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56テールズ ~聖杯の伝説~  作者: 曽我部穂岐
第二章 霧中のエルミタージュ
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第一話 霧降谷

第二章、始まります。

 霧降谷はアルトパテル山脈、俗に言う霧降山脈の中央に位置する。


 ダルムール海から吹き込んでくる湿気を多く含んだ暖かい偏西風が山脈を越えていく過程で大きな雲となり、多量の水分を落としていく。


 日が昇ると両側の山に降った雨は暖められて蒸発し集まり、濃霧となって海抜(ゼロ)メートル地帯の谷へと流れ落ちる。

 流れ込んだ霧は冷たい谷底で消えることなく留まり続け、バケツになみなみに張られた水のように深さ六百メートルの谷を満たしている。


 谷はいつも霧の中に隠れてしまって見えない。


 ひどい時には霧が谷に収まりきらず山裾から流れ出して、近辺の農村に深刻な冷害をもたらすこともある。


 この分厚い霧の層は谷に独自の生態を形成させた。


 低い日照率と高い湿度は、周囲の山を占領する被子植物の勢力拡大を食い止め、谷底に地衣類の王国を作った。


 彼らの一部は薄暗い谷底でより多くの日光を得ようと背を伸ばし、樹木のような頑丈な形態に進化した。


 防具の高級素材として知られる鉄刀樹(ダガヤサン)も、硬質化した皮で身を護っている霧降谷固有の地衣樹だ。


 針葉樹も地衣樹に混じってまばらに見られるが、それらはずば抜けて背の高い個体だけだ。背の低いものは数量的に地衣類との競争に勝てない。


 谷の中層には人の背丈ほどのシダが絡み合って生えていて、下層の地面は重なり合うように苔がびっしりと覆い尽くしている。


 この谷底の森の重く静かな景観は、この場所だけがまるで時間に逆らって太古に留まり続けているような印象を与える。



 このように過度の湿度の環境で生きることが出来るのは、非常に限られた生物種だけだ。


 いかなる環境にも適応できる生物は限られているが、ドラゴンはその最たる種である。


 彼らは太古から幾度もの大量絶滅を生き抜いてきた地上最大の種族で、数千年前の種族戦争により今や個体数は激減しているが、恐るべき生命力の持つ万能種(ゼネラリスト)だ。


 変温動物である竜族はその巨体にもかかわらずエネルギーを多く必要とせず、食料の乏しい地域でも生きられる。いざとなると仮死状態で冬眠することも出来る。


 ボルカノ種は耐火性の鱗を得ることによって火山地帯に適応し、ストーム種はエラとヒレを発達させて水中での生活に適応した。アルフ種は赤外線と冷気を跳ね返すメタリックの鱗、そして大きな四枚の翼を持つことで成層圏を手中に収めた。


 彼らが食料豊富な平野で生活しないのは、その隠者めいた性格のためとも言われているが、多種族との余計な接触を好まないというのもあるだろう。


 その隠者たちにとって、分厚い霧の層で俗世から隔離されたこの谷は絶好の隠れ家であった。


 この地に棲家を構えたのはフォグ種、巨体を誇るドラゴンの中でも最大級の種だ。


 霧で体温が奪われるのを防ぐために全身が灰色の長い毛で覆われているので、その姿は竜というより巨大なげっ歯類に近い。成体は体高六メートル、体重は100トンにもなる。


 彼らはその大き過ぎる体を維持するために積極的にエネルギーを摂取するよりも、なるべく消費しない方法を選んだ。


 フォグドラゴンはとにかく動かない。一日中寝ている。

 それでも月に一度の食事の際は400キログラムもの食料を必要とするのだが、身体の大きさから考えれば、この食事量で生きていけるのは驚異的なことだ。


 彼らはほとんど動かないために普段は地面と一体化してしまっている。毛の一本一本にびっしり苔が生えているのだ。遠くから見れば小さな丘である。


 四本の太い足の指は退化して角質層になっている。苔を磨り潰すために歯は臼状になり、飛ぶ必要もないため翼は退化して消え失せた。肩の付け根に翼骨の小さな突起がその名残として残っている。


 少し本題から逸れてしまうが、ドラゴンというのはまことに不可思議な種族である。


 彼らの本当の生態は、我々の持つ外見の凶暴なイメージとは多くの場合において全く異なる。根本的な偏見の否定から入ろう。


 まず――ドラゴンは肉食動物でない。


 フォグ種とストーム種は苔や水草を好む菜食主義者。ボルカノ種はドラゴンの中では最も好戦的で一般に肉食と思われているが、狩りをするのは一年に一度あるかないかで、彼らの常食はなんと鉱物だ。


