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56テールズ ~聖杯の伝説~  作者: 曽我部穂岐
第三章 月と宝石のトラジティー
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第十話 二幕「邂逅」


 臙脂えんじの分厚い緞子どんすの幕が開きった舞台の中央に、男が一人。


 やや太ったその身体と比べても大きいとは言えない荷車をくように足踏みをしながら、やれやれといったていで、立ち止まり額の汗を拭う。


 荷台には、古めかしい陶器の壺や反物の束、小さめのワイン樽、微妙に新しくない鎌や鍬などの農具、何を象ったのか判別のつかない動物の彫り物、果ては萎びかけた菜物や根菜まで。分別のない品々が雑多に積み上がっている。


 その身なりから男が近場の町を渡り歩いて商い行う、行商人だということが分かる。商品は生活品であり、日常必要となるものなら何でも取り扱うという訳だ。


 よわいは三十代半ばから四十代前半といった顔つきであり、腰に下げたそれなりに年季の入った帳簿から見るに、馴染み客も付いた中堅どころの商人といった感じだろうか。体型からも食うものには困らない程度の儲けはあるのだろう。


 男は再び顔を下すと、黙々と荷車を曳く動作に戻る。


 不意に、舞台の端に照明が当たり、奥の影から光の中へと道化の格好をした男が現れた。道化は観客席に向かって仰々しく一礼すると、ゆっくりと語り始めた。


「――さてさて、今は昔。ここ、オークルオーカーを拠点にする一人の行商人がおりました」


「『海興公』リドネス・カイン・ボーフォート公の御治世のことで御座います。――なにせ昔のことで御座いますから、早馬の通れるような立派な街道も御座いません。徒歩かちでの商いは精々、二三日で通える場所までとなってくる訳で御座います。男は、この街で品を揃えては村々へ売り歩く毎日を過ごしておりました」


「そんなある日のこと……、いつも通り荷台を商品で満たし、贔屓の村へ向かっている時、思わぬものを見つけたので御座います」


 舞台上の行商人が、ふと歩みを止めて観客席の方をいぶかしげに見やる。そして何かを見つけ、荷車の引手を下ろすと駆け出して舞台に屈みこんだ。


 拾う仕草をして立ち上がり、大袈裟な手振りで掲げたのは、真鍮のリングに立派な紫色の宝石が付いた指輪。


「誰かの落とし物で御座いましょうか。しかし持ち主らしき者は辺りには見当たりません」


 ひとしきり疑り深く周囲を見回した後、予定外の臨時収入に笑みを浮かべながら懐に指輪をしまい込み、足早に歩き始めた行商人は荷車と共に舞台の袖へと消えていく。


「それはそれは美しい紫水晶アメジストの指輪で御座いました――」


 舞台端の道化が言いながら、自らの懐から先ほど行商人が拾ったものと同じ指輪を取り出して掲げる。輝石の表面が照明を反射して、妖しい紫色の光を放った。


「馴染みの宝石商の見立てでは金貨三枚は下らない代物とのことで御座いましたが、そこは商人の腕の見せ所で御座います。勿論、拾ったなどとは億尾にも出さず、遠方の没落貴族の質流れだとかそれらしき由来をでっち上げ、金貨五枚で売りさばいたので御座いました」


 道化は指輪をゆっくりと下ろし、自分の指にはめる。


「思わぬ授かりものとは言え大金で御座います。商人の性分ならば貯えとすべきでしょうが、後ろめたさがないと言えば嘘になります。あまりにうまく行き過ぎて、妙な胸騒ぎも覚えまして、その金を使いきってしまうことにしたので御座います……」


