第十三話 随一の商人
「――すまねえな。今夜は見ての通り満員でな」
店主が申し訳なさそうに頭を下げ、レイは串から外した肉を頬張ったまま頷いた。店の中は相変わらず喧噪に満ちている。濃い魚の香りと香草、焼けた脂の匂い。笑い声と酒器の触れ合う音が、街の夜をそのまま詰め込んだようだった。
「隣、失礼するよ」
ロベルトの左横の椅子を引いて、その客がカウンターに腰掛ける。レイが隣を見て確認すると、ロベルトは客を横目に見て、レモングラス入りの水杯を口に運ぶところだった。
次の瞬間――
「――ぶっ!」
水を噴き出した。ロベルトは咳き込みながら身を折り、口から飛んだ水が、見事にレイの左脚へ直撃する。
「うわっ! ちょっ――、なんだよ、おっさん汚え!!」
レイが跳ねて椅子を鳴らす。周りの客が一斉にちらりと目を向けた。ウィニーは匙を半分口に運んだ姿勢で固まり、喉を鳴らすことすら忘れている。
「……久しいな。金剛石――いや、ここではディアマン殿、と呼んだ方がよろしいかな?」
落ち着いた声で隣の客は咳き込むロベルトの顔を覗き込む。
いつの間にか、ロベルトの隣に二人分の影が増えていた。
栗色の髪に短い顎髭を生やした男。旅人の装いで、肩から掛けた布袋も、指先の荒れ具合も、どこにでもいる“商人”に見える。だが、目だけが違った。静かだが逃げ場を許さない眼差し。店の喧噪が、その男の周囲だけ不思議と薄くなる。
そしてもうひとり。
あきれ顔で椅子に腰を下ろし、腕を組んだ大男――騎士団長ギアッツだった。
「……将軍」
ロベルトがようやく咳を収め、濡れた口元を拭いながら呟く。
ギアッツはため息ひとつで返した。
「すまんな。私は、止めはしたのだが……結局、押し切られた」
その言い方だけで十分だった。押し切ったのは誰か。答えは目の前にいる。
ウィニーの喉が、ようやく動いた。
「へっ……陛下――?」
出かかった音が、形になる前に潰れる。ウィニーは目を見開いたまま、男の顔を凝視している。顔色が一段白くなった。レイだけが、訳が分からずきょとんとしていた。
「え? なんで将軍がここに? てか、このおっさん誰?」
ロベルトが視線だけでレイを黙らせた。レイはむっとしつつも、濡れた脚を拭きながら大人しく口を噤む。
その間に、ロベルトは周囲を見回した。喧噪の中に、妙な規則が混ざっている。
入口に背を向けない男。椅子を引く音がやけに揃っている。酒を飲んでいるのに酔いの気配が薄い。腰の落とし方、箸の持ち方、視線の置き方。――騎士団の癖だ。戦場の隊列のように、自然に死角を潰している。
「……おやじ」
ロベルトがカウンターの向かいへ声を低くする。
店主は遠くで皿を拭きながら、奥の壁の掛け棚に視線だけ寄こした。そこに飾られた前装式長銃と弾薬箱。飾り物にしては妙に手入れがいい。金具に油の膜が残り、木床の擦れは実際に担いでいた証だ。
この店の名、“銀の弾丸”は王国騎士団が四頭獣討伐に使う銃弾。つまりこの店主は元・騎士団員。ここで何かが起きれば、すぐ“上”に伝わる。レイたちの来店は最初から筒抜けだったのだ。
栗髭の男が、笑うでもなく言った。
「騒がせたな。……まず謝っておこう」
声が、妙に通る。騎士団の者だけでなく、近くの客――いや、客を装った者の呼吸まで整う。
「……貴方が、なぜここに?」
ロベルトが言いかける。
男はそれを見て、少しだけ目を細めた。そして大袈裟に、白々しいお辞儀をする。
「いや、君の知る人物とは他人の空似だろう。お初にお目にかかる。私は商人、テオバルトと申す者」
レイの眉が跳ねた。
