第十四話 欠伸
街道は山越え道に入るとその道幅を平地の半分ほどまでに狭める。人馬がかろうじてすれ違えるほどの細さの道が、斜面を這うように左右に蛇行しながら尾根へと続いている。
人の手が入っているのはせいぜい路傍から一メートルの草が刈り取られた範囲で、その先にはブナや椎の生い茂った原生林が広がっている。整備された街道とは言え、路面は落ちて来た小枝や落ち葉、斜面を転がってきた小石などで歩きやすいとは言い難い。周囲の木々は道の上に追いかぶさるように枝葉を伸ばし、陽の光はその隙間から控えめに行き先を照らす。
一時間ほど山の斜面を登っていくと、急に視界が開けて尾根に出る。
北側を見ると尾根から吹き下ろす風が、芽吹き始めた緑にところどころ混じる山桜の薄い桃色を揺らしている。
反対に尾根から南側を見下ろすと、山の急な斜面から数十メートルのところまで湧き上がった霧で谷が満たされている。向かいの峰は遥か遠方にあり、溜まった霧の表面が風に流されてうごめくさまは波のようであり、谷はまるで巨大な湖にも見える。
峠道から見える風景はその全体が淡い色に霞んでいる。
「うーん、この景色も当分見納めかぁ…」
レイは立ち止まって麻の背嚢を背負い直しながら周囲を見回す。
「そうだな。他では見られない景色だろうな」
その後ろから遅れて斜面を登って来たロベルトもレイの横に並んで足を止めると、黒革のコートの胸ポケットから煙草を取り出して咥えた。
「おお! 『竜の欠伸』だ」
霧降谷を見つめていたレイが不意に叫んで、霧の海の一点を指さした。
「なんだ、そりゃ」
レイが指した方角を見ると、風に吹かれて小波のようにうごめいていた霧の表面が盛り上がり、その下から吹き上がった泡に押し上げられたように穴が開いた。帯状に舞い上がった霧はすぐに空中に掻き消えて、空いた穴も周囲の霧が流れ込んですぐに塞がれた。
「知らないのか? この霧降谷の霧は谷底に棲んでるフォグドラゴンが生み出してるっていう言い伝えがあるんだ。あれは霧を吐き出している途中で竜が大きな欠伸をして空気を吹き上げたんだって言われてるんだよ」
「ほう、それは面白いな。フォグドラゴンは霞を食って生きてるって噂話はよく聞くが、霧を吐き出してるってのは初耳だな」
「おっさんはフォグドラゴン見たことがあるのか?」
マッチを器用に片手で擦って煙草に火を付けながら遠方の雲を眺めているロベルトに興味津々にレイが問う。
「ああ、この霧降谷の遺物調査をした時にな。あれはおそらく動いているものの中じゃあ世界で一番でかい生き物だろう。足元からだと小山を見上げているようだったな」
まあ、随分前の話だがな、と言いながら煙草をふかす。レイはその話を聞いて嘆息を漏らしながら目を輝かせている。彼にとって未知の話は好奇心を激しく刺激するようだ。
ロベルトはレイを横目に見て、釘を刺すように言う。
「地元民なら知ってるだろ、彼らが棲んでいるのは谷底だ。お前がヘマして遭難でもしない限りお目にかかれる可能性はないぞ。仮に出会ったとしても地面と一体化して寝ているだろうから、遠目にはまず気付かないだろうな」
「何で俺がヘマする前提なんだよ」
「いやな、ニコラやジルから聞いたんだが、お前相当なトラブルメーカーらしいじゃねえか。いろんなところに興味本位で首突っ込んで厄介事に巻き込まれてるって言ってたぞ」
「…うぐ、そんなことはないと思う、ぞ?」
何かしらの心当たりがあるのだろう。呻きながら目をそらすレイを半眼で見下ろす。
「なんで疑問形なんだよ。とにかくだ、これからミクチュアまで長い旅になる。道中、色んなものを見聞きするだろう。好奇心旺盛なのは大いに結構なことだが、世の中には目をつぶって通り過ぎた方が賢いことだってあるんだ。行動する前に先を見通す思慮をだな――」
諭すように忠告するロベルトの話を不意にレイが遮った。
「――おっさん、急に町長みたいなこと言いだしたな。小言が多いと余計老けて見えるぞ」
「てめえ……まあいい、確かにぐだぐだ言うのは俺の性分じゃねえ。代わりにこれからの道筋でも話しておこうか」
思わぬレイからの反撃にこめかみを引くつかせながらも、それを自制して話の話題を変えた。
「バーサーストに着くのは夕暮れ前だろうから、とりあえずはそこで一泊だな。ミクチュアにはロードシェルの港から船でブレイナー王国のエリトンを経由して向かうことになるが、その前に首都オークルオーカーに寄ってこの先の旅準備を整えよう。連盟支部で金を引き出さないとそろそろ本気で俺の懐具合がまずい」
