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56テールズ ~聖杯の伝説~  作者: 曽我部穂岐
第二章 霧中のエルミタージュ
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第十五話 無色の隔絶

 レイは肌寒さを感じて、身震いをしながら目を開けた。


 先程までの木の葉のざわめきはどこへ消えたのか、空気は重々しく静まり返っている。


 首を起こして辺りを見渡すと、冷たく白々と濃い霧が立ち込めていた。仰向けに伏せたレイの身体は霧の海の底に沈んでいるかのようだ。


 薄れて、霞んだような黄色い太陽の光が霧を通して射しこんでいる。窪地を囲む木々の影は薄く長い影をレイの身体の上に伸ばしていた。


 眠気の醒めぬまなこをこじ開けて、大欠伸をした。冷え冷えとした霧が彼の肺に吸い込まれたが、それは眠気を覚ますどころか微睡まどろみの中へ逆に引きずり込むかのように意識を混濁させる。


 レイは瞼をこすりながらよろよろと立ち上がって、足元に放り出してあった麻の背嚢を拾い上げた。


 再び辺りを見回すが、ロベルトの姿はない。窪地の先の森は白い霧に覆い隠されて、木々の間から射しこむ冷たい陽の光だけが、ゆらゆらと揺れている。


「おーい、おっさん! どこだー!」


 大声で何度も呼ぶが、どこからも返答はない。まるで厚い霧の壁が呼び声を遮っているかのように声の端が虚しく窪地の中にこだまする。


 レイはしばらくその場に立ち尽くしていたが、徐々に這い上がって来る眠気に思わずよろめいた。


(……おかしいぞ、この季節に尾根の上まで濃霧が流れ出るわけがないのに)


 次第に重くなっていく瞼を何度もこすり、必死に意識を保とうと思考を巡らせる。だが身体はどんどん力が入らなくなって、考えるのも億劫になって来る。ぼやけた視界もそれが霧によるものか、微睡みによるものか区別がつかなくなりつつあった。


「まずい…とにかく、動かないと…」


 レイは気だるそうに呟いて、のろのろと歩き始めた。霧を通して冷たい陽の光は西から射している。陽の光に対して直角に南へ向かえば、街道に出られるはずだ。


 このまま微睡みに身を任せたいという誘惑を必死に振り払いながら、一歩ずつ足を進める。周囲を覆う霧はさらさらと流れながらも、レイの身体に纏わりついてその視界を惑わせる。


 レイはよろめきながら何とか窪地から這い出た。しかし、その先の森もどっぷりと濃い霧で満たされている。だが、街道はすぐ近くのはずだ。霧がなければここから見えてもおかしくない距離だ。


 木々に掴まりながら、何度も足元の岩につまずきながらも転ばないように歩みを進める。頭と瞼はどんどん重たくなり、もはや顔を上げていることができない。もう一度、地に身体を預けてしまえばどんなに楽だろうか。視線を下ろすと地面に生えた心地良さそうな下草の絨毯が手招きをしているように見えた。


 ――だが、そうしてしまうと二度と起き上がれないような気がする。眠気に勝るその不安がレイの足を動かしていた。



 どれくらいの時間、夢遊病者のように不確かな足取りで彷徨さまよっただろうか。


 歩みはゆっくりだが、確実に前に進んでいる。だが、いつまで経っても街道に辿りつく気配がない。必死に眠気を払って顔を上げると、目の前に映るのは分厚い霧の壁とその奥にかすかに見える鬱蒼と茂った木々ばかり。


 レイの思考はもはや限界だった。微睡みが意識のほとんどを覆い尽くして、今や目は閉じられようとしていた。


 つま先が転がった岩につまずいたのをきっかけに、膝ががくんと崩れて地面に着いた。そしてそのまま身体が傾き、レイの身体は下草の上に倒れ込んだ。


 レイが倒れた場所はちょうど坂になっていて、彼の身体はそのまま滑るように地面を擦りながら落ちていく。


 そしてその肩が大きな岩に当って止まった。


「―――ッ」


 幸いにもその痛覚がレイの意識を微睡みから呼び起こした。不意に冷たい風が彼の頬を撫でる。


 顔を上げると目の前の大岩の隙間に切れ目が縦に入っていて、その手前に生えた下草が揺れている。どうやらそれは風穴のようだ。この場所は少し段差の下にあり、岩の切れ目から吹き出す風によって周囲より霧が薄くなっていた。


