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56テールズ ~聖杯の伝説~  作者: 曽我部穂岐
第一章 始まりの物語
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第八話 烏丸流剣術

 レイが家に帰ると、九郎はいなかった。

 代わりに、机の上の和紙に達筆な置き書きがあった。


「なになに……急に用事ができたので隣村に出かける。夜遅くなるかもしれないから、晩食は勝手に作って食べろ。追伸、修行が足りん、精進せい。烏丸くろう、てか」


 彼はミミズが這ったような筆字を一分ほどかけて読み、丸めてそばのごみ箱に投げた。


「珍しいな。こんな時間にじいさんが外出するなんて」


 大して興味なさそうに呟き、薄暗い廊下へ出て土間に向かう。


 この大陸には珍しい純和風の建築様式だ。冷たい板間の床が裸足には堪える。春とはいえ、夜風はまだ肌寒い。


 土間は道場と行き来ができ、同時に台所の役割も兼ねている。

 奥の障子は庭に面した渡り廊下につながり、三つある畳部屋の一番奥がレイの部屋だ。その隣が九郎の部屋で、一番手前が居間になっている。


 この家にはレイの部屋にしかランプがない。九郎の部屋や居間は蝋燭と行灯あんどんなので、夜はとても暗い。だが九郎曰く、この方が風流だし、燃料費も少なくて済むので良いらしい。


 もっとも、レイは夜――というか昼でも、読書をする習慣はほとんどない。道場も暗い方が集中できる。文句を言うのは、たまに泊まりに来るジルくらいだ。


 レイは土間の鉄釜から大盛りに飯をよそい、テーブルのざるに置いてあった魚の開きを二枚、居間の囲炉裏で炙って食べた。


 食事が済み、当面やることがなくなってしまった。

 彼は真っ暗な道場での日課の素振りを、普段より早めに済ませることにした。


 剣術――すなわち、両刃の大剣ではなく細身の刀を武器として扱う戦闘技術は、三百年ほど前、インドラ大陸の北半分を占める大国ナカツで確立された。


 その系統は大きく四つに分けられる。


 最も原始的なものは、実際の戦の中で自然発生したとされる、対集団戦に特化した実戦剣術。

 次に、供給者である刀工が自分の打つ刀に合わせたスタイルを追求する過程で流派として形を成した鍛冶屋剣術。

 そして、動作に理論を取り入れて一切の無駄を省き、現代的な剣術様式を確立した流派剣術。

 最後に、あくまで鍛錬や競技として楽しむ、型や作法を重視した竹刀剣術である。


 烏丸流剣術は、雇われて戦に出る剣客と呼ばれる傭兵集団の中で発生したとされる、独歩毘沙門どっぽびしゃもん流の流れを汲んだ実戦剣術だ。創始者はもちろん烏丸九郎である。


 多人数戦を想定し、剣の速さに重きを置く。東国ナカツでは帝より感状を得て公認された「帝可ていか御流ごりゅう」の一つに数えられる。


 基本の壱の型と、居合いを重視する弐の型がある。レイが習ったのは壱の型だ。

 九郎は居合いは彼に向かないと見たらしく、弐の型は教えなかった。レイは最近まで弐の型があることさえ知らず、居合い用の練習刀を握ったこともほとんどない。


 壱の型は、納刀を基本の構えとする弐の型とは異なり、正眼からやや利き腕の方へ刀を傾けて構える。

 実戦で最も威力を発する袈裟斬りを素早く行うための構えで、状況に応じて刀の位置を上下させる。竹刀剣術の小手や面は打ちが浅く、実戦では有効打になりにくい。


 レイは型にならって木刀を構えた。目を閉じ、ゆっくりと大きく呼吸をする。

 そして暗闇の中に、夢想の敵を描く。


 数は四人。得物は刀。前に二人、背後にも二人。距離は前後とも二メートル弱。


 まず大きく踏み込む。右前方の相手へ、右肩から左脇に流れる袈裟斬り。


 真剣で藁や畳表を束ねたものを斬るように、腕力ではなく腰の回転と足の力で振り抜く。

 木刀とは思えない鋭い空気を裂く音とともに、眼前の架空の敵の上半身がずるりと斜めに落ちた。


 すぐさま左足を踏み込み、二ノ太刀で二人目の胴を一文字に払う――しかしこれは浅い。


 烏丸流では竹刀剣術の素振りのように、同じ動作の反復を重要視しない。

 実戦において要求されるのは臨機応変な攻撃と防御だ。烏丸流において素振りとは、敵の人数、動作、思考を仮定し、それに対応する力、感覚、集中力を磨く練習を指す。


 仕留め損ねた二人目の懐へ、身体を反転させて潜り込む。背を向けたまま、右脇の横から右手で胸に木刀を突き刺す。


 そして左手を添え、引き抜くと同時に左上方へ斜めに斬り上げて、三人目が振り下ろした刀を弾く。

 そのまま上げた木刀を肩口へ振り下ろし、左袈裟斬り。


 最後の四人目はいったん間合いを外す。再び壱の型の構えをとった後、相手の右横一文字斬りを捌き、気合いとともに左足を踏み込んで右袈裟斬り。相手は前のめりになって倒れる。


 踏み込んだ足を退き、左手で刃先を外へ向けて血振りをする。

 元の構えをとって大きく息をついた。


 そして残心。納刀。


 二人目を一刀で仕留められなかったのを除けば、後は上々の出来だ。


 レイはゆっくり木刀を下ろす。ふと、横手の引き戸の隙間から薄い光が漏れているのに気付いた。


 木刀を下げたまま裏手の引き戸を開け、縁側に腰をかける。


 今夜の月は綺麗だ。何という名前の月だったかは忘れたが、この欠けた月も悪くない。上下の先端に細雲がかかっているのも、いい感じだ。


 そう思いながら懐に手を入れ、首にかけていた剣の形のペンダントを取り出した。彼の知らない金属でできていて、月の光を当てると表面が虹色に光る。


 九郎から聞いた話では、これは死んだ父が持っていたものらしい。


 形見と呼べる品はこれしかない。両親は彼が幼少の頃、火事で死んだのだから。


 形あるものはすべて灰となり、特殊な金属でできていたこのペンダントだけが無傷で遺った。

 彼はいつも肌身離さず身につけている。


 小指ほどの剣の刀身を、さまざまな色が泡沫うたかたのごとく駆けていく。


 ほんの先ほどまで朱だったそれは蒼になり、翠になる。

 かと思えば突然、黒い線が縦に走り、すべての色をかき消して――元の金属の鉛色が現れた。


 レイは自分でも分からないほど長い時間、その移ろいを食い入るように見つめていた。

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