第四十話 丘の上で
レイはそれからさらに丸三日間たった今日も、食事もろくに取らずにひたすら眠り続けていた。
その間も道場には見舞いの客が絶えなかったが、レイと会話らしい会話をした者はいなかった。
だが、その合計五日という数字はまだ少ない。
いや、少な過ぎると言っていいだろう。
古代兵器は人間が使うために造られた物ではない。旧い世界の、遥かに優れた肉体と精神を持った種族が、同等の種族を本気で滅ぼすために造った殺戮のための武器だ。
人間がそんな代物を使えばただで済むほうが稀だ。
しかし彼はその極めて稀な例だ。
それは彼が魔剣に選ばれた、資格の持ち主であると言う証明である。
そして、同時に彼もまた自分と同じく運命に囚われてしまったという虚しい証明でもある。
「全ては、再び流れ始める。誰にも、止めることは出来ない……か」
ロベルトは三日前に聞いた予言詩の言葉を思い出して浅いため息をついた。
それは残酷で絶対的な響きを持った言葉だ。
だがそれは紛れもない事実で、彼自身が最も身にしみて理解している言葉でもある。
囚われてしまった者はいくら逃れようとも絶対にその牢獄から脱すること出来ない。それが運命だ。そして、その運命は正に今、流れ始めたのだ。
「問題は彼がそれを理解して受け入れることが出来るか、だな」
ロベルトは彼には似合わない深刻な表情で呟いた。しかし口に出した言葉に反して、それは事実として難しいだろうと心の中では思っていた。
レイはおそらく自分の運命を理解できない。
彼はまだ少年であり、彼の真っ直ぐな瞳は希望とまだ見ぬ世界へ期待が溢れている。
彼は、世界の深い暗闇より生まれ出て、最初から影の中にしか居場所が無いような自分とは違うのだ。与えられた真っ白な画板をいきなり黒一色で塗りつぶす少年がいるだろうか。
そう考えれば九郎の判断は正しいように思えた。
ロベルトは悩んでいた。
魔剣の所持者となったレイには、それを扱うに足る情報と知識が必要だ。しかし「知ること」が義務なのか、権利なのかは彼にも分かりかねた。
レイに、『運命』と呼ばれているものについて、どこまでを知らせる必要があるのか。
幸いにも彼の眼に映るものは、まだどれも歪んで見えてはいない。
そう考えれば、与えるのは必要最小限の情報だけで良いということになる。
どんなに足掻こうとも、いずれ迫り来るものから逃れることは恐らく叶わないだろう。
――だが、それに立ち向かうかどうかは彼自身が答えを出さなければならない。だとすれば、わずかとはいえ、その可能性を今から閉ざしてしまってはならない。
九郎が言ったように、他人から無理矢理与えられたものなど当人にとっては本当の真実とは言えない。
ロベルトは町全体を見下ろせる小さな丘の頂上にあぐらをかいて座っていた。
天気は彼の心境に相対して実に快晴だ。こういうのを小春日和というのだろう。一片の雲の断片すらない真っ青な空と、丘の傾斜を滑っていく心地よい風がこの町に平穏が戻ったことを表している。
だが、彼の心が晴れない理由はもう一つあった。
この町を襲撃したマッシュウ野盗団がどこから古代兵器の情報を得たのか、この数日町の中を探し回ったが全く分からなかった。
町の住人に疑わしい者はいなかったし、ニコラや九郎が情報を流したともやはり考えにくい。彼らにはそうするメリットが全くない。
情報がこの町から漏れたのではないとすれば、厄介なことになりそうだ。
ロベルトがこのフレンネルに来るという情報を知る者に限定すれば、自分に近しい疑いたくない者を疑わなくてはならない。
それに九郎からいくつかの重要な情報は聞けたものの、それで全てが納得できたわけではなかった。
そもそも九郎の推測も一点から見ただけのものであって、九郎自身が言うように全体像を把握するには到底至らない。
それでもかなりの知り得なかった情報を得ることは出来た。