「ん……んん?」
彼の理解はまだ追いていない。ギアッツの隣に座る自称“商人”。ウィニーが石になった理由。ロベルトが水を噴いた理由。全部が繋がらず、頭の中で空回りしている。
ウィニーが面倒そうに口を挟んだ。
「レイ、口を閉じ……別に閉じなくていいけど。余計なことは喋んないほうがいいわよ、たぶん」
「ん――」
言い返しかけて、レイは言葉を飲み込んだ。周囲の客の話し声と喧噪。聞こえる音量は変わっていないが、そのどれもが雰囲気を作り出しているという違和感。いつの間にかカウンターの辺りだけが、戦場の空気に変わっていた。
国王フラン・テオバルト・ボーフォート――いや、商人テオバルト――は、淡々と続けた。
「まず確認しておく。将軍と君の“賭け”の決着を、私は覆すつもりはない」
ロベルトの目が僅かに細くなる。
「……では、何の用件で」
「取引だ。依頼がある」
テオバルトは“表”の顔を一切見せない。命令ではなく、依頼。脅迫でもなく、提示。だが選択肢の形をした檻であることは、ロベルトの目が読んでいる。
ギアッツが小さな布包みを取り出した。指先で結び目を解き、掌に落としたものが、灯りを受けて冷たく煌めく。
紫水晶の指輪。
水晶の鏡面が天井に吊された灯を反射して、月の欠片のように紫を含んで揺れた。宝石は小さいのに、妙に視線が吸い寄せられる。見ていると、喉の奥が少し甘くなるような――そんな錯覚さえある。
ロベルトの口元から、笑みが消えた。
「……夢見の指輪」
ウィニーが思わず顔を上げる。
「綺麗……」
「綺麗なだけじゃない」
ロベルトは指輪に触れない。触れる前に“確信”した声だ。
「D級指定遺物。嵌めた者に心地よい夢を見せる……低級遺物だ。」
テオバルトが頷く。
「昔から闇市場に複数が出回っていると噂されていたが、大した危険はない。せいぜいこの指輪を“無性に嵌めたくなる”程度だ。――だから我々も特に気に留めていなかった。しかし最近になって、その噂が“事件”になった」
テオバルトはそこで言葉を切り、指輪を摘まんだまま一度だけ視線を落とした。店の喧噪が、ほんのわずか遠のく。
「指輪を所持していた貴族が、三人。相次いで殺された。夜間に襲われ、喉元を一掻き」
「喉を……一掻き?」
レイが顔をしかめて、思わず首元に手を当てる。背筋に冷たいものが走った。
「手口から下手人は同一と推測される。指輪は奪われたが、他の金目のものには手を付けていない。狙いは最初から一つだ。そしてこれを集めて何かを企んでいる」
ロベルトが、静かに息を吐く。
「……囮になれと」
「そうだ」
テオバルトは、紫水晶の指輪を二本の指で摘まみ、ロベルトの前にそっと置いた。無造作に見せて、その動作だけが妙に丁寧だ。
「下手人を捕らえ、その背後――闇の商人の尻尾を掴んで欲しい」
今まで黙っていたレイが、堪えきれずに口を開く。
「ちょっと待てよ! そんなの将軍がやれば――」
「――炎将の名の下に、のこのこ現れる間抜けが相手なら、すでに事は終わっている」
言ったのはテオバルトではなく、ギアッツだった。あきれ顔のまま、だが声は固い。
「私の顔は知られ過ぎている。騎士団も上層は同じだ。……だが、君たちは違う。この国で素性を知る者は少ない」
ロベルトが目を細める。
「加えて、下手人が古代兵器の遣い手である可能性もある」
テオバルトが言った。平然とした口調で、剣より厄介な言葉を投げる。
「一般の騎士団員には荷が重い。君は――」
そこでテオバルトは言葉を選んだ。ウィニーが僅かに身を硬くする。
