9. 天使みたいに見えたのは きっと 微笑と逆光のせい
あなたの樽は開かれました。
アロマは待機して熟成中の恋心の香り――だからもう、あなたには残っていない。
僕には新たな樽が必要です。
……出立の時です。
9. 天使みたいに見えたのは きっと 微笑と逆光のせい
額へ、目尻へ、頬へ。羽毛が降ってくる。触れた瞬間に肌理の間に融けて馴染んで、優しいくすぐったさだけが残る。降り落ちる前に掴めば融かさず留めておけるのだろうか――伸ばした指は、ごきんと鈍い衝撃を感知した。
「ぁうっ」
悲痛な叫びに目を覚ませば、鼻が触れそうな至近距離にディアジェ。その頬に刺さらんとする自分の指。シェリは瞬きを繰り返して、最早そこが夢でないことを確認した。
「……あ、ごめんなさい。朝ごはん中だった?」
赤紫の瞳がふるふると憂える。
「純真無垢な愛と誠のキスなのに、殴るなんて無体です。僕の顔に傷がついたら、笑顔だけで騙せる女性も騙せなく――」
シェリはそのまま腕を振り抜いた。
「ああ、出会った頃の、簡単に信じてくれたシェリを返して欲しいです」
頬のみみず腫れをさすりながら、わふわふ大好き天使の雛はどさくさ紛れに羽毛布団へ縋りついている。
「誰が疑心暗鬼にしたか分かってますか……」
布団に埋まったディアジェの顔周辺から、チッと忌々しげな舌打ちが聞こえた。だが一拍後に上向いた顔は悲壮で、死刑台へ曳かれて行く天の御子を前に泣き濡れる、忠実な使徒のよう。
「ご馳走様でした、忘れ得ぬ最後の聖餐でした」
ぱきん。と、身体の芯が凍りつく音がシェリには聞こえた。
「……最後?」
「あなたの樽は開かれました」
――あなたの名は、シェリ。ぴったりでしょう。
名付けてくれたその最初から、ディアジェの呼びかけは優しかった。シェリと呼ばれる度に自分がディアジェのなくてはならない存在だと実感できた、たとえそれが食料製造工場、兼、保管庫の意味だとしても。
だから『あなた』と言われるのがあまりに他人行儀に感じて、もう無価値な存在なのだと告知された気がして、シェリの――今やシェリと呼ばれる資格を失った彼女の心臓から血が引いていく。
「雛が食するアロマは待機して熟成中の恋心の香り――だからもう、あなたには残っていない」
否定形の文末。天使の雛が、いささか不自然でも避けてきた表現であることに気付いた。不、無、非で始まる単語を多用して否定形を和らげてきただけに、いきなりのそれは痛烈な棘となって虚血した心臓に刺さる。
「僕には新たな樽が必要です」
出会いの冒頭から知らされていた事実。いくら唇を重ねても聖性を取り戻さなくなった、ディアジェの瞳や羽。夢の中で悪魔の雛は言った――この先へ進めば魔界へ行くことになる。天使になりたいのです、と笑うディアジェ。
様々なものが彼女の脳裏で乱舞しては堆積する。
「……出立の時です」
禍々しい赤紫の瞳の癖に、ディアジェが句点代わりに置いた笑顔は爽涼だった。
「もちろんツケはお支払いします。食い逃げ魔界放置は悪魔の雛の所業です」
窓の外で抗議するようなカラスの鳴き声は、耳に遠い。
「どうして? どうして行っちゃうの」
理由など分かりきっていても、寒さに感覚麻痺した脳はそればかりを繰り返させる。
「あなたの樽は開かれ――」
「あなたあなたって連呼しないでよ! そんなよそよそしいの、嫌」
ごねた口調が細くて頼りないのが惨めで情けなくて、彼女の涙腺は決壊しそうになる。全身が寒くてたまらないのに、目だけに熱が溢れてくる。
天使の雛は緩んだ表情のままで困った眉をした。
「……『シェリ』と呼ぶべき盟約は解消です。そもそも真の名を知らずして契約は不可なのに無用心です、あっけなく引っかかってくれちゃって。ちっとも騙し甲斐が……いた、いたたた、羽根をむしるのは痛いですっ」
「ツケ回収。羽根枕」
