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56テールズ ~聖杯の伝説~  作者: 曽我部穂岐
第三章 月と宝石のトラジティー
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第八話 緑青と老緑の障壁


 そう、何度目かの始まりは、いつも暗闇。全ての創造物が存在する以前の、原始の暗黒。いや、全てが呑み込まれてしまった後の、終焉の暗黒かもしれない。


 静寂が全身を包んでいる。その冷たい手で。まるで重たい石の棺の中にいるようだ。神代の王たちのように、清められた森深くの。世界の深み。暗き場所。最も深い場所にして最たる高み。しかし、不安はない。それは終焉の安息。約束された永遠。


 だが、静寂は破られる。遠くからかすかな音。あらゆる方角から向きを変えて。それが鈍った聴覚の深層をくすぐる。祭囃子まつりばやしのように、しかし静かに、だんだん、だんだん、取り囲むように近づいてくる。


 しかし、その正体を聞き取れる寸前で、音は大きくぶれる。突然、狂った通信機のように。喚き、軋み、歪む。


 耳障りな騒音が静寂の世界を壊す。世界の全てであった暗闇の中心に、びしり。


 不快な音を立てた亀裂が入る。亀裂は一瞬で放射状に拡がり、重すぎるようにも感じた暗黒が、こんなにも脆かったのかと思えるほど、いとも簡単に世界の平穏は崩れていく。


 ひび割れた箇所から差し込むのは柔らかな光。しかし、このめしいたまなこには眩しすぎる、緑青ろくしょう色の閃光。そこに慈悲など欠片も感じられない。


 あるのは、悲鳴。――それは、絶対零度(サブゼロ)


 暗闇に浸された網膜を一瞬にして焼き焦がし、筋肉の繊維の一本一本、骨の髄まで凍てつかせる魂たちの絶叫。それは私を呼び覚ますための、女の慟哭。

 

 何度目だったか――。この罪深き身では名を呼ぶことすら禁じられた我らが母の声が、自我を、苦痛を、絶望を呼び醒ます。


 同時に、消失していた肉体の感覚が四肢の先端から徐々に広がり、我らは認識する。この数多の魂が新たな肉体に溶け込んでいく充実感を。


 呼び起された何千本もの記憶の糸が、緑青ろくしょうの閃光によってひび割れた暗黒をなぞるように蜘蛛の巣を紡いだ。


 流れ込んでくるのは、今までに感じたことのない強大な力。幾重にも混じり合った魂の根源が直感する。これは求め続けた究極―――我らが始祖の、ごう深く、完全なる肉体。


 糸は光のふちを急速に太くし、暗闇を蝕む炎となって侵食していく。


 今、閃光に吞まれ、暗黒は消失し、我らの魂は新たな器に受肉した。


 同時に、我らは「真理」を理解した。―――ついに、ついに終焉が訪れるのだと。今度こそ終わらせなければならない。我らの贖罪を、久遠の穢れを、悪しきこの世界の全てを。


 はっきりと目覚めていく自我が、聖言を刻み終えた使つかいの声を捉えた。


 我らは、三度目の洗礼名を授かる。


 名は、シエン・ハイリヒラート。



 ゆっくりと開いた視界に最初に飛び込んできたのは、深い霧に包まれた空と絡み合う木々の枝葉。その周囲の景色が徐々に鮮明に成っていくのを認識しながら、覚醒の中で復唱する。


 我らが新しき名は、シエン・ハイリヒラート。


 偉大なる母の忠実なしもべにして罪深き巫女。


 そして。


 三度目にして世界を滅ぼすもの―――









 樹皮に悠久の歳月を深く刻んだ巨木のひしめき合う森を、決して晴れることのない霧が包んでいる。複雑に枝葉が絡み合って空を隠す幹にも、どこまでも続く灰みを帯びた暗い緑色に苔むした大地にも、生き物の息遣いはなく、ただただ静穏のみがそこにあった。


 その森の中を五人の人間が歩いている。


 彼らがどういった一行なのか、と問われれば誰もが返答に窮するだろう。


 先頭は、時代錯誤な純白の貫頭衣を着た巫女。そのすぐ後ろに山高の紳士帽を被った神父らしき格好の男。


 その後に軽装の鎧を身に着け、刀を帯びた長身の犬人グラッフィア。隣に並んで歩くのは一回り以上背の低い、全身黒ずくめのローブを纏った猫人キャットウルド


 最後尾には、露出した肌の至る所に複雑奇怪な入れ墨を施した筋肉質の大柄な男。


 種族も格好もちぐはぐな奇妙な一団。強いて言うならば、聖女と司祭に先導される巡礼の一行ともとれる。


 しかし、実際には彼らの中に「神」を信じている者などいない。


 一定の歩調で太古の森の奥へと進んでいく彼らは一体どこを目指しているのか。



「……おい、犬」


 黒いローブの猫人キャットウルドの女が不機嫌そうな口調で、顔を向けることなく隣の犬人グラッフィアの男を呼んだ。


 しばらく続いている無言の行進に相当退屈していたのだろう。犬人はその問いかけを待っていたかのように、口をだらしなく開けて笑いながら対照的に軽薄な口調で答える。


「ヒャハハ、何だよクロ?」

 