 レイは大岩にもたれかかるようにして身を起して、地面に座りこんだ。


 風穴から吹き出す新鮮な空気を吸い込むと目の前のかすみがなくなって、意識がだいぶはっきりしてきた。


 何度か深呼吸をして精神を落ち着かせる。どうやら目の前を覆い尽くすこの厚く白い霧が方向感覚を狂わせ、意識を混濁させているようだ。


 レイは町長から昔聞いた霧降山脈周辺に古くから伝わる言い伝えを思い出した。


 それはこの霧降山脈の古称でもある「無色の隔絶アルト・パテル」。


 悪意のある霧が山越えをしようとする旅人を霧降谷に迷わせて出られなくしてしまうという北部未開拓時代の伝承だ。

 言い伝えによると旅人はある薬草を鼻に当てて、その芳香を吸い込み、眠気を覚ましながら谷から無事に抜け出したという。


 レイは辺りを見回すが、本草学の知識を持たない素人が役に立ちそうな薬草など見分けられるはずもない。だが、急に思い立って背嚢の中をあさり始めた。そして一枚の麻布とシトリが出立の際に渡してくれた傷薬のビンを取りだした。


 麻布を広げるとビンからたっぷりと傷薬の軟膏をすくい取って、布の全体に塗っていく。そして傷薬を塗った面を内側にして布を三角に二つ折りにすると、中心を口に当てて布の両端を頭の後ろで結んだ。


 簡易の「防霧マスク」である。シトリが調合したこの傷薬に含まれているのは、この地方で質草芝パウングラス、あるいは一般的にアセラスとも呼ばれる切り立った崖に自生している薬草。

 芝の一種だが葉がガラスのように透き通っていて、その形容しがたい芳香には精神安定や眠気覚ましの作用がある。同量の銀と同じ価値があり、これを使った純香精油エーテルオイルは最高級品だ。


 無色の隔絶アルト・パテルの言い伝えで、旅人がその葉を鼻に当てて眠気を防いだというのもこのアセラスだ。レイは以前にシトリから調合の材料にこの薬草を使っていると聞いたことがあった。


 布越しに息を吸い込むと、清涼感の中にわずかな甘みを含んだ芳香が鼻腔に充満する。心地よい朝の目覚めのような気分になって、頭の重みと眠気が一気に引く。


 これからどうするべきか考えていると、レイの耳の奥にかすかに声が聞こえた。一瞬、空耳かと思ったが、もう一度声のした方角に耳を傾けると、確かに白い霧の奥からくぐもっていて性別の判断はつかないが呼び声が聞こえる。


「おーい、ロベルトのおっさんかー!?」


 レイは霧に向かって大声で叫ぶ。だが声がレイの呼びかけに答えることはなく、ただ「おーい、おーい」というかすかな声が一定の間隔で耳に届くばかりだ。


 レイはどうするべきか迷った。休憩していた窪地を出てから、霧の中に迷ってどこをどう歩いてここへたどり着いたのかもはや判りようもない。下手に動くなとロベルトから釘を刺されていたのもあるし、このまま霧が晴れるのを待ったほうが良いのかもしれない。


 だがレイが呼び声を聞きながら、それを無視して同じ場所で待っていられるだろうか。答えは否だ。


 最初はおとなしく風穴の岩にもたれかかっていたレイだが、呼び続ける声にそのうち居ても立ってもいられなくなり、傍らに置いてある背嚢を手に取ると立ち上がった。


「そうだ。仮におっさんじゃなくても、俺と同じように霧に惑わされた人が助けを呼んでいるのかも知れないしな!」


 レイは背嚢を背負いながら自己弁護するようにわざとらしく呟いた。そして口に当てた防霧マスクの両端を強く結び直すと、風穴から吹き出す新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んで霧の中へと踏み出した。


 なるべく霧を吸い込まないように呼吸を抑え、体勢を低くする。万が一の場合に風穴のある場所に戻って来られるように、刀ですれ違う木々の眼の高さほどの位置の枝を切り落として目印を付けながら歩く。


 麻布越しに息を吸い込むたびに浅い眠気に襲われ視界が霞むが、すぐにアセラスの芳香が意識を明確にさせてくれる。相変わらず視界は数メートル先までしか見えないが、呼ぶ声を頼りに深い霧の中を進んでいく。


