第十六話 風よ、起これ
レイの身体は濃霧を裂きながら落ちていく。霧降谷の深さは一番高い尾根から谷底の海抜零メートル地帯までで六百メートル。レイが落ちた崖から地面までの高さは分からないが、一番浅い谷の端の斜面でも百メートル以上の深さはある。谷底の地面は深い苔で覆われているとはいえ、このまま地面に墜落すれば間違いなく命はない。
レイは落下しながらもロープの端を手繰り寄せると、刀の黒漆鞘の中心に結び付けた。そうしている間にも背中越しに霧の奥から地衣樹の森が見えてくる。
背中越しに一際背の高い鉄刀樹の大木を見つけると、そこに目がけて鞘を力一杯投げつけた。
鞘は鉄刀樹の梢近くに届いて、おもりとなって円を描きロープが枝に巻き付く。だが、それを確認する間もなくレイの身体は地衣樹の木々の上に突っ込んだ。
背中や手足にシダの枝や葉が容赦なく打ちつけられて折れる。レイは苦痛に表情を歪めながらも、身を丸め腰に巻き付いたロープをしっかりと両手で握りしめる。
全身に衝撃が走り、ロープが強く張って落下するレイの身体を宙に留めた。
だが、それも一瞬だった。鉄と同等の強度を持つ鉄刀樹の枝は落下の衝撃をたわんで耐えたが、枝と身体を繋ぐ麻のロープはその衝撃を受け止めることができなかった。上方から響くロープの千切れる音と共に、身体は再び落下を始める。
(ぐっ――まずい、このままじゃ背中から地面に落ちる…!)
猫のように空中で身体を捻って体勢をうつむきに変える。迫ってくる苔色の地面までの距離はおよそ二十メートル。地面に岩や倒木などの障害物が見えないのがわずかな救いだ。無事では済まないだろうが、四肢を使って着地して衝撃を少しでも緩和するしかない。
全ての四肢を同時に地面に着く。その瞬間に曲げた四肢を伸ばし、押し上げる力で落下の衝撃を和らげる。――理想の着地態勢を頭の中に思い描きながら、迫って来る地面を睨みつける。だが、近づく地面に思わず目をつむった。
その時、つまり墜落の直前、胸元に垂れた剣を模った虹彩鉱のペンダントが虹色に揺らめいて、その中心から溢れだした淡い雪のような純白の光が全身を包みこんだ。
『おまえが信じ、想えば、全てはことごとく成る――』
頭の中に通る声が響いて、落下の速度が急激に緩まった。強烈な閃光が目を閉じたまぶたの上から視界と記憶を塗りつぶし、着地の瞬間はよく覚えていない。
両手の指先と頬に苔の湿った感触を感じてレイは目を開けた。顔だけを上げて周囲を見回す。そして胸元でかすかに淡い光の残滓を放つペンダントを手に身を起こした。
「まさか、セント・クレドが……ぐぉッ―――!?」
上から回転しながら落ちて来た黒漆鞘が頭に直撃し、言葉を中断させた。前のめりに崩れ落ちて、呻きながら後頭部を抑えて苔の地面をのたうつ。
痛みが落ち着くまでしばらく苔の上にうつぶせていたが、やがてのろのろと起き上がって怪我の具合を確かめる。
落下の際に枝葉に打たれた背中が少し痛むのと、手足の擦り傷、ロープを握り締めた時に手の皮が剥けて血がにじんでいる。そして、後頭部に大きなたんこぶができた以外には大した傷は無い。
レイは安堵のため息をつくと改めて周囲を見回した。薄暗い深い霧の中に鬱蒼とした姿を浮かべる木々は山の上で普段見るものとは違って、いずれも奇妙な形をしている。
頭上に覆いかぶさるのはレイの背丈ほどもある巨大なシダの葉。その元をたどると直径一メートルはある太い幹に鱗のような文様がびっしりとついている。これは高さ三十メートルにもなる封鱗木という古代シダで、幹や茎に刻まれた鱗の模様は密集した下葉が生育と共に枯れ落ちた後に残った葉痕だ。
背の高い封鱗木の間に生えているのは、表面が湿った青白い幹がひょろりと地面から立ち上がり、そこからが何本も枝分かれした葉のない細い枝を伸ばす樹状地衣類の山彦樹。さらに下層の茂みを作っているのは、薄緑色の人の手の様な形をした鱗片状の葉が放射状に生い茂る仏手檜葉。
山の上では岩肌や樹皮の表面などに張り付いて慎ましく生きている植物が、この場所では皆巨大化して我が物顔で森を埋め尽くしている。
谷に漂う霧は、山の上に溢れだしたそれと違って纏わりつくように重く冷たい。レイは思い出したように身震いした。
息を吸い込むと湿気を含んだ空気が肺に満たされて、その冷たさに背筋が伸びる。どうやら谷の霧に害意はないようだ。一安心して、防霧マスクを取る。