 アルフ種にいたっては何も食べない。彼らの銀色の身体にある孔雀緑の斑点模様は葉緑体を持った特殊な鱗で、光合成を行い自らエネルギーを生産するのだ。また食べる必要がない彼らには消化器官がない。


 ドラゴンは『飛翔する賢者(フライングワイズ)』と言われるようにとても高い知能を持っている。


 人間の三倍以上あるという巨大な脳で記憶し、数千年の寿命の中で哲学する。


 大抵の種族の言語を理解するし、音節を用いた彼らの竜語(ジブラル)は、あらゆる種族の中で最も高度な言語とされる。


 彼らは基本的には温厚で慈悲深い。我ら愚かな人間のように同じ種族内で争うことはまずない。また、騎士伝説にあるように洞窟に財宝を溜め込んだりはしない。


 もしそのようなことがあったとしても、それは金属によって体温を調節するためであって、伝説で言われるように彼らが強欲だからではない。



 しかし、この谷において最大の危険生物はフォグドラゴンではない。


 彼らは草食だし、その睡眠を妨害しない限りは他生物にとって全くの無害だ。


 この森には頭上から投石をして獲物を仕留めるロッククラッカーという厄介な鳥や、ガドルホッグという肉食の大型猪がいるが、本当の恐るべき捕食者は動物ではなく、むしろ植物である。


 彼らは緑と霧の中に潜んでいて、よほど注意しなければ景色の一部としか認識できない。


 マッドステップという名で呼ばれているキノコは地面を覆う苔の中に半分ほど埋もれている。

 無知な動物がうっかりこのキノコを踏んでしまうと、丸い笠が破裂して大量の胞子が周囲に飛び散る。


 問題なのはその胞子が即効性の麻痺毒を含んでいるということだ。この胞子を吸い込んでしまうと数分以内に全身が麻痺して動けなくなってしまう。


 さらに胞子は数時間以内に肺の中で発芽して毛細血管へとその菌糸を伸ばし、そこからヘモグロビンを破壊する特殊な物質を分泌して呼吸を停止させる。


 そしてさらに体中に菌糸を伸ばして死体から養分を吸い取り、一ヶ月で骨だけにしてしまう。この地雷毒キノコの目的は愚かな動物の体内に己が子孫を植えつけることなのだ。



 もうひとつ注意しなければならない植物がある。


 それはハンガーパイプ、巨大ウツボカズラだ。

 この肉食植物はマッドステップと同じように地面に潜んでいるが、その危険度は地雷毒キノコの比ではない。


 その本体は地衣樹に巻きついて青白い百合のような花を咲かせているが、恐るべきは地下に伸びた茎の先についている捕獲兼消化袋だ。


 この捕食者は一体で捕獲袋を三つほど持ち、それらは本体の絡み付いている地衣樹を中心に三方向の地面に仕掛けられている。袋は地中に埋まっていて、大きな楕円形の葉で蓋がされている。


 その葉の表側はびっしりと苔で覆われていて周囲の地面と全く区別が付かない。ここに一定以上の負荷が掛かると葉が内側に折りたたまれて、獲物を消化液で満たされた胃袋の中に落下させるのだ。


 この落とし穴の直径は一メートル、深さは三メートルもあるために、例え人間でも落ちてしまったら助からない。


 転落者は自分の身体が溶かされていくのを待つだけだ。もっとも彼らが主な獲物としているのは猪であるが、彼らから見れば人間も猪も食料であることに変わりはない。


 もし不運にも悪意ある霧に惑わされて、この谷を歩くはめになった時は足元や樹上に生えている植物を個別に認識し、そのような悪意あるトラップに注意しなければならない――――





 ―――九郎は、そこまで読んで本を閉じた。


 閉じた本の表紙には、毛筆で『アイオリス大陸の歴史』とタイトルが書かれている。


 彼はその分厚い写本を本棚のもとの位置に戻すと、窓の外を見やった。


 そこからは遠くに霞がかった霧降山が見える。彼の弟子もそろそろたどり着いた頃だろうか。


「…さて、頃合いかの」


 誰に言うでもなく呟いた。


 遠くから、地鳴りのような低音が響いて来るような気がしたが、それは決して空耳ではないだろう。


「我が策、成れり」


 九郎は満足気に笑って、傍らにおいた愛刀を持ってゆっくりと立ち上がった。

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