 次第に下草は四葉草から背の高い緑剣草へと変わっていく。下草はすぐにレイの胸の高さほどになり、刀で草を薙ぎながら進む。


 しばらく進んで、レイは前方の違和感に足を止めた。素早く納刀し、鍔を低く下ろした構えから行く手を阻む前方の緑剣草の壁の根元を狙って抜刀する。


 霧の中に剣の様な細長い葉と青草の匂いが舞って、前方の視界が一気に開けた。


 その先にあったのは吊り橋。周囲の風景は深い霧に包まれたままだが、地面に目を凝らすとレイの立っている場所から数歩先は断崖絶壁になっていた。このまま歩みを進めていたら崖から谷に転落していただろう。


 レイは冷や汗をぬぐって、改めて目の前の吊り橋を見やった。


 人一人しか通れないその木製の吊り橋は随分古びて、長く使われていないようで底板が破れていくつも抜け落ちている。橋を吊るす両側の太い綱にはツタがびっしりと巻きついていて、風もないのに不気味に軋む音を発している。


 橋の行く先は途中で霧の中に隠れてうかがうことができないが、呼ぶ声は確かにその奥から聞こえる。


「これ、嫌な予感しかしないなあ…」


 レイは崖下の谷を満たした一層濃い霧を恐る恐る覗き込みながら、低く呟いた。


「おーい、誰かいるのか―!!」


 念のため橋の奥に大声で呼びかける。すると今まで等間隔に続いていた呼び声が不意に止んだ。そして、今度ははっきりとした男の声が返ってきた。


「――ここにいるぞ! 助けてくれ!」


「どこにいるんだ、橋の向こうか!?」


 レイの呼びかけにすぐに返事がこだまする。


「――そうだ、身動きが取れないんだ。早く来てくれ!」


 レイは橋を渡る覚悟を決めて、背嚢からロープを取り出すと、崖のそばにはえている太いブナの幹にほどけないようにしっかりと結びつけ、その反対側を自分の腰に巻きつけて命綱とした。


「おーい、今行くぞー!!」


 霧の奥に呼びかけてから、吊り橋へと踏み出した。みしりと朽ちかけた底板が音を立てる。苔がぶら下がった手すりの綱を掴みながら慎重にゆっくりと歩を進めていくと、霧の先に向こうの崖がうっすらと見えて来た。

 ちょうど橋の中央付近まで来たようだ。振り返って後ろを見ると先程までいた崖の上は霞んでほとんど見えなくなっている。



 その時、レイは向かってくる風切り音と、鋭い殺気を感じて前に向き直った。


 対岸の霧を突き破り飛び出した何かが、一瞬でレイの眼前に迫る。


 レイは半身をひるがえして寸前でそれをかわしたが、その反動で橋が大きく横に揺れた。


 顔の横すれすれを通り過ぎたそれは鞭のようにしなって向きを変え、霧の中へと巻き戻る。そして途中で向こう岸にあった吊り橋の一番太い綱の片側を断ち切った。


 橋が一気に傾いて、底板がひっくり返った。レイはとっさに手すりの綱に掴まって宙に放り出されるのを防いだが、落下に耐えている間にもう片側の綱を結びつけていた丸太の支柱が一本では橋の重みを支え切れなくなり、みしみしと音を立てながら真っ二つに折れた。


「うおおおおおっ――!?」


 頂点から放された振り子のように橋は崩れ落ちながら、元いた崖へと叩きつけられる。レイは叫びながらも綱から手を離し、腰に巻き付けたロープにつかまると、上体を反って脚を迫り来る崖の方へと向ける。


 両脚に衝撃が走り身体が岩肌に打ちつけられた。だが、上手く衝撃を緩和できたようで大した痛みはない。


「――くっ、何なんだ、今のは!」


 ばらばらと頭上に降り注ぐ底板の破片を刀の鞘で打ち払いながら、向こうの崖を睨むが、霧に隠されて何も見えなくなっている。


 レイは命綱にぶら下がったまま、橋の崩壊が終わるのを待った。下に目をやると先程まで橋だったものが、無数の木片となって谷を満たした霧の中へ崩れ落ちて消えていくのが見えて、思わず胆が冷える。


 しばらく待った後、レイはロープを伝って崖の上へ戻ろうと掴んだ手に力をこめた。


 ――だがその瞬間、急に手先が軽くなった。


 レイは顔を上げた。緩んだロープの先が蛇のようにくねりながら落ちてきていた。


 崖の上から人影が現れて、こちらを覗きこんでいるのが視界の端に映ったが、それが誰なのか認識する間もなく、レイの身体は舞い落ちる木の葉のように深い霧の中へと落下していった。

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