第一話 霧降谷
霧降谷はアルトパテル山脈――俗に言う霧降山脈の中央に位置する。
ダルムール海から吹き込んでくる、湿気を多く含んだ暖かな偏西風が山脈を越えていく過程で大きな雲となり、多量の水分を落としていく。
日が昇ると両側の山に降った雨は温められて蒸発し、集まり、濃霧となって海抜零メートル地帯の谷へと流れ落ちる。
流れ込んだ霧は冷たい谷底で消えることなく留まり続け、バケツになみなみと張られた水のように、深さ六百メートルの谷を満たしている。
谷はいつも霧の中に隠れてしまって見えない。
ひどい時には霧が谷に収まりきらず山裾から流れ出し、近辺の農村に深刻な冷害をもたらすこともある。
この分厚い霧の層は、谷に独自の生態を形成させた。
低い日照率と高い湿度は、周囲の山を占領する被子植物の勢力拡大を食い止め、谷底に地衣類の王国を作った。
その一部は薄暗い谷底でより多くの日光を得ようと背を伸ばし、樹木のような頑丈な形態に進化した。
防具の高級素材として知られる鉄刀樹も、硬質化した皮で身を護っている霧降谷固有の地衣樹だ。
針葉樹も地衣樹に混じってまばらに見られるが、それらはずば抜けて背の高い個体だけだ。背の低いものは数量的に地衣類との競争に勝てない。
谷の中層には人の背丈ほどのシダが絡み合って生え、下層の地面は重なり合うように苔がびっしりと覆い尽くしている。
この谷底の森の重く静かな景観は、この場所だけがまるで時間に逆らって太古に留まり続けているような印象を与える。
このような過湿環境で生きることができるのは、非常に限られた生物種だけだ。
いかなる環境にも適応できる生物は限られているが、ドラゴンはその最たる種である。
彼らは太古から幾度もの大量絶滅を生き抜いてきた地上最大の種族だ。数千年前の種族戦争により今や個体数は激減しているが、恐るべき生命力を持つ万能種でもある。
変温動物である竜族は、その巨体にもかかわらず多くのエネルギーを必要とせず、食料の乏しい地域でも生きられる。いざとなれば仮死状態で冬眠することもできる。
ボルカノ種は耐火性の鱗を得ることによって火山地帯に適応し、ストーム種はエラとヒレを発達させて水中での生活に適応した。アルフ種は赤外線と冷気を跳ね返すメタリックの鱗、そして大きな四枚の翼を持つことで成層圏を手中に収めた。
彼らが食料豊富な平野で生活しないのは、その隠者めいた性格のためとも言われているが、多種族との余計な接触を好まないというのもあるだろう。
その隠者たちにとって、分厚い霧の層で俗世から隔離されたこの谷は絶好の隠れ家だった。
この地に棲家を構えたのはフォグ種――巨体を誇るドラゴンの中でも最大級の種だ。
霧で体温が奪われるのを防ぐために全身が灰色の長い毛で覆われており、その姿は竜というより巨大なげっ歯類に近い。成体は体高六メートル、体重は100トンにもなる。
彼らはその大き過ぎる体を維持するために、積極的にエネルギーを摂取するよりも、なるべく消費しない方法を選んだ。
フォグドラゴンはとにかく動かない。一日中寝ている。
それでも月に一度の食事の際は400キログラムもの食料を必要とするのだが、身体の大きさから考えれば、この食事量で生きていけるのは驚異的なことだ。
彼らはほとんど動かないため、普段は地面と一体化してしまっている。毛の一本一本にびっしり苔が生えているのだ。遠くから見れば小さな丘である。
四本の太い足の指は退化して角質層になっている。苔をすり潰すために歯は臼状になり、飛ぶ必要もないため翼は退化して消え失せた。肩の付け根に翼骨の小さな突起が、その名残として残っている。
少し本題から逸れてしまうが、ドラゴンというのはまことに不可思議な種族である。
彼らの本当の生態は、我々の持つ外見の凶暴なイメージとは、多くの場合まったく異なる。根本的な偏見の否定から入ろう。
まず――ドラゴンは肉食動物ではない。
フォグ種とストーム種は苔や水草を好む菜食主義者。ボルカノ種はドラゴンの中では最も好戦的で一般に肉食と思われているが、狩りをするのは一年に一度あるかないかで、彼らの常食はなんと鉱物だ。