一瞬にして熱の萎えた瞳に映るのは最早、恋人でなく枕の材料。
「ああっ、久しぶりのアロマの香り……恋から待機中に後退? 成程、恋の境界線を保てば時々はアロマ摂取も……いてて、そんなことしてる間に物理的に飛べなくなりそう。落ち着いて下さい、僕はあなたの羽根枕でなく――あなたを包み護る、羽根布団になるつもりなのですから」
きゅっと手を握ってくる天使の雛の瞳から、赤味が抜けていく。朝焼けから脱け出して地上を輝かす青空のよう。人間に有り得ない色彩の移ろい、嘘のなさを証明する瞳をじっと見つめていた彼女は、やがてゆっくり頷いた。
「ディアジェがそう言うなら……量、足りませんが」
「痛いですってば、比喩です。羽根布団というのは、あなたを包み護る存在でありたいという意味です。つまり」
「パーティボレロなら足りるかな……」
「つまり僕はあなた専属の天使にっ」
ボレロにするなら、白い羽根を選んでむしらなくちゃ。マラボーみたいに細くて柔らかくて毛足が長くて豪奢なところ。きっとベルベットのドレスにぴったり――天使の雛を組み敷いて、彼女はじっくり品定めに入る。
「騙す時は口達者で、口説く時は口下手ときた。おまえが色恋沙汰で堕ちる懸念なんぞ杞憂だったか」
窓枠に降り立ったカラスが呆れて呟いたような気がするも、羽毛選定で一杯の彼女は即座にその存在を頭の中から退けた。
「さすがジビエ・レストランの娘、むしる手さばきがプロです……」
「いいね、その調子で全部むしったら雛も人間になるんじゃないのか。さあ、むしってしまえ、一本残らず」
「リュシアン! 悪魔の囁きは勘弁ですっ」
寝込みを襲った筈の天使の雛は形勢逆転され、羽根の舞う中、着衣の乱れた肩を打ち震わせて悲嘆に暮れていた。
「僕は身も心もいたく傷つきました。愛の言葉よりあなたは、羽毛むしりに夢中だなんて。僕よりキラキラやまふまふに惹かれるなんて」
「だって、ディアジェが傷ついたって自己申告にも愛の言葉にも、ろくな思い出がないんだけど」
「くそ、狼少年か……。あ、場が開きます」
案の定、けろりとして平常に戻ったディアジェは壁時計を見るや立ち上がり、いそいそとパソコンの前に陣取った。
「いざオンライントレードのお時間です」
「……はい?」
「管理料や手数料を吟味して選んだネット証券にあなた名義の口座を開設して、ネットバンキングでパパンの銀行口座から全額を振り込んでおきました。利子率の低い当座預金にこんなに置いとくなんて財テク能力ゼロです、パパン」
天使の雛が、清廉潔白を身上とする天使の雛が口汚く始めた金の話を、彼女の耳は本能的に着信拒否を試みる。天使の雛がやけに手慣れた様子で文明の利器を扱うのを、彼女名義の口座にアクセスするパスワードがちゃっかりとdiageであるのを、彼女の目は受信拒否したがる。
「スカイ島に良質なスコッチの醸造所があるのですが、頑固な経営者と組合員の衝突で長らく生産停止になっていました。ところがどうしたことかこの頑固オヤジ、昨晩急にギャンブルがしたくなり、大負けに負けて、持ち株を手放さざるを得なくなるそうです。ああ恐ろしき人の欲、悪魔でも囁いたのでしょうか」
後半の口調の嘆かわしさは瞳や羽の色を確かめるまでもなく、極めて嘘くさかった。
「されど、これぞたまったツケに相当する幸いの知らせ。この株を押さえれば経営権はこっちのもの。蔵で熟成中の樽も、組合と和解して生産開始する樽も、Angel's Shareは最優先でいただき。あなたのアロマに頼らずとも、僕の聖性を保つには充分。天使諸先輩に恩を売れるほど充分です――株の買い注文、出しました」
すかさず画面には約定成立の通知が表示される。
「はい、Angel's Share確保。生産再開すれば株価上昇しますから、少し売り抜ければ無断拝借したパパンの元手は回収出来ます。雛は下界社会に直接交渉不可ですが、アロマ提供者と幸いの知らせを活用すれば楽勝です」