「霧の結界を破って外に出るのではないのか? どんどん森の深層に向かっているが、どういうことだ」


 そう言って怪訝な視線を投げたのは、先頭を歩く白衣の巫女の背中。夢遊病者のように覚束ない足取りだが、彼女は確かな目標に向かって森の深みへと進んでいるように見える。


 この森の全体を包み込み、彼らを阻むのは、内側から触れたものの存在結合を拒絶して霧に変換してしまう球体結界。


「ヒャハ、誰も巫女サマが結界を破るとは言ってねえはずだぜ。――なあ、旦那?」


 声をかけられた紳士帽の男は、肩の露を払いながら振り向く。


「言った通り彼女は『最強のほこ』だ。真の力をもってすれば霧散結界を破れぬことはないが、まだ魂が完全に定着していない。――それよりも、結界に過剰な負荷を与えれば連盟の『システム』に我らの存在が感知されてしまう。まだ事は隠密に運ばなければならぬ」


「隠密に、か……しかし、私たちの存在は既に気づかれているのではないのか。この馬鹿犬が派手にやらかして来たのだろう?」


 猫人の皮肉にも犬人は相変わらずヘラヘラとわらっているが、紳士帽の男はその態度を気に留めた風もない。


「結界を通過した時点で何者かが侵入したことはばれている。ジャドの手引きがなければこの森に侵入することはできなかった。その際に部下を皆殺しにした程度の失態は些末なこと。重要なのは奴らがこちらの正体と人数が分からず、森のどこかに潜んでいるという情報しかまだ持っていない、という事実だ。敵の正体も掴めぬまま、じきに過去の亡者どもで埋め尽くされる森の深層に主力を送り込んでは来ない。我らは『終わりの時』までにまだ成すべきことがある。いてわざわざ優位と猶予を放棄する必要はない」


「…む、そう言えば私がこいつに連れられて森に入ったときは何の障害もなかったぞ。結界とやらは機能していなかったのか?」


 その質問に、最後尾を歩く刺青の大男が答える。


「この霧散結界は一方通行だ。来るものは拒まず、しかし去るものは拒む。入ってしまえば二度と出ることはできない。結界の外面を反転させて内面に重ね掛けしてあるのだろう」


「それが本当なら連盟の『システム』とやらも大したものだ。深き眠りソーホの森の深部のみとはいえ、ここまで広大な領域が強力な結界で覆われているなど、到底信じられないが…」


 深き眠りソーホの森は、神々のマナスル大陸の陸面積の七割を占める広大な太古の大森林帯だ。クロたちがいる最深層域でさえ半径五十キロ以上の広さは優にある。


「この結界は『法』だ。創り出したのは忌まわしき太古の支配者たち。偉大なる我らが母を封じるために。――連盟の連中は『精霊塔』を通じて結界に接続するまがい物の『術』を編み出したに過ぎない」


「ふん……それならなおのこと、そこの『巫女サマ』ごときがそれほど強力な結界を破れるとは思えないな」


 クロの不信にも巫女は何の反応もせず、不安定だが確実な歩みを止めはしない。代わりに紳士帽の男がいささか不機嫌な口調で言った。


「……口を慎むことだ、ロイヤル・クラウン。彼女は有史において最も優れた魔力を有した巫女。――分かりやすく言うなら、その肉体はヒトの身で最初に『真理』を得た者だ」


「真理…? ますます胡散臭い話だな。私の理解では魔術の極意たる『真理』に到達できた人間は、始祖魔術士グーツムーツ大魔導ワーズワースしかいないはずだが」


 彼女の認識は正しい。この世界の住人が知る『真理』にたどり着いた者は、術原理を解明したエドワード・グーツムーツと魔術士同盟を創設したチャーリストッシュ・ワーズワースの二名のみである。紳士帽の男はいくらか軽蔑の混じった表情で息を吐いた。


「古き世界の真実を忘れ去ってしまった者どもには知りようもないことだ。……だが、肉体がいくら優れているとは言え、魂もそれに見合うものでなければ受け入れられない」


「都合よく見合う魂があったものだな」


「肉体に近しい一族の者の魂を練成した。常人の一生では到底『真理』に到達することはできない。幾度となく別の肉体に入れ替え、死のたびに絶望を乗り越えさせて精質エーテルを濃くし、千年の時を経て『真理』を理解させた・・・・・


「……おぞましい話だ。あれを作るのに命をいくつ使った」


 眉をひそめるクロに対し、紳士帽の男はまるで日常の話題のように事も無げに言う。


「数など、大した問題ではない。千年に渡り彼女の一族の魂を使ったが、使えるものに仕上がったのは一人。練成の過程で魂が摩耗と混合を繰り返し、元人格の感情や個性と呼べるものは消失してしまった。加えて前回使おうとしたときは器が小さすぎて失敗し、崩壊した人間性を修復するのに二百年かかった」


「……お前は一体、何者だ。いつから生きている?」


 空虚な質問が彼女の口から意図せず発せられたのは、わずかに覚えた畏怖のせいだろうか。


「好奇心は猫をも殺すといったはずだ、ロイヤル・クラウンよ。――私の名はモーゼス。偉大なる我ら母の使徒、モーゼス・ゾンマーフェルト。お前が知るのはそれだけで良い」


 紳士帽の男モーゼスは一瞥もせずそれだけ言うと、先頭を変わらぬ速度で進む巫女に並ぶ。クロは黒のフードを被り直し、ジャドは相変わらず意味もなく浅くわらった。後方の刺青の男も口を閉ざし、森は再び静穏のみに戻る。


 埋め尽くす霧がその濃度を増し、あっという間に彼らの姿を景色ごと包み隠した。


 ひしめく古木と苔むした大地は、緑青ろくしょう老緑おいみどりの障壁となる。



 霧が晴れることは、未来永劫、ない。


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