第二話 裏切り者
「くそッ、何ということだ!!」
拳を打ち付ける音と共に、数十キログラムはあるであろう大きな桃花心木の長机が跳ねた。
机の端に乗っていた書類の山が衝撃で崩れ落ちて床の上に散らばる。
机の傍に立っていた緑髪の青年はあまりの剣幕に怯えていたが、落ちた書類に気付いてすぐさまそれを拾い集めるべきか、それとも机の主の怒りが収まるまで待つべきかを判断しかねてオロオロしていた。
部屋は桃花心木や油樹、撫樫といった高級木材の本棚に囲まれていて、二段天井の中央には幽玉鉱と真鍮で作られた豪華なシャンデリアが吊り下げられている。
その下、分厚い黒のなめし革の椅子に腰をかけているのは、大柄な壮年の犬人族の男。
灰色にところどころ茶色がかった毛並みの右手は先刻渡された書類を破れんばかりに握りしめ、その口元は鋭い犬歯がむき出しになり、鼻筋に沿って延びた大きな傷跡は眉間の中央で憤怒に歪んでいる。
机の向かい側に立っている男は、これまた大柄ではあるが対照的に冷静な顔つきで手元の書類の続きを読み上げた。
「――殺害されたのは深き眠りの森入口を警備中の前衛第四部隊十七名の内、十六名。目撃者は居らず、肝心の部隊長は消息不明」
視線を書類に落としたまま、書類をめくって続ける。
「全員背後から喉元を一掻き。その他にカーディアンが三体潰された。殺害現場の状況から内部犯の可能性がある。」
「換えの利くゴーレムはどうでもいい。カバラの土師どもにもっと頑丈な物を仕上げろと言っておけ………それより、その消息不明になっている部隊長の名前は」
怒りに震える声で机の向こうの犬人は問う。
「サージオージャド・クレイ」
「――っ、あの恩知らずめが…!」
その返答に、犬人は苦虫を噛み潰したような声を腹の底から出して呻いた。
「セシル!!」
突然、名を呼ばれた緑髪の青年はまたも大げさにびくっと肩を震わせた。その背筋が伸びて直立不動の格好になる。
犬人は怒りを抑えるように、しわだらけになった書類をゆっくりと机の上に置くと、肩肘をついて青年の方を向かずに言った。
「ジャドの治安機構での素行調査資料を読み上げろ」
「……はい、照会します。サージオージャド・クレイ。素行調査――」
返答すると同時に青年の肩から緊張の力が抜け、両腕がだらりと垂れた。
「治安機構人事報告書、ナンバー5787、閲覧制限中級」
目から怯えの色、というより感情そのものが喪失したように焦点が遠くに飛び、その口が一定のリズムで機械的な音声を発し始めた。青年は報告書を読み上げるが、その手には何も持たれてはいない。すべて彼の頭の中に記憶されているのだ。
「サージオージャド・クレイ。犬人族。男性。出身地、東方帝国、レスタ。元、ハイネグロ騎士団副団長。高地騎士剣術および神舞流斬術の使い手。かつてハイネグロ騎士団においては歴代五指に入ると評される実力者。素性、信仰、思想には問題ないものの、『狂犬』と呼ばれる戦闘狂の一面を持ち、性格面に若干の問題あり。治安機構に入隊後、連盟本部で二年間の要人警護職を経てマナスル大陸前衛部隊に配置。一年半後には前衛第四部隊の部隊長に就任。治安機構においては独断専行もなく、任務に忠実で部下の信頼も厚く、いずれは治安機構幹部候補と目され――」
そこまで読み上げて、不意に声が止まる。
男が手元の報告書から目を上げて青年の方を見ると、青年の瞳に感情が戻り、再び落ち着きなく机と床の間を彷徨っていた。しかし、すぐに男の視線に気付いたのかいくらか戸惑い気味に続きの言葉を発した。
「――推薦者は…治安機構局長デュハル・ベルヌーイ」
男が青年から机の向こう側に視線を移すと犬人の男が先程よりも口元を歪ませて、行き場のない怒りと苦堪の交った表情で机の木目を睨みつけていた。
「その通り、ジャドを連盟に推薦したのは私だ。まさか身内にあの女の息がかかっているとはな。まったくもって情けない」
犬人は苦悶とも諦めともとれる短い溜息をついて顔を上げた。
「己が身から出た錆だ。ヤツの始末は必ず一族の者がつける」
「どうぞ、ご自由に。我々は使命に従うのみ」
男の忠実な答えを聞いて、犬人はいくらか昂り過ぎた自分の感情を恥じた。
そして同時に今、最も確認すべき問題を思い出した。
「――で、名無しは何と?」
問いに男は手元の報告書から視線を上げて、犬人を見た。
「森の中心部は時空の狭間に飲み込まれつつある。もはや治安機構の一部隊の手におえる問題ではない。これ以上の人的被害を避けるために安全線まで全部隊の引き上げを、と」
「安全線……ロマンシングタウンか」
犬人は机に両肘を付いて考えこむ。神々の大陸と呼ばれるかの地で唯一人が住み、唯一森の瘴気を免れる場所、探求者の街。確かにそこまで撤退すれば最大限の安全は確保できるだろう。しかしそれが最善の選択なのか。
「私も撤退に関しては団長と同意見だ。前衛部隊に古代兵器や生物兵器の対処を任せるとなると、かなりの不安が残る。」
男は犬人に意見を述べる。最前線に立つ部隊とは言え、通常は古代遺跡の監視が任務だ。遺跡に自然発生する下級の生物兵器くらいならばなんとかなるかもしれないが、暗き深淵より這い出た、過去の亡者どもの相手が務まるとは彼には到底思えなかった。
しばらくの沈黙の後、犬人は答えを出した。
「うむ。名無しの言にも一理はあるが、奴らを野放しにするわけにもいくまい。――が、制圧するにも切り札を使うにはまだ早すぎる」
選択肢はいくつかある。しかしこの場合、どれを選んだとしても最良かどうかは判断しかねる。
「では、どのように?」
「前衛部隊は中間ラインまで撤退。機構師団の精鋭を援護に送り込む。奴らが自ら結界の中に入ったのなら、逆手にとって封じ込める。心配するな、こちらから手出しはさせん」
犬人は両肘をついたままの姿勢で視線を男に向けた。その目から怒りの色は消え、代わりに確かな意志と覚悟が存在していた。
「これで三度目だ。我らとて、ただ座してこの時を待っていたわけではない。廻りたる運命だの、避けられぬ定めだの、わしはそのようなものは信じない」
そこまで言って初めて犬人の口元に自信の笑みが浮かんだ。
「…だが、結末が訪れることだけは認めよう。今度こそ、あの女に引導を渡してみせるさ」
「承知」
男は短く答えて頭を垂れると部屋を後にした。
治安機構局長デュハル・ベルヌーイはその後ろ姿を見つめながら、静かに逆十字を切った。
「偽りなき罪人に、幸運あれ――」
音もなく閉じた分厚い部屋の扉の内側には、逆さ磔にされた罪人の紋章が彫り込まれていた。
【更新情報】
『56テールズ人物紹介』に№8【フランク・フランクリン・フェルディナント】を追加しました。
併せてご覧くださいませ。