花咲くようにディアジェは笑顔をほころばせる。
フランス窓からふんだんに差し込む朝陽を後光のように背負えば、天から授かりし金色の羽のよう。逆光に銀白の髪を煌かせ、慈しみ深き微笑を湛える姿はまるで天使そのもの。
だが笑顔の中心には限りなく赤い瞳が居座っている。娘はおずおずと切り出した。
「あのう……出立はどこへ?」
「しました。Angel's Share確保の旅への出立。そして今からは、僕とあなたの新たな段階への出立」
腕と漆黒に近い羽が開いて抱き寄せられる。見慣れているのに見慣れない色をした瞳が覗き込んでくるのを、娘はぼんやりと見返していた。それでも口付けの気配には呼応してゆるりと瞼を閉じる。
悪魔にするのはしのびない――その一心だけで与えた、かつてのキスと同じ。最初のひと触れは、思わぬ温かさに驚いたように互いが身を強張らせた。だが再び寄り添えば、もう迷いなく授受を繰り返す。重ねる唇のせわしさは、長い不在に耐えかねていた恋人のよう。
そして存在を融け合わそうと情熱を傾ける恋人たちのものへ変わっていく。
あと僅かでも短慮という風が吹けば転落しそうな水際で、ディアジェの唇は名残惜しそうに離れた。
「……美しい泉ほど、近づいた自分の足で汚してしまう」
声で世界が崩れるのを恐れているみたいに、密やかな囁き。
「ですからこれ以上は近づけないとしても僕は、あなたと一秒でも長く寄り添い、あなたより一秒だけ早く、天に昇るつもりです。天使としてあなたを迎えに戻ります」
瞬きのうちに赤は青味を帯び、紫を通過して、青へと変貌する。朝焼けの空、オーロラの夜空より鮮やかな彩色が彼女の視界を埋め尽くす。
「だから最期の一秒だけ、そばにいてあげられなくても許してくれますか?」
最期の一秒と引き換えに、それ以外の時間を。激情と引き換えに永遠を。
彼女は思う。これは何も、相手が天使の雛だから受ける試練ではない。誰しもが多少なりとも抱える各々の事情という分銅に対峙し、自らの意志では動かしがたい天秤を保とうとする。
Waterと叫んだヘレン・ケラーは三重苦の分銅で世界を、恋を悟った者は現実の分銅で愛を。
生が死と対であるように、常に分銅を求められる世界は均衡を目指して揺れ動いている。天使と悪魔がそれぞれの領土に留まらず、雛や人間の内に同居して揺れ動いて当然。
けれど、たとえどれほど重かろうと、同じ分銅を相手に喜怒哀楽する天秤皿に、共に乗っていたいと願う伴侶を選ぶのは自由。
――最期の一秒だけ、そばにいてあげられなくても許してくれますか?
「はい、ディアジェ」
宣誓を込めたイエスに対する褒美は幸福な笑顔だった。ここにも秤の法則が効いてる、とシェリは喜ばしい発見をする。
「ならば盟約の再締結です。あなたの本当の名は?」
「……シェリのままでいいです。だって約束したんだから、これ以上いちいち盟約とか契約とかしなくたって充分じゃないですかっ」
「ううっ、人間界における結婚の誓約をしてみたかっただけなのに、拒否するなんて非道ですっ……チッ、用心深くなっちゃって。暴走すんの目に見えてるから、制止役を押し付けたかったのにツラい。ま、役割分担は最初が肝心……ふうん、その名を選ぶとは僕に食われる運命でいいんですね、シェリ。では遠慮なくいただきます」
「ん……え? ちょっ、ちょっとディアジェ、嬉しいけどこれ以上はまずいんじゃ……わーストップー! ……あれっディアジェ? ごめんなさい殴りすぎたっ」
すかりと晴れた青空に、風見鶏が上機嫌で胸を張る。思いもよらぬ遠方から幸福の便りが届く予感、そんなくすぐったい風に尾羽を立てて。
濃い森に映えるターコイズ色の六角屋根。頂上の風見鶏には、天からの来訪者にしか見えぬ札が掛けられている。
『Angel's Share あります』