第十二話 墓荒し
「ちっ…まったくついていない」
ここは古代テオト語で「深き眠り」の名を冠する森。立ちこめる霧に遮られ、薄ら明るく射す陽の光は肌寒くすら感じる。
萌える様な鮮やかな色の若木は一本も見当たらず、森を埋め尽くす古木はそのいずれもが悠久の時の中で踠いているかのように捻じれ、歪んだ姿をしている。深い緑色の葉をたたえた枝からは水苔が垂れ下がり、こぶだらけの幹にはびっしりと染み苔が張り付き、重なり合って絡み合う太い根は地面を覆い尽くす苔の緑と一体化してその境目さえ判別できない。
まるで時が止まっているかのように、静けさだけがこの空間に存在している。森を構成する自然は重く沈滞して、ここに在るものの全てを永遠に覚めることのない微睡みへと誘う。
重い空気を払うかのように舌打ちをしたのは外套のフードを目深にかぶった女。
口元を覆う立襟に輝く、金色の王冠の刺繍を除いて、腰帯びからなめし革のブーツに至るまで全身が黒ずくめだ。
「よりによって、こいつとペアだと…」
女はローブの影から覗く、鋭く大きな瞳を横に動かした。
「ヒャハハ、なんか言ったかよ」
視線の先にいるのは犬頭人身の男。裂けそうなほど大きく開いて嗤う口には鋭い牙が並んでいる。
「うるさい、黙れ。それ以上私に近づくな」
女は吐き捨てるように言って、腰帯びに差された短剣へと手を伸ばす。フードの下に隠された猫耳がピンと立って、その形状をあらわにした。
しかし犬人は女の言に構わず、嗤いながら近づいてその肩に手を伸ばす。
「ヒャハ、つれねえこと言うなよ。俺達は『同志』だろ、黒猫ちゃん」
撫でるような犬人の声に、女は背筋を震わせて不意に歩みを止める。次の瞬間には女の腰にあった短剣は鞘から抜き放たれて、犬人の喉元に突き付けられていた。
「…おい、馬鹿犬。次にその名で呼んだら首を刎ねるぞ」
女は嫌悪感に満ちた声で凄むが、犬人は喉元の刃のことなど全く気付いていないようにますます声を張り上げて嗤った。
「ヒャハハハ、相変わらず冗談の通じねえ奴だな。あんたが気絶している間、妙な虫が寄りつかねえよう見張ってやってたってのによ」
「……貴様、妙な真似してないだろうな」
女は二度目の舌打ちをすると諦めように短剣を納めたが、その口調は警戒の色を解いていない。
「ヒャハハ、俺って信用ねえのな。それ旦那にも言われたぜ」
犬人は面白くなさそうに浅く嗤って歩みを再開する。しばらくしてその後ろから女も続いた。
二人の足音は地面を埋め尽くす苔に吸い込まれて、話し声だけが沈黙した森の中に響く。
「しかし結界を破って侵入したはいいが、脱出の手段が現地調達とは何とも間抜けな話だな」
女は先程から全く変わらない周囲の風景を見回しながら小馬鹿にしたように言った。
「ヒャハハ、心配することはねえ。それも旦那の計画のうちさ。だから今、探してんじゃねえかよ」
「こんな森の中をか。二組に分かれたところでどうにかなる広さには思えんがな」
呑気に嗤う犬人の背中に、女はフードの下で愚痴めいた呟きをこぼした。
「ヒャハハ、大体の目星は付いてんのさ。何も闇雲に歩き回ってるわけじゃねえ」
しかし、犬人は気にした風もなく歩みの速度を保ったままだ。確かに彼は迷うことなく一定の方向に進んでいる。
「――で、結局あんたのことは何て呼べばいいんだよ」
代わり映えのない風景に飽きたのか、犬人が背中を向けたまま顔だけ振り返って、黒い女に言った。
「貴様が私の名を呼ぶ必要など無い。そのだらしない口を閉じろと言っている」
女はフードの影に表情を隠したまま、鋭い視線を向ける。
「ああ、そういやぁ俺がまだ名乗ってなかったなあ。こいつは失敬したぜヒャハハ」
「――貴様人の話を聞いているのか」
女は自分の忠告など聞く様子もなく嗤う犬人に苛立ちの声を上げる。
「俺の名前はサージオージャド・クレイ。ジャドって呼んでくれ」
一向に構うことなく話を続ける犬人に、女は相手にするのを諦めたのか、フードをいっそう深く下げると視線すらその影に隠して沈黙した。
「そうだなぁ、ロイヤル・クラウンってのは暗号名だろ。ロイヤル、クラウン……ヒャハ、どっちもしっくりこねえなあ」
浅く嗤って考え込むように犬人も黙りこむ。二人の頭上を漂う霧は変わらず分厚い。その遥か上にある太陽はもう空の頂点に差しかかっているはずだが、辺りはまだ薄ら明い朝方のように感じる。
「――ああ、思い出したぜ。クロってのはどうよ、なあ?」
不意に大声を上げて手を打った犬人に、沈黙を貫いていた女も思わず顔を上げて言った。
「馬鹿か、貴様は」
その声に含まれるのは怒りよりも呆れだろう。
