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56テールズ ~聖杯の伝説~  作者: 曽我部穂岐
第一章 始まりの物語
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第三十二話 奇跡

 レイが目を覚ましたのは、自分の部屋の、自分の布団の上だった。だが、それに気づくまでにはしばらく時間を要した。


 焦点の合わない視界の端で、橙色の光がゆらりと滲む。次いで、その背後のくすんだ茶色が板天井だと分かり、吊り下げられた廃油ランプの火だと理解したのは、ほんの数分前のことだ。体の奥底から染み出すようなだるさがあり、関節の節々がきしむ。レイは息を吸って、重い身体を少しだけ起こした。


 視線を下ろすと、両手は肩の辺りまで包帯でぐるぐる巻きにされている。額と腹部には幅広のさらしが、さらに重ねて巻いてあった。

 それを見た瞬間、忘れていたはずの痛覚が身体の内側から蘇り、腹の奥が熱く疼いた。レイは呻き声を漏らし、反射的にまた布団へ背中を落とした。


 横になったままの視界で、障子がすっと開くのが見えた。そこに大きな二本の足が現れる。首だけを起こして見上げると、煙草を咥え、ぼろぼろの革ズボンのポケットに手を突っ込んだ銀髪の大男が、部屋いっぱいに影を落として立っていた。


「おっさん……」


 掠れた声に、ロベルトは覗き込むように顔を寄せ、少し驚いた口調で言った。


「早いな。もう起きたか」


 そして、起き上がろうとするレイの頭を片手で押さえつける。


「無理はするな。まだ寝てろ」


 レイは仕方なく枕に後頭部を沈めた。天井から垂れたランプの光が左右に揺れて見える。だが、揺れているのはランプではなく、レイ自身の視界のほうだった。目の奥がじんと痺れ、思考の輪郭がほどけていく。


 状況を整理しようと頭の中をかき回す。しかし記憶が途切れ途切れで、掴もうとすると指の間からこぼれていく。熱。石畳の冷たさ。焦げた匂い。誰かの叫び声――そんな断片が、まだ霧の向こうで瞬くだけだ。


 レイは顔を横に向け、横でどっかとあぐらをかいたロベルトに問いかけた。


「おっさん、俺……」


「あ? ……だから無理すんなって。おとなしく寝てろ」


 ロベルトはそれだけ言うと天井へ視線を戻し、煙草をふかした。レイはしばらく黙った。従ったのではない。疲労が、言葉と意志を切り離しただけだ。やがて、顔を上に向けたまま、もう一度だけ問う。


「俺……なんで、ここに寝てんだ……?」


「それすら覚えていないのか」


「ああ……なんか、どろどろの夢を見てたみたいだ。所々は覚えてる気がするんだけど……順番が前後して、はっきりしない。どこからどこまでが現実で、どこからが幻か……ごちゃごちゃで……」


 言葉にしようとするたび、舌が重くなっていく。考えを伸ばせば伸ばすほど、頭が霞み、記憶がまた遠のきそうだった。


 ロベルトは腕を組み、しばらく難しい顔で考え込んだ。やがて、腹の底から出すように、ゆっくり口を開く。


「一応、質問には答えてやる。ただし今は何も考えるな。俺が喋ることは脳みそに溜めずに、全部反対側の耳から垂れ流しにしてろ。お前は相当、精神を消耗してる」


 煙を一筋吐き、言いかけてから、口の端をひくりと動かす。


「……あんなモンを長時間使って人格がぶっ壊れないほうが普通じゃねえが――おっと、これも聞き流せ。どのみち後で、嫌になるほど説明してやる。とにかく、今は休め。それが約束できるなら、答えてやる」


「……言われなくても、寝るよ。なんか、また頭が白くなってきたし……考えるどころじゃない……」


 レイは半分閉じた目で、だるそうに答えた。ロベルトは「そうか」とだけ言い、煙を静かに吐く。


「まず、お前は丸二日寝てる。今は午後七時だ。一昨日の夜から数えて、だいたい四十四時間ってところだな」


 そこで一拍置く。口調は粗いが、どこか慎重だった。


「だが、それでも全然休み足りねえ。俺は、お前の精神が完全に癒えるだけで一週間はかかると見てる」


「……」


「二日目で目が覚めたってのは驚愕の回復力だが、それでもあと五日は寝てもらうぞ。身体のほうは火傷に骨折に打撲、その他諸々。全治は一ヶ月ってとこだ」


「そうか……」


「次。なんでお前がここで寝てんのか。――この町が野盗に襲われた。お前の怪我は、そのキノコ頭の魔術士にボコられたせいだ」


 その言葉で、レイの脳裏に赤い火球が一瞬だけ膨らんだ。熱の圧。喉の奥にこびりつく血の味。すぐに霧散するが、胸の奥がひりついた。


「――そうだった……って、おっさん、魔術を直撃して死んだんじゃないのか……?」


「何を寝ぼけてんだ。こうやってぴんぴんして、お前に話しかけてんじゃねえか」


 ロベルトは鼻で笑い、肩をすくめる。


「それに、お前らと違って俺は頑丈の次元が違うんだよ。あんなレベルの魔術、直撃だろうが何だろうが屁でもねえ」


「……町長は?」


「おう、ニコラか。あいつもお前と同じで自宅療養中だ。しばらくは町長の仕事は無理だろ。九郎殿が代理をやるみたいだな。そもそもあいつ、昔からお節介過ぎて超多忙だからな。ちょうどいい休暇じゃねえか」


