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56テールズ ~聖杯の伝説~  作者: 曽我部穂岐
第二章 霧中のエルミタージュ
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第二十七話 地下住居

 夜霧の中、霧降谷をさまよっていたレイとウィニーは、バグミー族の陽気な商人ラッヘンの案内で彼の家に向かうことになった。


 二人でさまよっているときは活躍したウィニーの『一掴みの灯』だが、夜目が利くラッヘンにとっては眩しすぎて視界の妨げになるらしい。信用を挽回しようと灯を掲げて先頭に立ったウィニーは、怪訝な表情とともに「ひかる、うにー、めいわく!」と一蹴され、少し落ち込んだりもした。


 ラッヘンの案内する道は獣道だった。どこまで続いているかわからない仏手檜葉ブシュヒバの深い茂みをかき分け、地面から飛び出た鉄刀樹ダガヤサンの歪な気根の隙間を、這いつくばってすり抜ける。勝手知ったるラッヘンはすいすい進んでいく。


 だが、深い霧でぼんやりとした闇の中、木々の輪郭がかすかに浮かぶ程度の視界しか持たない二人にとっては、しゃがんだり立ったり曲がったりの繰り返しだ。どこをどう進んでいるのか、見当もつかない。


 行く先の闇に、ひらひらと揺れる白い筋の浮かんだ尻尾を見失えば、さらに最悪の事態になりそうで必死にその軌跡を追う。だが前方ばかりに注意を払っていると、染み苔まみれの濡れた石に足を取られたり、不意に横から現れる山彦木ヤマビコノキの白く細い枝に顔を叩かれたりして、次第にかすり傷が増えていった。


 それでも途中、何度か尻尾を見失って右往左往していると、思いもしない方向から「ちがう、こっち」とつたない声が飛んでくる。闇の奥で赤い瞳が光り、一瞬ぎょっとする。――だが、すぐに安堵の溜息が漏れる。


 そんなことを何度も繰り返していると、幼少時からジルと一緒に山野を駆け回ってきた腕白小僧の自負――もとい体力に自信のあるレイも、さすがにくたびれてきた。ウィニーも、はじめのうちは高そうな山羊革ゴートスキンのケープが汚れないよう気にしながら進んでいたが、今はもうなりふり構わない。泥だらけだ。


 獣道と冷たい霧が、じわじわと体力を奪っていく。疲労からくる眠気が次第に二人を襲い、足取りは重くなった。


 一向に終わらない行程に思考もぼんやりしてくる。このバグミーは、安全な棲み家ではなく、悪意を持ってさらに谷の深みに誘い込もうとしているのではないか――そんな不安が、二人の脳裏に現実味を帯びて浮かび始めたころ。不意に前方の尻尾の揺らめきが止まった。


 急に開けた視界の中央に現れたのは、苔むした広場の中央にそびえ立つ大きな鉄刀樹ダガヤサンの古木だった。


 樹齢は百年を軽く超えているだろう。古木の上部は濃い霧にすっぽり隠れて見えないが、幹の太さを考えると高さは優に三十メートルはあるはずだ。疲れ切った二人の眼には、手前に立つラッヘンの小ささも相まって、余計に大きく、そして頼もしく見える。


「ついた、おれ、いえ」


 ラッヘンの指す方向には、地面から突き出した衝立のような板状の気根の根元を掘って作られた、なかなか立派な根っこのアーチ門があった。門には根っこの彎曲に合わせた円形の簡素な木製の扉が取り付けてある。


色無しの霧アルトパテル、じめんした、こない。あんぜん!」


 巨木に見とれていたレイとウィニーに、ラッヘンが呼びかけて手招きする。

 ――安全。その言葉に、二人は思わず顔を見合わせた。今はそれを信じたい。疑う余力が残っていなかった。


 バグミー族の住まいは、地衣樹の巨木の地下に、その地下茎を柱代わりにして作られている。地衣類とはいえ樹齢百年以上のものは幹の周囲五メートルを超え、地下茎は二メートルもの太さになる。それが鉄刀樹のものとなると強度は鉄筋の支柱と同じで、地上に木造の家を建てるよりはるかに頑丈だ。


 二人が中腰になりながら扉をくぐり、ラッヘンの後について小さな地下階段を下ると、少し天井が高くなった土間があった。地下にもかかわらず、その場所だけ仄かに明るい。土の天井にびっしりと生えた発光苔のおかげだ。


 土間の奥には、股状の地下茎の隙間に取り付けられた細長い扉がある。そこが部屋への入口のようだった。


「よごれ、あらう!」


 ラッヘンはすぐに入口へ向かわず、土間の隅を指した。


 隅は一段掘り下げられていて、澄んだ水がたまった石製の洗い場になっている。よく見ると壁は鉄刀樹の太い地下茎がむき出しで、洗い場の上には鉄の管が突き刺さっていた。


 ラッヘンが管の先をふさいでいる、なめし革のカバーを取ると、そこから澄んだ水がさらさらと流れ出した。地下茎の導管から直接、水を取っているらしい。


 洗い場に入り、ばしゃばしゃと頭から水を浴びるラッヘン。バグミー族は結構、清潔好きなのである。ラッヘンに倣って、二人も手足についた泥を洗い流すことにした。


 レイが顔を洗うと、鉄刀樹の水は外の霧ほど冷たくなく、ちょうど心地よい水温だった。口に含むと木の香りと、わずかな甘みがある。


 ウィニーは泥だらけになったケープを脱いで洗っていた。もともときれいな銀色だったものが茶けた灰色になってしまっているが、もはやあきらめ顔で大胆にざぶざぶやっている。