特に『シェエラザートの予言詩録』の存在を確認できたのは大きい。あの予言詩録は彼に多くの真実の断片を与えてくれた。
彼の一族は連盟さえ知り得ない世界の真実を代々語り継いできた。
しかしそれは時間の流れと言う絶対法則によって風化され、錆と虫食いが真実を覆い隠してしまっていた。その破損を予言詩録の聖刻文字は見事に修復してくれた。
だがそれは新たな問題提起でもあった。
その真実は残酷で絶望的で、彼一人には大き過ぎて抱えようのない問題であった。
彼の一族の伝承とシェエラザートの予言が伝えようとしていることが真実だとすれば、それが不可避の未来、この世界のたどる運命だとすれば―――
「……らしくねえな」
ロベルトは突然、思考を停止させて鼻で笑った。そして自分に言い聞かせた。
「ぐだぐだ考えんのはやめだ、俺らしくねえ。流れに身を任せるのが俺のやり方だ。始まっちまったことに未練がましいことをいくら愚痴ってもしょうがねえ―――なるようになるさ」
自分に言い聞かせて彼は立ち上がった。
難題から目を逸らした途端、彼の胃およびその他の消化器官が摂取を要求する音を発した。
「……そういや腹が減ったな。朝飯食ってねえのも忘れてたぜ」
相変わらずぼさぼさの銀髪をかきながら辺りを見回すと、丘の下の古びた道場に自然と視線が行った。
銅板の錆びた煙突から炊煙があがっている。
「いきなり昼飯を馳走になりに行くのは……ちと図々しいか。しかしまた宿屋で食うとなると俺の懐が……」
これほどの長期滞在になるとは思ってもみなかったので、あまり懐に余裕がない。というよりそろそろ限界だ。
町の宿屋からは野盗から町の危機を救ってくれた恩人ということで、宿代は要らないと言われたのだが、戦闘で派手に民家の壁やら広場の石畳やらを破壊してしまった手前、恩義だけを受けるわけにもいかず、宿代は修繕費の足しにでもしてくれなどと無理して恰好を付けたのが良くなかったのかもしれない。
連盟の支部か治安機構が運営しているハンターギルドにでも行けば金が引き出せるのだが、生憎こんな田舎町にそんな施設があるはずもない。
世界の運命という大問題よりも、まず彼の前に立ちはだかる現実は本日の昼食問題であった。
「――おう、そこのおるのはロベルトではないか」
腕を組んで食料調達のための都合の良い文句を考えていると下の方から彼を呼ぶ声がした。
それは九郎だった。道場の庭先からこちらを見上げている。
「そんなところに突っ立って何をしておる?」
ロベルトは九郎の不意の出現にいささか狼狽しながら答えた。
「あー、いや……別に何かしているって訳ではないんですが……」
「………飯か?」
九郎はにやつきながらロベルトの顔を覗き込んだ。
「……何で分かったんです?」
「先程から腹を抱えて何か物欲しそうに炊煙の立つ道場のほうを見ておるではないか。それに名無しからの極秘任務なら連盟からの手当ても出まい。ミクチュアまでの帰路の費用も馬鹿にならんし自腹続きではきついじゃろう。わしのところで食ってゆけ」
「いやあ、催促したみたいですみませんねえ――」
自分でも露骨すぎるなと思うが、あまりのタイミングの良さに表情を抑えきれない。
「みたいではなく、その顔が催促しておるではないか。それにレイも今朝方から目覚めておる。そろそろ例の約束を果たしてもらわねばな」
「目覚めた? もう精神が回復したのですか? まだ休ませる必要がありますよ」
「いや、いくら急く必要が無いとはいえ、あまりに流暢なことも言っておれまい。それにレイの性格じゃ。一度起きた以上、今更休めと言っても聞かぬじゃろう」
九郎はそう言うと縁側の方へと歩いていく。
ロベルトはなるほどと頷いて、おとなしくその後を追うことにして丘を下り始めた。
霧降山から吹いてくる春風が、彼の苦悩を紛らわすかのようにその背中を押した。
小説にサブタイトルを付けてみました。