 言い終わると同時に照明が落ち、道化の姿が消えて舞台からは誰もいなくなった。



 一時の静寂の後、薄ら暗くなった舞台の奥から行商人が現れる。千鳥足でふらつきながら、手には空になったワインの瓶が握られている。


 自分の足につまずいた行商人は、舞台の中央に倒れ込む。呂律ろれつの回らぬうめき声を上げながら、瓶を支えにして這い上がる。


「ああ、――なんてうまい酒だ」


 行商人は空のはずのワイン瓶を口に当て、赤ら顔で感嘆を漏らす。降り注ぐ淡いおぼろげな光を、じっと吸い込まれるように見上げて。


 深淵のような漆黒の夜に浮かぶ三日月を。



「―――良い月ですね。今宵は」


 しばらく月を見上げて呆けていたが、不意に背後から声をかけられ、緩慢な動きで振り向くと、道化の格好をした男が立っていた。


「あんだぁ……んたぁ」


 何だあんたは、と言おうとするも舌がうまく回らない。


「危ないですよ。こんな夜更けに、こんな場所で酔いつぶれては」


 景気付けの高い酒だったとは言え、飲みすぎたようだ。舌どころか頭も回っていないらしい。ここはどこだ。仕入先の商人に奢った三軒目の酒場を出てから、どこをどう歩いたのか定かでない。近くで波の音がする。――そうか、波止場か。


「起き上がってください、手を貸しますから」


 思考を巡らそうとすると頭痛がする。崩れ落ちそうになった俺は差し出された道化の手を掴んで起き上がった。この街では流れの大道芸人などしばらく見ていないはずだが、悪い奴ではなさそうだ。


「すまないな。助けてもらった礼だ」


 もともと使い切るつもりだった金だ。残っていた最後の金貨を道化に握らせると奴は驚いた顔で言った。


「いけませんよ、こんな大金。もらうわけには」


 こんな世知辛い世の中でも美徳というものを捨てずに持っている奴がいるらしい。俺は己の不徳を恥じた。


「いや、いいんだ何かの縁だと思って貰ってくれ。俺にとっちゃ偶然稼いだ日銭なんだ―――そうだな、何か芸でもやってくれよ」


「……金貨一枚分の芸となると過分ですが、分かりました」


 そう言って道化は微笑むと手を掲げた。重なった三日月が一瞬揺らいで見えたのは、多分酔いのせいだろう。


「それでは―――良き夢を」


 道化が手を指揮者のように揺らすと不思議なことが起こった。


 奴の手には何の楽器も握られていないのに、緩やか三弦琴のような音色が流れてきた。手の動きに合わせて音色は徐々に軽快になっていく。


「ほう! こりゃあすごいじゃないか!」


 驚く俺を横目に道化は音楽に合わせて踊りだす。そして口に手を入れると、そこから次々にナイフを取り出して曲芸ジャグリングを始めた。


 俺は酔った両眼まなこで次々と繰り出される芸を見た。玉乗りに、飛び出す鳩や踊りだす兎と蛇、飲み込まれる長剣を。時が経つのも忘れて。


 しかし、良い月だ。淡い光を反射する波の音に心も揺れる。目の前の道化も揺れるように踊る。その動きに合わせて手を叩く俺の心も。


 ――そういえばここはどこの波止場だったか。この街オークルオーカーに港なんてあったか。いや、ここはロードシェルか…、どこだったか、それともどこか別の――、舞台の上――


 ――まあ、こんなにも月が綺麗で楽しければ……ここがどこかなど、どうでもいい。


 こんな、お伽話フェアリーテールのような、こんな至福の中で。永遠に過ごせれば良いのに。


 だが、終わりが近づいているのは分かった。飛びそうになる意識を手放す前に、どうしても聞いておきたいことがあった。


「あんた――名前は?」


 道化が月をんだ。


 おそらくそれが最後の芸だったのだろうか。記憶の端で道化が微笑む。


「バドリーですよ」


「――そりゃ、奇遇だな」


「俺も、バドリーだ」





 淡い光の円が照らす舞台の中央に、行商人がうつぶせに倒れている。


 傍らには、胸に手を当て観客席に向かって腰を折る道化。その指にはめられた紫水晶アメジストの指輪が光を反射して揺らめく。


 分厚い緞帳どんちょうがゆっくりと左右から迫り、幕は閉じた。


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