第二十話 贖罪の時
「世界――」
短いが、しかしはっきりした声と共に霧の壁を破って現れたのは、首筋から両肩にかけて幾何学模様の様に複雑に入り組んだ刺青の入った大男。
「この憐れで無常な舞台に生まれ落ちた以上、我ら道化どもは、己の存在意義を求めて足掻く。生きた証をこの世界に刻もうと、理想を求め、最高点に到ろうと足掻く」
刺青の男は一度言葉を切り、歩みを止めて手に下げた古びたボトルに入った黄色い液体を口の中に流し込んだ。
「――だが、それを達成できる者は僅かにしかない。殆どの者は挫折するか、それでも諦めのつかぬ者には『時間』という名の滅びがその斧をもって定めの糸を強制的に断つ」
霧を抜けてジャドたちの方へと歩みを進めながら刺青の男は語る。
「到達者の栄光でさえ時の流れは風化させ、やがては全てと共に消え去る。いかなる偉業も、滅びの前では意味を成さぬ」
その口調は全てを諦めているかのように単調で儚い。刺青の男に続いて、紳士帽をかぶった男が霧の中から現れた。
「しかし我らは求めずして生きてはいけない。目指すものが空虚と解りつつも、砂上の蜃気楼に向かってただ闇雲に邁進しなければならぬ」
刺青の男が言い終わるとほぼ同時に、紳士帽の男の周囲の空気が渦巻いて突風が吹いた。苔の広場に溜まっていた薄い霧が吹き飛ばされて、森の中に薄ら寒い陽の光が戻った。
「…ちッ、出てきた途端、また下らん説法か。お前らと同じなどと吐き気がする」
「ヒャハハ、兄貴。当たりはこっちだったようだぜ」
ジャドとクロはそれぞれ反対の表情をしながら二人を迎えた。
「墓守は片付いたようだな。タマを使ったのか?」
「この状況じゃあ仕方ねえだろ、ヒャハハ。――だが、だいぶ持って行かれちまった。悪りいがしばらくは戦力になりそうにねえ」
ジャドは紳士帽の男の問いに、力なく嗤いながら鞘を杖代わりにして二人の方へと歩み寄る。
「憶測の禍……七体か」
紳士帽の男は白蝋石の墓石の足元に転がっている残骸を一瞥した。先程まで帯電して地面を焦がしていた電磁爪の破片も、今は完全に沈黙して太古の森の風景の一部と化している。
「いや、よくやった。手間が省けた」
連盟師団の中隊を一体で全滅させるほどの指定遺物ランクA級の古代兵器を七体も片づけたというのは驚愕すべき事実であるはずなのだが、紳士帽の男は表情をほとんど変えずに他愛ない報告を受けたかのように一言で済ませた。
「一体、何がこの下にあるというんだ。古代兵器か?」
クロはようやく力の戻った上半身を起こしながら、横半分に断たれた墓石を見上げる。
「ヒャハハ、これは『墓』だぜ? 眠ってるものは一つしかねえだろ?」
「……死体を掘り起こしてどうするつもりだ」
首を鳴らしながら嗤うジャドにクロはうんざりした表情で一応問い返す。
「ヒャハハ、まあ見てろよ」
犬人の声に刺青の男が白蝋石の墓石の前に歩み寄る。墓石はジャドによって半分に断たれたとはいえ、二メートル近い身長の男が見上げるほどの高さがある。
刺青の男は石の硬度を確かめるように幾度かその表面を触り、そしておもむろに片方の拳をふりあげた。
突き出した拳が白蝋石の中心に突き刺さり、――というよりは白蝋石が男の拳と接触することを拒んだかのように大きく膨らんだかと思うと、一瞬で放射状の亀裂が墓石全体に走り、弾けるように粉微塵になって四方に砕け散った。
バラバラと苔生した地面に白蝋石の破片が降り注ぐ。その中心の白い土煙の中から現れたのは地面に突き刺さった黒く太い円柱。
水晶の様に透き通ったその柱の中に薄ら浮かんで見えるのは―――人の顔だ。
