第二十四話 一掴みの灯
刀を帯び、古びた薄い灰色の外套を纏った金髪の少年と、上等な銀色の山羊革のケープを羽織った緑髪の少女。霧深い谷の底を二つの影が動いていた。
地衣樹の森は霧と共に歩くにつれてその密度を増していく。折り重なった封鱗木の葉末から、あるいは太い幹から垂れさがる染み苔の端から、ぽたぽたと冷たい雫がその下を歩く二人の頭や肩に滴り落ちる。
獣道すら見当たらない深い森の中で目印になるようなものは何もない。レイが橋から落ちた場所は岸壁沿いだったが、ウィニーと戦っているうちにそこからは随分離れてしまったようだ。地衣樹の森はどこへ行っても似たような風景で今更そこへの戻り方も分からない。尾根に出るためには沢沿いに登って行けばいいんじゃないか、と素人考えで水の流れを探して見たが、小さな川の様なものすら見つからない。
そうこうしているうちにすぐに太陽は完全に山脈の陰に落ちてしまったようで、しばらくは分厚い霧越しに薄闇がまとわりついていたが、それもすぐに静かな闇へと姿を変えた。
「うーん、点かないなあ…」
「何やってんの?」
しゃがんで束ねた何かに向かって赤燧石をカチカチと打ち合わせているレイを覗きこむ。
「暗くなってきたから小枝で松明を作ったんだよ。でもこの湿度じゃ着火しないみたいだ」
レイが束ねたのは山彦木のひょろりと細い先端の小枝。確かにレイの言うとおり周囲の湿度もあるが、普通の樹木と違って地衣樹の枝葉は水分を多く含んだ皮層で包まれているため、生木はもちろん枯れ木に見える小枝でも非常に耐火性が高い。この霧降谷には火薬蔦と呼ばれる逆に非常に可燃性の高い火薬の原料とされる植物も自生しているが、レイにその知識があるはずもない。
「ふふーん、じゃあさっそく私の出番ってわけね。ちょっとその枝貸して」
ウィニーはレイの肩越しに松明から一本の小枝をひょいと抜き取る。そして小枝を振り向いたレイの目の前に掲げた。
「照らせ、一掴みの灯!」
詠唱と同時に枝の先端に周囲の空気が渦を巻いて集まり、ボッという音がして青白い大きな光が灯った。
レイはその光量に驚いて思わずのけ反る。一歩下がって良く見ると、小枝の先端に灯ったのは炎と言うよりは光の球体に近く、近づいても熱さを感じない。
「枝の先端に魔力を集中させて発光させてるのよ。火が付いているわけじゃないから、枝が燃え尽きることもないわ」
今まで目を凝らしてようやく少し先の木の影が判別できる暗さだったのが、彼らの周囲だけ昼間のように明るい。不意に小さくなったり大きくなったりする光球が、後ろの草むらに映ったレイの影を揺らしている。
「でもこれは明るすぎね。燃費が悪過ぎて魔力が持たないわ。調整するからちょっと待ってて」
ウィニーが目を閉じて集中すると光球のぼやけた輪郭が引き締まり、光点が球の中心に凝縮された。光量が一気に安定して程良い柔らかい光が周囲を優しく照らす。その光を見ていると心まで暖かくなるようだ。
「これでよし、と」
「へー、すごいなあ。魔術って便利なんだな」
「いやいや、すごいのは魔術じゃなくて私でしょーが」
感心するレイに突っ込みながらもウィニーは自慢気に胸を張る。
「灯火ってことは、太術だけじゃなくて熒術も使えるのか」
レイはバルバリッチャしか魔術士を見たことがないので、炎に似た光を熒術だと判断したようだ。
「だから火じゃないって言ってるでしょ。増幅寄りだけど操作系統の太術よ。魔術構成全体を百%だとしたら増幅三十%、操作七十%って感じの割合ね。魔力光を生み出すことより、一定の光量を維持する方が大変なのよ」
魔術は増幅、減少、操作、質量、生成の五つに分類される魔力の組み合わせによって成り立ち、それぞれ流し込む魔力の割合によって熒術、辰術、太術、鎮術、歳術に分類される。火炎弾を生み出すのは増幅魔力だが、それを標的まで飛ばすのに必要なのは操作魔力であり、全てが一種の魔力のみで構成される魔術はあり得ない。
よって熒術士は熒術しか使えないというわけではなく、増幅魔力に長ける者を熒術士と呼んでいるに過ぎない。しかし、それぞれの系統には相性があり、たとえば増幅魔力は減少魔力と相反するため、増幅魔力に長ける熒術士は減少魔力が不得意である場合が多い。
「ふーん、それはすごいなー」
「その言い方、絶対分かってないでしょ…」
棒読みでうなずくレイをウィニーが半眼で見てつぶやく。
「ま、とにかく灯りが確保できて助かったよ。夜の谷は暗くて危ないって聞いてたし、ここで夜営しようかと思ってたけど、もう少し進んでみようか」
