケープを脱いで洗っていた。もともときれいな銀色だったのが茶けた灰色になってしまっていたが、もはやあきらめ顔で大胆にざぶざぶやっている。
ラッヘンの厳しいチェックを受けて何度か手足を洗い直し、靴を脱いだ後、扉をあけるとそこは広間になっていた。
地衣樹の外皮に比べれば柔らかい繊維質の内部を少しくり貫いて天井が高くしてあり、二人とも何とか頭をぶつけずに立ち上がれるくらいの高さがあった。天井の一番高い位置には丸い木枠にはめられた幽玉鉱の大きな結晶が取り付けられていた。
幽玉鉱の放つ青白い乾いた光が湿った土の匂いが漂う部屋の中を程よく照らしている。普通ならランプを照明にするのだろうが、バグミー族は火を扱えるくせにそれを絶対に使わない。霧降谷の湿度では着火しにくいことと、暗視に優れる彼らには炎の光がまぶしいということもあるが、それ以前に火を忌む習慣があるらしい。
床は乾燥させた染み苔を敷き詰めた天然の絨毯になっていて、素足で踏み入れると押し返される弾力が心地よい。染み苔は保温材の役割も果たしているらしく、冷たい霧が漂う森の中とは違って、地面の下とは思えない快適な室温が保たれている。
この部屋を中心として放射線状に三つの扉があり、小部屋へさらに小さな通路が伸びている。普通、一つの住居には一家族、七人程が住んでいるのだが、他のバグミーの姿は見当たらず、ラッヘンは一人暮らしのようであった。
広間の壁には所々根っこの突起があって、そこに籐で編んだ大きなザルや採取に使う背負いかごが引っかけてある。
「れい、うにー、おきゃく。 まつ、すこし」
興味深げに広間の中をきょろきょろと見回す二人にラッヘンは告げると、突き当りの通路へと消えていった。
通路は天井が低く、レイとウィニーは膝をついて這わないと進めそうにない。だが、長さは数メートルほどしかなく、奥の広まった空間を覗き見ることができる。
その部屋は商品置場のようで、大きな鉄刀樹の樹皮や乾燥させた火薬蔦の茎を束ねたもの、それにその器用な手先で編まれた売り物用の籠などが部屋の中いっぱいにきれいに陳列されていた。
ラッヘンは部屋の一番奥に積み上げられていた麻袋の山から彼の身の丈ほどもある二つの袋を引っ張り出して、引きずりながら広間に持ってきた。
「おれ、よる、うごく。にんげん、よる、ねる。 ――きょう、おそい、よる」
そう言いながら片方の袋の中から白い掛け布を引っ張り出す。広げると大人二人がすっぽり包まれるほどの大きさがあった。
「すごい…これ、綿蔓布じゃない! こんな大きなものなんて見たことないわ」
それを手にしたウィニーが驚嘆の声を上げる。無根綿蔓は霧の寒さから葉茎を守るために、細長い蔓全体を真っ白な分厚い綿毛が覆っている霧降谷の特異な環境下に適応したヒルガオ科の固有種で、その茎を乾燥させると一本の太い綿糸のようになる。
その綿蔓糸で織った布のきめ細かさと保温性の高さは狐皮にも勝るとされ、希少性も相まって貴族の間で贈答品として取引されている超高級品だ。よく見るとラッヘンの首に巻かれている赤いスカーフも綿蔓布を茜で染めたもののようだった。
「そう、綿蔓布、いいもの。 …もてなし!」
ラッヘンは嬉しそうにぶんぶんと首を縦に振ってうなずく。
もう一つの袋には乾燥させた染み苔が溢れ出すほどいっぱいに詰まっていて、それを床に敷き詰めて上に綿蔓布を掛けると簡易のベッドが出来上がった。
「うわあ、すごいあったかくてふかふかだ。こりゃ、家のせんべい布団よりずっと寝心地いいぞ…! ありがとう、ラッヘン」
簡易とは思えない高級感に寝ころんだレイも思わずテンションが上がる。
「おれ、すこし、しごと。 れい、うにー、さき、ねる」
二人から絶賛されてラッヘンは少し照れくさそうに手で口元を隠してくしくしと笑い、部屋の隅に置いてあった薄く加工した竹の束を解いて床に並べると、浅い籠を編み始めた。
二人はベッドに横になって、ふんふんと鼻を鳴らしながら手際よく籠を編むラッヘンの姿を眺めていたが、規則的に左右に振られる尻尾と疲れ切った全身を優しく包むぬくもりがまぶたの重みを誘って、すぐに心地良い眠りへと落ちていった。
今や月は山脈の向こうに没した。上空を吹く風はその時を待っていたかのように、山肌を駆け下りて谷を満たした霧をどんどん底の方へと圧し下げていく。深い闇におぼろげに浮かんでいた鉄刀樹の巨木も次第に濃さを増していく霧に包まれて、やがてその姿は完全に夜霧に埋もれて見えなくなった。