細い顎の端正な顔立ちの女性。額の中央で分けられた長い髪。儚げな表情のまま、その瞳は静かに閉じられている。
刺青の男は白蝋石の中に封じられていたそれを確認すると、薄い笑みを浮かべて、石粉のこびりついた拳を払うと、その前からさっと身を引いた。
刺青の男と入れ替わるように、紳士帽の男が進み出て天空水晶の円柱の前に立った。
「ああ、幾千年前ぶりの再会――いささかもお変わりなく、麗しき裏切りの巫女」
紳士帽の男は悲劇の英雄のように芝居がかった仕草で手を広げる。
「かくのごとき身に成り果てた私は嫉妬すら覚えますよ」
巫女の顔と交錯して水晶の黒い鏡面に微かに映った紳士帽の男の顔には、自嘲の笑みが浮かんでいた。
「何だ、こいつは……。まさか、生きているのか?」
起き上がったクロはよろめきながらも水晶体に近づいた。その声にはわずかだが畏怖が含まれている。水晶体の中に沈んだ巫女の表情には一切の動きがなく、一見、眠っているように見える。その目が急に開かれたとしても何の違和感もない。
しかし、そこからは一切の生気が感じられない。これが死んでいる者の表情だとすれば、今まさに息を引き取ったばかりのように思える。
巫女の吸い込まれるような表情は、死と生の境目にいるモノ、人ではない何かを見ているかのような、本能的な惧れを湧きあがらせる。
「いいや、確かに死んでるぜ。――よく見ろよ。この天空水晶は『棺』じゃねえ」
ジャドは言いながら水晶体の中を覗き込む。その中に浮いた巫女の身体は周囲と密度が違うのか境目がくっきりと分かるが、その身体は黒く透き通っている。つまり、彼女は水晶の棺に入れられているのではなく、彼女自身が天空水晶の中で結晶化しているのだ。
「彼女は人体の構成物質を共有結合体に強制置換させる『珪化刑』で処刑されたのだ。今より幾千年前……時が経ち過ぎて記憶も霞むほどの太古だ」
紳士帽の男は巫女を見つめたまま、口だけを動かした。その口調は今までの無感情なものとは変わって、昔を懐かしんでいるかのように柔らかだった。
「この女は咎人か」
「いかにも。我らが母に背いた愚かな女――だが、まだ利用価値はある」
遠巻きに見ていた刺青の男がクロの問いに答える。
「さあ、贖罪の時は来たり。いまひととき、貴女の戒めを解こう」
紳士帽の男は一歩前へと踏み出し水晶体の表面に触れた。その瞬間に、周囲の大気が収縮し、森に存在するものの全ての意識がその一点に吸い込まれた。
「死して成りし五つの蛇よ、……輪廻の鎖を引き千切れ」
男が低い声で聞き慣れない言葉を呟きながら、黒い鏡面を撫でるように指を滑らせると、その跡を追うように青白い光の文字が走った。
光の文字は一瞬、輝きを増し、それと同時に文字の縁に沿って周囲の水晶体が焙られた紙のように、ぶすぶすと音を立てて浸食されて崩れ落ちていく。
崩壊は突然起こった。
じわじわと水晶体を蝕んでいた浸食が不意に止まり、描かれた光の文字が瞬間、縮退したかと思うと、太陽が弾けたような錯覚を覚えるほどの光の束となって、その場にいた全ての者の視界を塗りつぶした。
収束していく光の中から現れたのは貫頭衣に身を包んだ巫女の全身。彼女の周囲を包んでいた水晶体は光と共に砂塵のように宙へと掻き消えていく。
むき出しになった身体の結晶化が急速に解け始め、その黒く透き通った皮膚に色みとしなやかさが戻っていく。
数分も経たぬうちに巫女の身体は人間の姿を取り戻した。脚の結晶化が解けて崩れ落ちる巫女の身体を紳士帽の男が恭しく受け止めた。
【用語解説】
『天空水晶』
黒曜石のような黒い光沢を放つ結晶で、与えられた力に対して反作用をもたらす魔法金属。




