第二十一話 滅びの矛
「結晶化した肉体を元に戻しただと……貴様、一体何者だ?」
驚愕の表情を浮かべるクロ。ジャドは珍しく声を出さず、にやにやと嗤いながらその様子を見ている。
「愚問だな。お前が同じ質問に返答するというのか、ロイヤル・クラウン。好奇心は猫をも殺すというぞ。全知の賢者より、無知の愚者の方が苦悩なく安らかに死ねると思わないか?」
紳士帽の男は振り向きすらせず無表情のまま答える。そして、巫女を抱えたまま歩きだした。
男の向かう先、白蝋石の墓石があったちょうどその真裏に当たる位置には、古びて欠けた角さえ丸みを帯びた石台がある。基礎が沈下して傾いてしまっているが、台の上に厚くびっしりと生えた苔が奇跡的にその表面を平らに保っていた。
「ちっ、いちいち癇にさわる屁理屈しか言わない奴らだ。……だが、もういい。興味は失せた。お前の素姓を知ったところで金にもならない」
「くく、お前の拝金思考はぶれないな、ロイヤル・クラウン。その点は敬意を表そう」
舌打ちをしながら踵を返して離れていくクロに、刺青の男は低く笑いながらボトルを大きく傾けて、残ったコルク酒をあおった。
「おい、旦那に兄貴。そんな長ったらしい他人行儀な呼び名じゃなくて、クロって呼んでやってくれよ。俺達は『同志』だろ、ヒャハハ」
今まで沈黙していたジャドが不意に嗤う。
「クロ…? 何だ、ジャド。お前の名付けか」
「ヒャハハ、そうさ。最高にイカしてんだろ?」
「くくく、タマにクロか。相変わらずのセンスだな――いや、悪くねえ。なんならジャド、お前もポチとでも名乗ってみるか」
「ヒャハハハ! そいつは傑作じゃねえか、ヒャハ、ヒャハハ――」
「……貴様ら―――いや、もういい。好きに呼べ」
馬鹿嗤いをするジャドと含み笑いをする刺青の男に、クロは一瞬怒りを覚えて言いかかるが、すぐに全てを諦めたかのような顔つきになって溜め息をついた。
紳士帽の男はそのやり取りを横目に、労わるように巫女の身体を石台の上に寝かせた。そして、三人の方に向き直る。
「連盟がこの森を封じるために仕掛けた結界は並大抵のものではない。侵入時は外からシステムを阻害して風穴をあけることが出来たが、いまはその穴も修復されている。中からは絶対に破れない、それほどに強固な結界なのだ」
そう言って、刺青の男に目配せをした。刺青の男は一つうなずいて、足元に転がっていた人の頭大の白蝋石のかけらを片手で造作もなく拾い上げると、そのまま手を振り上げて天に放り投げた。
頭上の薄い霧にボッという音と共に空気の穴が穿たれて、白蝋石の塊は恐るべき速度で空を駆けあがる。
しかし突然、その動きが止まった。宙のある一点まで来た白蝋石は、まるで何者かがそれを受け止めたかのように空に浮いて静止している。 ――だが、それも一瞬の出来事だった。次の瞬間には弾ける音と共に蝋石は砂が崩れるように粉微塵に砕け散り、跡形もなく霧の中に消えていった。
「内側から触れたモノの存在結合を拒絶して霧に変えてしまう球体結界だ。物質はもちろん魔術すら通らない。これがこの森の全体を完全に包み込んでいる。もちろん地下もな」
刺青の男は言って、足元の石塊を蹴り転がす。森の霧が決して晴れることがないのはこの結界の為だ。そして、その霧を構成しているのは結界に拒まれて森に留まり続ける亡者の残滓だ。
「最強の盾を打ち破るのに必要なのは最強の矛だ」
紳士帽の男が石台に横たわった巫女を見下ろして言葉を続ける。
「彼女は古き世界において最も優れた魔力を有した者。残念ながらその魂はもはや輪廻の鎖環に絡めとられて滅してしまっているが、珪化刑によってその肉体は完全なままに保たれている。『器』としてこれほど上質なものは他にない」
「その巫女なら結界を破れると? だが、魂が無い者をどうやって動かすのだ。これではただの新鮮な死体だぞ」
クロの懸念にジャドが嗤いを上げる。
「ヒャハハ、新鮮な死体か! クロ、上手いこと言うじゃねえか、伝説の巫女様の遺骸に向かってよ、ヒャハハハ――」