レイの言う危険とは狼などの野生動物ではなく植物のことだ。年中を霧に閉ざされた特殊な環境下で、地衣樹は巨大化することでわずかな太陽光をより多く得る手段を選んだが、ある種の植物群は一回でより多くの養分を得るために、動物を食料とする手段を選んだ。
光当たらぬ霧降谷の夜を支配するのは、地下茎を発達させた巨大な捕食袋を持つ巨大ウツボカズラや、踏むと破裂して麻痺毒の胞子をばらまく地雷毒キノコなど、下草に隠れて巧妙な罠を張る捕食植物だ。
「そーね。それにこんなにじめじめして冷えてる所なんかで野宿なんてしたくないわ。早く尾根にでる道を見つけましょ」
ウィニーが嫌気のさした顔で外套から滴る水を払う。もうすっかり闇に溶け込んだ谷の霧は一気に肌寒さを増していた。二人とも外套を着ているとはいえ、谷底の霧に備えたものではない。それにテントや毛布の持ち合わせもなく、着の身のままで夜営をするのはかなり心もとない。
幸いにもレイは九郎の部屋にある『ラテライト大陸の歴史』の霧降谷の項を読んだことがあり、危険な捕食植物の見つけ方を知っていたため、下草を払うため抜刀して先頭に立った。そしてその後ろからウィニーが「一掴の灯火」で周囲を照らしながら進むことにした。
既に方向感覚を失っている二人がまず考えたのは、傾斜のある方へと進んでいくということだった。ひたすら高い場所に向かっていけばいずれ尾根に出られると考えたのだ。
そしてしばらくは坂のある場所に沿って歩いていたが、半時ほどでその考えが通用しないことに気付いた。
半時前にレイが目印に斬り落とした地衣樹の枝葉を再び踏みつけたからだ。どうやら彼らは谷底の大きな窪地の堤の上を一周して、同じ場所に帰ってきてしまったようだった。
気を取り直しての窪地の反対側に降りてその先を目指すと、また小さな坂があった。しかし念のためそのまま真っ直ぐ歩いてみると、夜霧の奥に吸い込まれるような急な下り坂になっていた。どうやら谷底にはクレーターの様な深い窪地がいくつもあるらしく、高い所に向かって歩いていても先程のように堂々巡りになるか、もっと悪ければ一層道に迷ってしまう危険性が高かった。
そこで二人はひたすら真っ直ぐ歩いていくことにした。進んでいる方角が正しいかは分からない。それが最短距離でも遠回りでもいずれは必ず谷の端にぶつかるはず。
危険を避けて陽が上がるまでこの場に留まるという選択肢もあったはずだが、間違えればもっと谷の深部に進むかもしれない賭けを二人が選んだのは、動いていなければ我慢できないほどに夜霧の冷たさが増していたからだ。
だが、森の中をひたすら真っ直ぐ歩くというのは簡単に思えて案外、難しかった。
レイは危険な捕食植物に注意しながら歩いていく。たとえば、ハンガーパイプは絡みついた地衣樹の周りの地下に捕食袋があり、その青白い花の咲いた蔦が巻き付いている樹は迂回して進まなければならない。
マッドステップは犠牲者を中心に放射状に地下に菌糸を伸ばして生息域を広げていくため、不自然に動物の骨が散らばった下草の枯れた場所を見つけたら、枯れ葉の下に埋もれている可能性もあるため、一見してキノコの笠が見えなかったとしてもその範囲は安全ではない。
そういった危険性をたびたび迂回して歩いていると、もはや真っ直ぐ歩いている可能性の方が怪しくなってきていた。
一方のウィニーも常に「一掴みの灯」の光量を維持しなければいけないので集中力を切らすことができない。加えて二人とも先程の戦闘で少なからぬ体力を消耗している。初めのうちは冗談を言い合いながら、全身を包む寒さを紛らわせていたが、次第に口数も減ってその歩みは遅くなっていった。
追い打ちをかけるように、夜霧はどんどんその密度を増して行く先を阻んだ。霧が深くなっていくと同時に、谷の深部に進んでしまっているのではないかという不安が膨らんで、二人の踏み出す足を重くした。
そして身体の重みは精神的な面から来るだけではなかった。もともと大した防水加工のされていない外套はもはやその機能を果たしていない。夜霧からたっぷりの水分を吸いこんで倍以上の重さになっていた。
どれくらい歩いたのか。纏わりつく冷たい夜霧が時間の感覚も奪ってしまったようだった。もう、二人の会話が途絶えて半時ほど経っただろうか。行く先の霧に映されていた人影が不意に揺らいだ。
【用語解説】
『照らせ、一掴みの灯』
術系統:太術
魔力構成:増幅30、操作70
使用者:ウィニー・オーヴァンス
藁や木の枝など、魔力を突起物の先端に集めて光をともす魔術。暗闇でも五メートル以内は昼間ほどの視界を確保できるほど明るい。ただし光を灯したものから手を離すと消えてしまう。魔力消費は大きくないが使用時間に比例する。




