第九話 天突く大樹
彼らの前方に現れたのは、正方形に切り抜かれた巨大な坑だった。
一片の長さは百メートル以上あるだろう。中心に向かって幾層もの歪な階段状の段差が連なる窪地になっており、正四角錐を逆さまに地面をくりぬいたような形状だ。階段状の坑の内側は全面が染み苔や光苔で覆われており、その至る所から染み出る地下水によって、下から四分の一は不自然なほど透き通った蒼い水で満たされている。
そしてその中心に、水面下から伸びた一本の細長い幼木―――が、異様な存在感を放って生えていた。
「なんだこの場所は……」
圧し潰されるような静謐に孤立する小さな木が、この場所の中心であった。空間の全てがその一点に向かって吸い込まれているような感覚。最も小さきものであるはずの幼木から視線を外すことができない。
「ここは深き眠りの森の最深部。『世界の臍』と呼ばれている場所だ」
言葉の先を失ったクロに近づいてきた刺青の男が、コルク酒の残りを呷りながら返す。
「聞いたことはないか? 神話にもある世界の中心にそびえ立つ樹の名を」
「世界の中心………まさか―――あれが世界樹だというのか?」
今度は、遅れて歩いてきた紳士帽の男が言葉の先をつないだ。
「そう、古き言葉で『世界樹』と呼ばれる『真理』の一部だ」
『世界樹』とは、この世界の神話の多くに登場する、世界を貫く大樹のことだ。伝承によってその呼び名や謂れが異なりはするものの、共通して語られるのは、世界の中心あるいは臍と呼ばれる場所に生えている天突く巨木であり、その枝葉の先端は世界のあらゆる場所に届くほど大きい、というものだ。
「ヒャハハハ、あれが世界樹かよ。思ったよりもずいぶん小さえなあ」
神話の言い伝えとはあまりにも正反対な幼木を見て、ジャドが大袈裟に腹を抱えて嗤う。
「そうだな。小さいと見れば、そう見えるかもしれぬが――」
そう言うと紳士帽の男は足元に落ちていた拳ほどの石を拾い、おもむろに坑の中心に向かって投げた。放物線を描いて吸い込まれていった石は、坑の上空に入った途端、小さくなり不自然に加速したかと思うと、幼木に近づいた瞬間に視界から消えた。
「――何が起きた!?」
驚くクロに紳士帽の男が答える。
「言っただろう。『世界樹』とは『真理』の一部だ。つまり、あの石は『真理』に向かって投げられたのだ。『真理』とは『矛盾した願望の頂点』――至ろうとするモノは決して到達できない、という矛盾こそが『真理』の根本なのだ。到達しようとしたが故に到達できずに、『到達しようとしている状態』を永遠に繰り返した結果、事象崩壊を起こして消滅した」
「世界樹は世界の縮図であり世界そのもの。古き物語にある通り、『地と天を貫く大樹』なのだ。あれがここから幼木に見えるのは坑の中心部が圧縮された『小世界』だからだ。つまりあの幼木に近づくものは距離に比例して『小さく』なっていく―――厳密にいえば精質に近づいていくのだ」
確かに目を良く凝らして坑の中心部を見ると、蜃気楼にも似たな大気の揺らぎが幾つも見える。望遠レンズ越しに覗いているような違和感を覚えるのは、収縮された空間が歪んでいるからだ。
「『真理』に到達できなければ、先ほどの石のように世界から消失する。しかし、それは本来の使い方ではない。これは『真理』に到達した者――支配者族が造った移動装置なのだ。彼らはこれを別の名で呼んでいた。『出口』――つまり古西語で言うならば『世界樹』とな。真理を得た者は世界樹を意のままに使役し、任意の場所に転移することができる。彼らはその目印として世界中のいくつかの場所に『入口』と呼ばれる特異点を作った。我々はそのうちの一つを目指す」
「まさかこんなものが実在するとはな……つまりこれを使ってこの結界から抜け出そうというのか……」
「その通り。連盟の連中も『世界樹』の場所と本来の利用法は把握していようが、我らがこれを利用できるとは思うまい。奴らが討伐隊を未だ送り込んでこないのがその証左だ。結界を破られはしたものの、中に封じ込めたと判断しているのだろう」
「……だが、未だ理解し難いな。到達しようとすれば消失するのだろう? 目指してはならないものにどうやって到達するのだ。まさか目隠しでもして進めというのか?」
「我々が目指すのは『真理』ではない。なぜなら『到達者』はここにいるのだからな」
紳士帽の男の視線の先には、薄霧の中に佇む白衣の巫女の姿。その顔は思考が感じられない無表情のままだが、彼女の瞳は確実に抗の中心に存在する一点のみを捉えていた。
「我々はただただ彼女を目指し、その歩みについて行けばよい。ただし、一瞬でも『真理』に意識を向けてしまうと、あの石と同じ末路を辿ることになる」
目的を意識せずについて行くだけ。簡単に言うが中々に難しいことを要求してくる。
「しかし、先ず世界樹にたどり着くこと自体が容易ではない。世界樹に至るまでのこの坑は『幾星霜の回廊』と言われる、資格なき侵入者を排除するための防御機構だ。空間が縮小されているためここからは見えないが、斜面は広大な迷宮になっていて、中には上級の生物系古代兵器が多数配置されている」
「まじかよ、またさっきの『木偶』みてぇのが湧いてるってのかよ。今度は兄貴と旦那も戦ってくれるんだよなぁ。正直、俺はタマに喰われすぎて、巫女サマ守りながらじゃあ、ちとキツイぜ?」
こいつも腹一杯になっちまって当分言うこと聞きそうにねえしなあ、と付け加えながらも、戦闘狂としての性分が抑えきれないのか、ジャドは嬉々として腰に帯びた刀を抜く。
「まあ、先のことも考えれば無駄な体力の消耗は避けたいところだな。そこで、報酬分の働きをしてもらおうじゃないか、王家の金冠。我らが母の試練を越えたのだ。その名に恥じぬ能力を披露してもらうとしよう」
そう言って肩を叩こうとする刺青の男の手を払いのけて、クロは薄ら笑みを浮かべた顔を睨みつける。
「――言われなくても分かっていることだ。しかし、お前たちに自分の能力を語ったつもりはないのだがな」
「ヒャハハ、相変わらずつれねえなあ。俺たちはもう同志だぜ? 隠し事なんてナシにしようじゃねえか。―――第一、あんたに渡したあの大量の金貨。その細っせえ身体のどこにしまったんだろうなぁ?」
狂人揃いのくせに鼻の鋭い奴らだ。今までの戦闘では隠していたつもりだが、言い回しからして能力もばれているらしい。まあ、確かに目覚めてからというもの、力の大幅な向上を感じる。捧げた『供物』の量も申し分ない。相手が上級の古代兵器が何体だろうが、今の自分にならばどうにでもなるだろう。
おもむろに、巫女が止めていた足を坑に向かって歩み始めた。
その後に続いて進んでいくとすぐに異変に気付く。周囲の樹々が、草木が、全ての景色が徐々に大きくなって、否、自らの存在が小さくなっていくのを。
その境界に彼らがたどり着いた時、眼前に広がるそれはもはや『坑』ではなく、遥か遥か遠方にそびえ立つ天突く大樹と、その周囲を幾重にも取り巻く広大な白亜の石壁の迷宮―――『幾星霜の回廊』だった。