 ラッヘンの厳しいチェックを受けて何度か手足を洗い直し、靴を脱いだ後、扉を開けると、そこは広間になっていた。


 地衣樹の外皮に比べれば柔らかい繊維質の内部を少しくり貫いて天井を高くしてあり、二人とも何とか頭をぶつけずに立ち上がれるくらいの高さがある。天井の一番高い位置には、丸い木枠にはめられた幽玉鉱オブストンの大きな結晶が取り付けられていた。


 幽玉鉱オブストンの放つ青白い乾いた光が、湿った土の匂いが漂う部屋の中を程よく照らしている。普通ならランプを照明にするのだろうが、バグミー族は火を扱えるくせに、それを絶対に使わない。霧降谷の湿度では着火しにくいこと、暗視に優れる彼らには炎の光が眩しいこと――それも理由だが、それ以前に火を忌む習慣があるらしい。


 床は乾燥させた染み苔を敷き詰めた天然の絨毯になっていて、素足で踏み入れると押し返される弾力が心地よい。染み苔は保温材の役割も果たしているらしく、冷たい霧が漂う森の中とは違って、地面の下とは思えない快適な室温が保たれていた。


 この部屋を中心として放射線状に三つの扉があり、小部屋へさらに小さな通路が伸びている。普通、一つの住居には一家族七人ほどが住んでいるのだが、他のバグミーの姿は見当たらない。ラッヘンは一人暮らしのようだった。


 広間の壁には所々根っこの突起があり、そこに籐で編んだ大きなザルや採取に使う背負いかごが引っかけてある。


「れい、うにー、おきゃく。 まつ、すこし」


 興味深げに広間の中をきょろきょろと見回す二人にそう告げると、ラッヘンは突き当たりの通路へ消えていった。


 通路は天井が低く、レイとウィニーは膝をついて這わないと進めそうだ。だが長さは数メートルほどしかなく、奥の広まった空間を覗き見ることができる。


 その部屋は商品置き場のようで、大きな鉄刀樹の樹皮や、乾燥させた火薬蔦マガジンラックの茎を束ねたもの、それに器用な手先で編まれた売り物用の籠などが、部屋いっぱいにきれいに陳列されていた。


 ラッヘンは部屋の一番奥に積み上げられていた麻袋の山から、彼の身の丈ほどもある二つの袋を引っ張り出し、引きずりながら広間に持ってきた。


「おれ、よる、うごく。にんげん、よる、ねる。 ――きょう、おそい、よる」


 そう言いながら片方の袋の中から白い掛け布を引っ張り出す。広げると大人二人がすっぽり包まれるほどの大きさがあった。


「すごい……これ、綿蔓布クスクタコットンじゃない! こんな大きなもの、見たことないわ」


 それを手にしたウィニーが驚嘆の声を上げる。


 無根ネナシ綿蔓ワタカズラは霧の寒さから葉茎を守るために、細長い蔓全体を真っ白な分厚い綿毛が覆っている。霧降谷の特異な環境下に適応したヒルガオ科の固有種で、その茎を乾燥させると一本の太い綿糸のようになる。


 その綿蔓糸で織った布のきめ細かさと保温性の高さは狐皮にも勝るとされ、希少性も相まって貴族の間で贈答品として取引されている超高級品だ。よく見ると、ラッヘンの首に巻かれている赤いスカーフも、綿蔓布をあかねで染めたもののようだった。


「そう、綿蔓布オクソーク、いいもの。 …もてなし!」


 ラッヘンは嬉しそうにぶんぶんと縦に首を振ってうなずく。


 もう一つの袋には乾燥させた染み苔が溢れ出すほどいっぱいに詰まっていて、それを床に敷き詰め、上に綿蔓布を掛けると簡易のベッドが出来上がった。


「うわあ、すごいあったかくてふかふかだ。こりゃ家のせんべい布団より、ずっと寝心地いいぞ……! ありがとう、ラッヘン」


 簡易とは思えない高級感に、寝ころんだレイも思わずテンションが上がる。


「おれ、すこし、しごと。 れい、うにー、さき、ねる」


 二人から絶賛されて、ラッヘンは少し照れくさそうに手で口元を隠し、くしくしと笑った。部屋の隅に置いてあった薄く加工した竹の束を解いて床に並べると、浅い籠を編み始める。


 二人はベッドに横になり、ふんふんと鼻を鳴らしながら手際よく籠を編むラッヘンの姿を眺めていた。規則的に左右へ振られる尻尾と、疲れ切った全身を優しく包むぬくもりがまぶたの重みを誘う。二人はほどなく、心地よい眠りへ落ちていった。


 今や月は山脈の向こうに没した。上空を吹く風はその時を待っていたかのように山肌を駆け下り、谷を満たした霧をどんどん底の方へと押し下げていく。深い闇におぼろげに浮かんでいた鉄刀樹の巨木も、次第に濃さを増していく霧に包まれ、やがてその姿は完全に夜霧に埋もれて見えなくなった。

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