「……『器』だと言っただろう。無いのなら入れればよいではないか」
若干の苛立ちを含んだ声で言って紳士帽の男が懐から取り出したのは、掌ほどの大きさの小さなアンティークランプ。螺旋状に尖った硝子筒が精緻な銀格子の装飾に縁取られている。その中で不安定に揺らめいているのは、周囲の温度を吸い取っているかのようにさえ感じられるほど冷たい青白色をした炎。
よく見ると炎は灯心から完全に離れて宙に浮いている。硝子筒の中で気流でも起こっているかのように複雑に渦巻いてその形を一定に留めていない。
「これはその器にふさわしい『魂』だ」
「…はッ、馬鹿な。そんなものが魂だと?」
「そうだ。誰の魂でもよいというわけではない。器に見合わぬ魂であれば拒絶反応が起こって肉体が弾け飛ぶ。これは贖罪のためだけに育て上げられた、後継者の魂なのだ」
「……育て上げられた者の魂と言ったな。それはこの死体に入れる為だけにその人間を育てたと言う意味か」
「いかにも。彼女が犯した罪は大き過ぎた。一族末代まで負わせてもまだ余りあるほどに」
だが、そう言って巫女を見下ろす紳士帽の男の視線に私怨は微塵も感じられない。むしろそこにあるのは自愛。平素は一切の感情を感じさせない男の表情だが、巫女に対する挙動の全てには盲愛にも似た情念があった。
「つまり、この女の末裔は始祖の肉体に入れられるために生かされてきた、ということか――そして、その為に殺されたと」
覆い隠す意図もない毒を含んだ言葉に、紳士帽の男はクロへと顔を上げた。
「大筋はそうだが、お前の言い方には悪意があるな。私は彼女を殺してはいないし、強制もしていない。自らを償いのために差し出した尊き者の肉体から魂を抜きとっただけだ」
「ふん、相変わらずの屁理屈だな。偽神への生贄を要求する似非神父の説法にしか聞こえん」
しかし、それに輪をかけてクロは言い返す。
「ヒャハハ、どうしたんだよクロ。やけに旦那に突っかかるじゃねえか」
ジャドの嗤いにはっとしてクロは言葉を止めた。久しく感じていなかったこの感情は、そうだ、これは嫉妬だ。彼女が盲信する『金』で買えないもの、すなわち自分の持ち得ぬ能力を持つものへの嫉妬。
クロは自分に対する浅い舌打ちをしてから、感情を押し殺した声で冷静に続けた。
「……その魂で生ける屍を造るというのか」
「死体操術ごとき稚拙な外法と同じにされるとは心外だな。――あれは残留思念を死体に強制固定させ、単純な命令をねじ込んで動かしているだけの人形遊びにしか過ぎん。今から行うのは、異なる肉体と魂の融合による新たな生命の創生……」
「生贄の次は生命の創生か。――まったく、神にでもなろうというのか」
「くどい。何度も言わせるな」
今度は明確な殺気を含んだ言葉が紳士帽の男の口から放たれた。
「お前も見ただろう。大樹から落ちてくる鬼を、精神を焼き焦がす内なる蛇を。お前は貶すことでその存在を否定しようとしているに過ぎない。見たという事実を。――だが、お前の魂は理解しているはずだ」
クロは沈黙する。彼女もそれを理解していないわけではない。ただ、惧れがそれを否定しようとして口を開かせるのだ。
「神など存在しない。在るのはただ、我らが母のみ」
紳士帽の男は追い打ちをかけるように無慈悲に、明確な真実をつき付ける。そして、それ以上の言葉を発しようとしないクロを見据えてから、ゆっくりと巫女の前に歩み寄り、その前にひざまずくと、手にしたアンティークランプを彼女の腕に抱かせた。
「さあ、生と死を繰り返す罪深き巫女よ。貴女に新たな名を与えよう」
腕に抱かれたアンティークランプの中の魂が、大きく揺らいだ。それと同時に今まで死者でも生者でもなかった彼女の存在も、大きく揺らいだ。
「シエン・ハイリヒラート―――三度目にして、世界を滅ぼす者の名だ」
薄ら明るかった森が、全てを飲み込む光に包まれて、そこから一切の音が消えた。