次に千切れた命綱をほどいて、刀の鞘を拾い刀帯に戻して納刀すると、苔の地面に座り込んで麻の背嚢からシトリ特製の傷薬のビンと包帯を取りだした。
手足の擦り傷に軟膏を塗りこみ、両手の傷には包帯を当てて簡易手当をする。漂うアセラスの芳香が気分を少し楽にした。
そして背嚢をひっかきまわして、その底から厚手の革製の外套を引っ張り出す。これは商会の会頭であるジルの父親が餞別にくれたもので、その昔、フレンネルを開いた北部開拓団が使っていた年季物だと言っていた。本格的な旅支度は物資の豊富なバーサーストで整える予定だったので、防寒着といってもこれくらいでたいしたものは用意していない。
立ち上がって外套を羽織ると落ちてきた崖の方を見上げた。深い霧によって視界はほとんど遮られ、地衣樹の頂すら確認することはできない。
仕方なく崖の方へと歩き出す。もしかしたら上に登れるような道があるかもしれないと思ったからだ。だが、その足はすぐに止まった。
突き当たったのは、ほぼ直角にそり立つ岩の壁。つかまれそうな多少の岩のくぼみや出っ張りはあるものの、この壁を百メートル近く登っていくような技術も気概も無かった。
先程のことを考えれば、また谷底に転落するようなリスクは避けたい。レイはめずらしく慎重になっていた。
だが、この壁沿いにつたっていけば、どこかに谷の上に抜け出せるような場所があるはず。レイはそう考えて、壁沿いに歩き始めた。
歩いていくにつれて、地面は下り坂になり霧はどんどん冷たく湿ってくる。髪の毛は濡れて額に貼り付き、頬を伝った雫がぽたぽたと滴り落ちる。
寒さに耐えながら歩いていたレイだったが、急にその歩みを止めて、後ろを振り返った。そして少しの間、見えない霧の奥を見つめていたが、首をかしげるとまた歩き出した。
しかし、すぐに立ち止まる。今度は振り返らずに耳を澄まして、辺りの音をうかがう。また、歩きだして不意に止まる。三回程その動作を繰り返して、レイは確信した。
何者かにつけられている――。
レイが歩くと少し離れた後方でわずかに草の擦れる音がするのだ。最初は霧ネズミが仏手檜葉の茂みを走っているのかと思ったが、その音はレイが歩みを止めると急に聴こえなくなり、また歩き始めると再開する。
つかず離れず、音は一定の距離を保ちながら、レイの歩みに合わせてその後をついて来ていた。
レイは墜落の際に崖の上から覗きこんでいた人影を思い出して、歩きながら刀の柄に手をかけた。先程、荷物をしまった際に、あの時に命綱としてブナの木に結びつけたロープの端を確かめると、鋭利な刃物で切断されたようにきれいな断面をしていた。あの人物が木に結びつけていた命綱を切ったとしか思えない。
しかし、後をつけて来ているのがその人物だとすると、レイと同じく崖から谷に飛び降りて来たことになる。普通なら即死するはずだし、落下音も聞いていない。第一、そんな無謀な事をするはずがない。とすれば、どこかに谷に降りるルートがあるのか…。
普段は楽観的なレイがここまで警戒するのは、後方からの音に混じって微かだが確かな殺気を感じるからだ。それは明らかにレイに向けられている。
寒さと殺気に耐えながら気付かないふりをして歩いていたレイだったが、そういう機微なやり取りは彼の得意とする所ではない。ついに痺れを切らして振り返ると、霧の奥に向かって叫んだ。
「誰だか知らないけど、そこにいるのは分かっているんだ! こそこそ隠れてないで出て来いよ!!」
そう言うと、声に反応してか一層明確になった気配の方に向かって駆け出した。
その直後、気配の方から霧を裂いて何かが飛んで来た。それを防ごうと抜刀して刀を構えたレイだったが、違和感に気付いて、とっさに地面を蹴ると横に跳んだ。
風圧がレイのいた場所を超速で吹き抜け、そのさらに後ろにあった山彦樹の青白い幹を真っ二つに断った。
(これは――魔術!)
「お前、まさか、あの時のキノコ頭か!!」
真っ先に頭に浮かんだのは、フレンネルを襲った野盗団の魔術士バルバリッチャ・マッシュウの痩せぎすの顔。
返答の代わりに霧の奥から飛んできたのは風の刃。跳び下がったレイの足元の地面を抉り、土ごと吹き飛ばされた染み苔が千切れて宙に散る。
「――風よ、起これ!」
続いて霧の奥から、凛とした声が響いた。
次の瞬間、突風が吹いた。身体に吹き付ける凄まじい風圧に思わず顔を逸らす。
周囲の深い霧も突風に弾かれて、森の中が一瞬明るくなった。
風が収まって、レイは顔を上げた。
薄れた霧の奥から現れたのは、緑髪の少女だった。