旅費の問題はかなり切実だ。フレンネルでの逗留が思いがけず長引いたので、現状だとこの国を出るまでに金が底をつく可能性が高い。いざとなれば野宿する用意もないではないが、寝る場所と食事が暖かいに越したことはない。
九郎が出立の際にレイにそれなりの金額を渡しているようだが、できればそれに頼りたくはない。資格所持者の護送中、しかも極秘任務中に金が尽きて、護送者の懐に頼ったとなればロベルトの面子は丸潰れだ。騎士団の同僚に知られれば笑い話にされて何を言われるか分からない。
それにオークルオーカーに寄るのは旅費の調達のためだけではない。彼にはそこで確認すべきことがあった。
「オークルオーカーまではそれなりに距離があるから、徒歩で行くとなると5日くらいか。平坦な街道だから、できればバーサーストで馬を調達したいところだな。レイ、馬は扱えるか?」
「うーん、長距離は乗ったこと無いけど多分大丈夫だろ」
レイは能天気に言いながら足元の石ころを蹴飛ばす。その様子を見てロベルトは思った。こいつ、馬に乗れたら良いように考えているようだが、旅に連れていくということは道中の世話もしないといけないんだが…と。
「まあ、いざとなったら商隊にでも頼みこんで荷馬車に乗せてもらえばいいさ。バーサーストからなら、オークルオーカーに向けて定期的な物資の運輸便があるだろう」
懐具合も考慮すると馬二頭を買うのは結構痛いしな、と思い直してロベルトはつま先を尾根の上に伸びる街道の先へと向けた。
「ということで余り悠長に景色を名残惜しんでいる暇はねえ。これからまだ三時間はかかるんだ。夜の山越え道ほど危険なものはないからな。先を急ごう」
太陽は空の天辺を過ぎて西の方へ傾き始めていた。尾根の上に伸びる街道は不意に現れる家ほどもある大きな岩や根っこの絡み合った大木を避けながら、南へと続いている。
多少の起伏はあるものの、細い九十九折の登坂道とは違って、街道を往く者の歩みは速い。
時たま木々の間に見えるのは、谷に満たされた霧の中に消えていく幾筋もの山の稜線。北の方に目をやると、だんだんと遠ざかっていく丘稜の緑とうすい茶色の上にぽつんと置かれたフレンネルの町は、今や豆粒ほどの大きさになっている。
二人は道中、小さなリスや鹿の親子以外の誰ともすれ違うことなく、山越え道の半分程まで来ただろうか。街道から少しそれたところに開けた窪地を見つけて、休息を取っていた。窪地は一面が四葉草で生い茂り、まるで緑の絨毯のようだ。
レイは背嚢を投げ落すと、四葉草の上に仰向けになって大の字に寝転がった。
ロベルトは近くに沢の流れる音がすると言って、竹の水筒に水を汲みに行っている。もちろん、下手に動いて迷子になるなよという小言を残してだ。
頭上には木の枝と木の葉の緑に縁取られた青い空が開けて、吹きぬける風が木の葉のざわめきと共に山桜の花弁を運んでいく。そのさらに上には薄い雲が形を変えながらゆっくりと流れていく。
憧れていた「世界」をこれから見に行くのだ。広い空を見上げながら改めてそう思うと胸の奥から熱い高揚心が湧きあがって来る。
しかし、降り注ぐ陽の光と、地面から沸き上がる四葉草の香りが気持ちを穏やかにさせる。
勢いよく町を旅立ったとはいえ、少しの寂しさはある。優しくも厳しい老人は師であり家族でもあった。ジルやシトリ、そのほかにも多くの友人、町の人たちが暖かく自分の旅立ちを見送ってくれた。
九郎は一点の曇りもない笑顔だった。ジルは相変わらずふざけた口調だったが、目には少し涙が浮かんでいたように思う。シトリは別れの言葉を交わした時に、今までに見たことのないような澄んだ瞳で見つめて来たので少しどきりとした。
フレンネルに戻って来られるのはいつになるのだろうか、一カ月後か、一年後か、あるいは十年後か。
その時も彼らは、今朝と同じような笑顔で再び迎え入れてくれるだろうか。
流れる雲を追いかけながら止め処ない思考を巡らせていたが、それを緩める陽の光と木の葉のざわめきの子守唄に、思わず欠伸が出る。
レイはいつのまにか心地よい微睡みの中に引きずり込まれていった。
【更新情報】
『56テールズ人物紹介』に№15【ウィリストン・ヘザー】を追加しました。併せてご覧くださいませ。