アルフ種に至っては何も食べない。彼らの銀色の身体にある孔雀緑の斑点模様は葉緑体を持った特殊な鱗で、光合成を行い自らエネルギーを生産するのだ。食べる必要がない彼らには消化器官もない。
ドラゴンは『飛翔する賢者』と言われるように、とても高い知能を持っている。
人間の三倍以上あるという巨大な脳で記憶し、数千年の寿命の中で哲学する。
大抵の種族の言語を理解するし、音節を用いた彼らの竜語は、あらゆる種族の中で最も高度な言語とされる。
彼らは基本的に温厚で慈悲深い。我ら愚かな人間のように同じ種族内で争うことはまずない。
また、騎士伝説にあるように洞窟に財宝を溜め込んだりもしない。
もしそのようなことがあったとしても、それは金属によって体温を調節するためであって、伝説で言われるように彼らが強欲だからではない。
しかし、この谷において最大の危険生物はフォグドラゴンではない。
彼らは草食だし、その睡眠を妨害しない限りは他生物にとってまったくの無害だ。
この森には頭上から投石をして獲物を仕留めるロッククラッカーという厄介な鳥や、ガドルホッグという肉食の大型猪がいる。だが本当に恐るべき捕食者は動物ではなく、むしろ植物である。
それらは緑と霧の中に潜んでいて、よほど注意しなければ景色の一部としか認識できない。
マッドステップという名で呼ばれているキノコは、地面を覆う苔の中に半分ほど埋もれている。
無知な動物がうっかりこのキノコを踏んでしまうと、丸い笠が破裂して大量の胞子が周囲に飛び散る。
問題なのは、その胞子が即効性の麻痺毒を含んでいるということだ。この胞子を吸い込んでしまうと、数分以内に全身が麻痺して動けなくなってしまう。
さらに胞子は数時間以内に肺の中で発芽して毛細血管へと菌糸を伸ばし、そこからヘモグロビンを破壊する特殊な物質を分泌して呼吸を停止させる。
そしてさらに体中に菌糸を伸ばして死体から養分を吸い取り、一か月で骨だけにしてしまう。
この地雷毒キノコの目的は、愚かな動物の体内に己が子孫を植えつけることなのだ。
もうひとつ注意しなければならない植物がある。
それはハンガーパイプ――巨大なウツボカズラだ。
この肉食植物はマッドステップと同じように地面に潜んでいるが、その危険度は地雷毒キノコの比ではない。
本体は地衣樹に巻きついて青白い百合のような花を咲かせているが、恐るべきは地下に伸びた茎の先についた捕獲兼消化袋だ。
この捕食植物は一体で捕獲袋を三つほど持つ。それらは本体が絡み付いている地衣樹を中心に、三方向の地面へ仕掛けられている。袋は地中に埋まり、大きな楕円形の葉で蓋がされている。
その葉の表側はびっしり苔で覆われ、周囲の地面とまったく区別がつかない。ここに一定以上の負荷が掛かると葉が内側に折りたたまれ、獲物を消化液で満たされた胃袋の中へ落下させるのだ。
この落とし穴の直径は一メートル、深さは三メートルもある。たとえ人間でも落ちてしまったら助からない。
転落者は自分の身体が溶かされていくのを待つだけだ。もっとも主な獲物は猪だが、ハンガーパイプから見れば人間も猪も食料であることに変わりはない。
もし不運にも悪意ある霧に惑わされて、この谷を歩く羽目になった時は、足元や樹上に生えている植物を個別に認識し、そのような悪意あるトラップに注意しなければならない――――
―――九郎は、そこまで読んで本を閉じた。
閉じた本の表紙には、毛筆で『アイオリス大陸の歴史』と記されている。
彼はその分厚い写本を本棚の元の位置に戻すと、窓の外を見やった。
そこからは遠くに霞がかった霧降山が見える。彼の弟子も、そろそろたどり着いた頃だろうか。
「……さて、頃合いかの」
誰に言うでもなく呟いた。
遠くから地鳴りのような低音が響いて来るような気がしたが、それは決して空耳ではないだろう。
「我が策、成れり」
九郎は満足気に笑って、傍らに置いた愛刀を手に取り、ゆっくりと立ち上がった。