「――“そういう案件”を扱うのが得意だ」
ウィニーはロベルトが治安機構の職員であることは知っている。だが“原罪の騎士団”の名をここで出されれば、話の重さが変わる。だからテオバルトはぼかした。ギアッツも、余計な言葉を足さない。
ロベルトは、国王の狙いを更に深く読む。
「――王国騎士団を動かさない理由は、内通者の可能性ですか」
テオバルトの目が、僅かに光った。
「話が早い。闇の武器商人が“末端”なら、金を出している者がいる。貴族か、官僚か、ギルドか……。騎士団にやらせれば、証拠が漏れるかもしれない。残念ながら忠義は金で買える。どこの国にも政争というものはある」
「だから我々に“証拠だけ掬い取れ”と」
ロベルトが淡々と続ける。口調は冷たいが、相手の懐を暴く温度だ。テオバルトは頷いた。
「君たちの出国が滞りなくできるよう、“陛下に”便宜を図ろう」
ロベルトはすぐに食いつかなかった。ものは言いようだ。
「便宜の内容を具体的に。口約束は信用しません」
ギアッツが片眉を上げ、テオバルトが小さく笑った。
「よかろう。契約書は作る。君の望む形で」
レイが、ようやく全体を飲み込み始める。声には隠しようのない苛立ちがあった。
「……つまり俺たち、また足止めされるってことか?」
指輪から目を離さずロベルトが肩をすくめる。ウィニーが、抑えた声で言った。
「……断れないの?」
一瞬だけ、唇の端を歪めた。
「断れるさ。だが断った瞬間に、俺たちの旅は止まる。国王陛下が“便宜”を引っ込めるからな」
歯噛みするレイを横目に、テオバルトは飄々と答える。
「これは譲歩だよ。堪えてくれたまえ。我々にも面子というものがある。有能な国民を易々と連盟に差し出せば、国の面子を保てぬ――そう言う者もいるのだよ。だから引き留めは最大限にせねばならない。“対価を得ずに商品を渡してはいけない”というのが、我が商会の家訓でね」
ロベルトは返さない。濡れた脚の水を布で拭い、ようやく指輪に手を伸ばした。指先が触れた瞬間、紫水晶が灯りを飲んだように――ほんの一拍、深く光った。……気がした。
甘い匂いが、一瞬だけ鼻の奥を撫でる。
しかし彼は何も言わず、指輪を掌に包み、内ポケットへ滑り込ませた。
「……商人テオバルト。取引を受けましょう。囮の張り方は、こちらで組み立てる」
商人は満足げに頷く。
「頼もしい。――将軍、護衛の手配は任せる。契約書はギルドを通して送れ」
「御意に」
ギアッツが投げやりに返し、ゆっくりと席を立つ。去り際にレイを一瞥した。
「任せたぞ。君たちを信頼している」
レイが唇を引き結ぶ。
「……分ってる」
ロベルトはカウンター越しに店主へ視線を投げた。店主は無言で頷き、奥の扉へ消える。銀の弾丸の喧噪が、少しずつ戻ってくる。だが戻ったのは音だけだ。空気は、すでに別のものに塗り替えられている。
テオバルトはようやく立ち上がった。そして、ふと窓の外――宵闇に浮かぶ街の空を見た。
「――月が綺麗だな」
誰に言ったのでもない独り言が、妙に耳に残った。
ロベルトは冷めて堅くなった赤肉串を一口で胃の中に押し込め、内ポケットの重みを確かめる。指輪は軽いはずなのに、妙に存在感がある。心地よい夢。そんな優しい言葉ほど信用ならない。
レイが濡れたズボンの端を布で拭きながら、立ち去るテオバルトの背を見て小声で囁いた。
「なあ……あのおっさん、ほんとに王様だったのか?」
「あれは商人だ。この国、随一のな」
ロベルトはそれだけ答え、空いたグラスを置いた。外の月が、ほんの僅か、紫色に揺らいだ気がした。