「……そうだね」


「他に聞きたいことは」


 レイは少し間を置いた。胸の奥に残っている、何かを確かめたい衝動があった。


「……俺は、勝ったのか……?」


「ああ。お前は勝った」


 ロベルトは短く言い切り、続けて付け足す。


「お前は一人で戦って、この町を護った。誰も死んでねえ。よくやった」


「よかった……」


 その言葉が終わると同時に、閉じかけていた瞼が完全に落ちた。レイは再び、死んだように深い眠りへ沈んだ。


 ロベルトは寝息を確かめてから、部屋の中をゆっくり眺め回した。


 五畳半ほどの小さな畳敷きの部屋。隅に小さな木の座卓がぽつりと置かれ、その横の壁に木刀が数本、無造作に立て掛けられている。それだけで、他は何もない。

 廊下に面した障子の隙間から、闇が細い線になって畳へ流れ込む。廃油ランプの安っぽく頼りないオレンジの炎が、板天井へ不格好な陰影を映していた。その静けさが、かえってこの部屋の侘しさを煽る。


 ロベルトは煙を一筋吐き、寝息を立てるレイの顔へ視線を落とした。


(まったく、こいつどういう生命力してやがる。普通の人間が、あんなに何発も魔術を食らったら間違いなく死ぬ。そこから全治一ヶ月だと? しかも二日で目を覚ます回復力……冗談じゃねえ)


 口の端が苦く歪む。


(いくらセント・クレドの魔剣が傷を癒したと言っても、早すぎる。……このままの勢いで回復し続けたら、全治三週間もかからねえんじゃねえのか)


 あの日の夜、全てが終わった後。ロベルトはレイと町長を担いで、この町に一軒しかない町医者へ駆け込んだ。幸いそこは町の中心から外れた場所にあり、野盗の襲撃を受けていなかった。老医は怪我人が出た場合に備え、灯りを落とさず待機していた。


 町長――ニコラの脇腹の傷は、応急処置が早かったため出血が少なく、傷口の縫合だけで済んだ。だがレイのほうは、出血こそ少ないものの全身にひどい火傷と打撲傷を負っていた。肋骨は数本が完全骨折、亀裂骨折は数え切れない。特に腹部――内臓へのダメージがひどく、こんな死にかけの身体で、さっきまで立っていたこと自体が奇跡に近い状態だった。

 それに加えて、こんな田舎町の医院では医療器具が足りない。できることは、止血と固定と痛み止め程度。どうにもならず、途方に暮れるしかなかった。


 九郎が呼んだ隣村の歳術士が駆けつけ、治癒魔術を施した。だが一部の火傷を抑えるので精一杯だった。他人の身体に支配をかけて魔術を発動させるのは極めて困難で、膨大な魔力を消費する。どれほど魔力を注ぎ込んでも、本来の威力の数%しか出ない。

 他人の傷を“完全に”癒せる技術を持った魔術士など、赤土の魔術士同盟(ラテライト・ウィザーズ)の幹部くらいしかいない。


 万策尽きて、誰もが言葉を失った、その時だった。


 ベッドに横たわるレイの胸元――剣のペンダント、すなわちセント・クレドの魔剣が、彼の懐からふわりと浮かび上がった。次の瞬間、多色の光が放射線状にあふれ出し、部屋の空気が一瞬だけ沈んだように感じられた。廃油ランプの炎が、風もないのにふっと細く揺らぎ、影の輪郭がぼやける。


 虹のような幻想的な光がレイの身体を包み、宙へ持ち上げた。ベッドの傍にいた老医と歳術士は驚いて腰を抜かした。光は、火傷でただれた傷と体中の青あざをみるみる消し去っていく。苦痛に歪んでいたレイの顔に血の気が戻り、呼吸が落ち着いた。

 そして光が次第に収束し、ペンダントが元の鉛色へ戻ると同時に、レイの体はゆっくりベッドへ降ろされた。部屋の影も、元の位置へ戻っていく。


「――これは……信じられん。火傷も、打撲の痣も……なんと! 先程は折れていたはずの肋骨が繋がっておる……。いったい、何が起きたのだ……」


 起き上がった老医が、震える手でレイの身体を確かめ、驚愕の表情をロベルトへ向ける。だがロベルトの顔も、老医と大差なかった。彼は苦笑し、適当に肩をすくめて答えた。


「さあ、俺にも分かりません。……神の奇跡ってやつじゃないですか?」


 古代兵器の仕業だと言ったところで、老人が信じるはずもない。そもそも、一般人が知ってはならないことだ。


 老医はしばらく深く考え込み、やがて自分なりの結論へ辿り着いた。


「そういえば、そのペンダントはレイの亡くなった父親の遺品だと聞いておったな。父親の魂が宿っていて、息子の危機を救ったのかもしれんな……。とにかく、この世には人間の理解を超越する力というものが、確かに存在するのだ……」


 ある意味、老医の答えは的を射ている。ロベルトは少なからず納得した。

 レイを癒したのがレイ自身の意志にせよ、魔剣の意志にせよ――それは魂に近い強烈な精神力であり、人知を超えた古代種族の力の結晶体だったのだから。

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