「いやな、あんたを見て何か見覚えがあると思ってたんだがよぉ」
犬人は立ち止まって、フードの下に隠された女の顔を除き込む。
「俺が昔飼ってたクロって猫に良く似てんだよなぁ、ヒャハハ傑作だぜ」
それを聞いたフードの影の女の気配が急変した。犬人はそれに気付いていないはずはないのだが、危機感よりも可笑しさの方が勝るのか、腹を抱えて嗤いながら続ける。
「こいつがまあ食い意地ばっか張った猫でな、でもって俺の言うことなんざ一つも聞きやしねえ。最後は鼠用の毒餌食って死んじまったんだがよ、ヒャハハハ!」
犬人の嗤い声が最高潮に達した時、鋭い殺気と共に空気を裂く音が彼の眼前に迫った。
「…貴様も同じ死に方をしたいらしいな。毒殺は得意だぞ?」
女は牙の覗いた口の端を怒りに引きつらせて笑う。
大口を開けたままの犬人の眼前には短剣の刃。ノコギリの様な刃先からはどす黒い液体が染み出ている。
それが犬人の喉に突き立てられていないのは、女が脅しで短剣を突き出したからではない。犬人が女の手首を片手で抑え込んでいるからだ。犬人が力を緩めれば毒刃が易々と彼の喉笛を裂くだろう。
「ヒャハハ、そりゃ毒殺の以前に刺殺だろ。そういうところにも可愛げってもんが――っと」
犬人は開けた口を閉じることなく嗤いを続けようとしたが、不意に声を止めて森の奥に視線を移した。
「…何だ、あれは」
女も近づいてくるそれに気付いて視線を向ける。
「ヒャッハ、お出ましだぜ。墓守がよ」
犬人は心底楽しそうに嗤うと女の手を離して、近づいてくるそれへと向き直った。女も今までの怒りが嘘のように冷静な表情に戻ると、突き出した短剣を懐にしまって、腰元の別の短剣に手を伸ばす。
「土人形とは違うようだが」
霧の中に薄ら見えるのは人の形をした影。それは女の言うように人形に見えなくもない。それが人間でないとはっきり言えるのは不自然に固い動きと、その度に軋む金属音が聞こえるからだ。
「ヒャハハ、そんなチャチなもんじゃあねえだろ。見ろよあの爪」
完全に姿を現したそれを見て犬人が嗤う。
「ありゃあ鋼鉄じゃねえ、聖銀だ。それにあのボディは凍鉄。あれが『禍』の姿さ」
それは異形。
身長は百六十センチメートルほど。一見、人を模した木偶人形だが、その身体は藍色の金属光沢を放ち、両手の先には指が無く、代わりに鋭い白銀の鉤爪が生えている。不自然に細長い顔には口鼻は無く、丸い穴が無造作に開けられただけの眼の奥に、ぼやけて不安定な赤い光を放つ瞳がある。
「ヴァラ・クーヴァ――古代テオト語で『禍の記憶』の名を持つ生物系古代兵器」
犬人は腰に下げた刀を抜きながら、舌なめずりをする。その目は闘いに餓えた「狂犬」そのものだ。
「ヒャハハ、指定遺物ランクはA3級だ」
排除すべき者を発見した「禍の記憶」は身体を軋ませながら、だらりと両手を垂らした姿勢で近づいてくる。その聖銀の鉤爪は帯電しているようで、時折バチバチと音を立てて散る火花が地面に落ちて苔を焦がす。
「しかし、こんな物騒なものを配置しているということは――」
女もフードを脱ぎ、両手に短剣を構えて姿勢を低くした戦闘態勢に入っている。
「ヒャハハ、どうやら俺達は『当たり』のようだぜ、ヒャハハハハ!!」
犬人が、森中に響き渡るような大声で嗤った。
その声に弾かれるように一陣の突風が吹いた。今までの沈殿した空気、周囲を覆っていた深い霧が一瞬で薄らぐ。
晴れていく霧の奥に現れたのは高さ十メートルはあろうかという巨石。長方形の白蝋石の一枚岩を地面に突き立てたそれは、墓石だ。
周囲の苔にまみれた地面や木々とは違って、一点のくすみもない純白の墓石。
「なあ、クロ。前言撤回してもらおうかじゃねえか」
「何のことだ、というかその名で呼ぶな」
二人は「禍」の方を向いたまま、お互い視線を合わさず会話する。
彼らの欲するものは、この墓石の下にある。そして埋葬者を墓荒しから護るのが「墓守」の役割だ。
「今さっき言ってただろ。『まったくついてない』ってよ」
「聞こえていたのか」
犬人の声は相変わらず上機嫌で、逆に女の声はいささか不機嫌だ。
「俺は人の話はきちんと聞くのがモットーなんでなぁ――ヒャハハハハ!」
「馬鹿を言っている暇があったら構えろ。来るぞ!」
嗤い声と叫び声の端は、耳をつんざく電子的な警告音にかき消された。
狂犬と黒猫のコンビ、久々の再登場です。
【更新情報】
『56テールズ人物紹介』に№12【デュハル・ベルヌーイ】、№13【ウーゴ・イェーガー】、№14【モールス・ユングニッケル】を追加しました。
併せてご覧くださいませ。




