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8. 自由に仕舞えたら楽なのに

 ずるりと重たげに床を抜けてくるさまは、羽化にてこずる黒い蝶さながら。

「……ったくおまえはどこで覚えてくるんだ、東洋の陰湿な呪いなんぞ」

 呆れた悪魔が首を振れば、何連ものピアスが葉ずれのようにしゃらしゃらと鳴る。藁人形に黒い羽根をくくりつけて五寸釘の照準を定めていた天使の雛は、ハンマーを持ったままにっこりと出迎えた。

「こんばんは、リュシアン。こうでもしなければ、どんなに呼び出そうと君は居留守です」

「あのなあ、まず普通に呼び出そうって努力をしてから実行に移したらどうだ。いきなりそれか。そんなんで堕ちられたら心臓に悪いぞ」

「これは失礼を。はい悪影響です、光の監視官の天秤皿で質草になっている君の心臓に」

 無言で帰ろうとする悪魔の背後で、藁人形が壁に打たれるカツーンという音が響いた。

「静粛に。シェリが起きてしまいます」

「おいおい、俺のせいか?」

「悪魔がシェリに悪夢を映していました。やっと寝かしつけてきたんです。病身の乙女を苦しめるなど、ああ不届きで不埒な魔物め、一体誰なんだちくしょう。リュシアン、僕はやつが憎い」

「……なんでおまえが悪魔じゃないんだろうな」

 大根役者も真っ青な棒読みの呪詛を、悪魔はひらひらと手で払いのけつつ観念した。リビングの最も暗い場所を選んで座り込む。漆黒の髪も翼も衣服も影になじみ、白い顔と赤い目ばかりが存在を知らせた。

「さて、シェリの夢でどこの悪魔がどんな青春全開・愛の暴走劇を熱演しちゃったのかは僕には不明ですが」

 ディアジェは真剣に首をひねってみせる。

「白鳥に求愛されそうな羽をして『明日は悪魔になるんだー』とのたまった、説得力超絶マイナスの雛には若干一羽、覚えが」

「ほお。カラスに求愛されそうな羽をして『天使になりたいのです』とほざいてる雛なら知ってるが」

「僕に話が漏れるのを計算してシェリの夢へ入るなどと、他言無用である取引を破棄されかねない抜け駆けです。ああ何だか無性に光の監視官にお会いしたくなってきました」

 天に昇れず長年にわたって地上をうろうろする雛たちにとって、彼らを監督する光の監視官は鬼軍曹並みに会いたくない相手だ。その監視官の姿を探して、地上滞在年数史上最長記録を更新し続けている雛は、窓越しの星空へ切なげなため息を漏らした。

「なんでおまえが悪魔じゃないんだろうな」

 赤目に疲れを滲ませる悪魔の呟きは嫌味でなく嘆きに近い。

「なんでって」

 人質に等しい黒い羽根つき藁人形の首根っこを掴んだまま、天使の雛は嘘くさかった笑顔を引き締めた。

「僕には、天使になる理由ができたんです。聞きたいですか? 聞きたいですね?」




 組んだ腕の上で、悪魔の伸びた爪先が苛立たしげに揺らされ続けている。本来は悪魔の好物である居心地悪い沈黙を、天使の雛はたっぷりと引き伸ばした。

「静かです。饒舌は悪魔の専売特許なのに、今夜はもう店じまいのようです」

「おまえの厚顔は年中無休でお忙しいことだ」

「君の水臭さには完敗です」

 さらりとした口調に反して、ディアジェの指先は藁人形の後頭部をべちんと恨みがましく弾く。

「光の監視官が課す天秤の取引の過酷さは噂に聞いたことがあります。僕は長く雛をやっているので見聞が広いのです。えへん」

「これはまた、物は言いようってやつだな。昇れないのをそこまで正当化して胸張る雛が、後にも先にもいてたまるか」

「愛する者を救いたければ、雛を一羽、堕ちずにおかせておかねばならない。その雛の恋人を殺すことも厭わない――さすが一度は堕ちた天使ラグエル、悪魔も顔負けの甘美で冷酷な取引です。参考になります」

「待て、参考って……」

 天とは決して許し与えるばかりの存在ではない。でなければ人は、過ちや不幸に自分が選ばれてしまった理由を見出すことが出来ない。天の試練、そう考えるだけで苦境に耐えられるとしたらそれは、何も語らぬ天から人類がひねり出した最高に便利な発明だろう。

 リュシアンはラグエルを通して試練を明示されただけ、恵まれていると言えた。

「そんな約束をさせられておいて、あれほど僕に堕ちてしまえと煽るなんて、とんだ天邪鬼です」

「悪魔が天邪鬼なのは当然至極、文句は受け付けないぞ」

 正当化合戦を相討ちに持ち込んでも、リュシアンの口調は苦々しい。

「で、呼びつけた用向きを早いところ吐いたらどうだ。俺はせいぜい用心しろと親切に警告して差し上げただけだ、謝るつもりはさらさらないね」

「君の謝罪なんて不気味なので遠慮します」

 うえ、とディアジェは酸っぱいワインよりまずそうな顔を作って退ける。

「……ただ、シェリだけは天秤皿の外にいさせてやって欲しいのです」




 暗がりから、呆れとも嘲りともつかないため息が漏れ出た。

「お門違いだな。おまえ次第だろ、ディアジェ。おまえが『アロマよりキスが欲しい』なんて口説きだすから、俺の選択の余地がなくなる」

「うん、プラトニックは拷問だよねー」

「……俺を見るな」

 かつてあっさり陥落した経験者は、無邪気を装った問いかけに目を逸らす。

「拷問ですが、それでも僕は天使になりたいのです。頼まれなくても、僕が――僕こそがシェリを迎えに行ってやりたいからです。そう決めた以上、僕が君の天秤皿から堕ちる心配は無用です。となれば君がシェリを脅かす必要性は皆無です」

 井戸から溢れ来る水に手を晒し、Waterと叫び、世界の鮮やかさを知ったヘレン・ケラーのように。

 魂の奥底から湧き上がる清浄な情熱に身を打たれながら、これが恋だ、これが愛だと悟ったすべての者に翼は生える。天へと突き抜けそうな喜びも、そこから打ち落とされる痛みも知る。

「僕は心の羽のないまま、巣立つことばかり考えていました。今の僕はシェリに授かった羽を大切に育てて、天使になりたいのです。どこかの純情悪魔も監視官ラグエルにのろけて力説していました、想いは魂を売っても手放せないと」

「……あのなあ……」

 ようやく絞り出された声音には、どうにか内心を立て直した後の疲労がありありと窺えた。

「俺を楽しませろとは言ったが、呆れさせろとは頼んでない。鏡でも見ろ、おまえの目が今どれだけ青いか、自覚あるか? あんまり純愛なんぞしてると、今すぐ天使一直線だぞ。ふん……天秤皿の外? どうせ俺が女を殺せぬ性質だと、知っているくせに」

「その言葉――君は天邪鬼な悪魔ですから、信用すれば僕は自滅です」

 ですが、とディアジェは背筋を伸ばした。正しい姿勢には不思議な力がある。場の空気をも整列させる。きちりと澄んだ空気の中、ディアジェの視線は最短距離でリュシアンを捕まえる。

「僕は友人を信じます」

 青い目に真っ直ぐ射抜かれて、赤い目が苦痛に歪んだ。

 空気というのは優れた絶縁体で、言葉という音波で破らなければ互いの気持ちは通じない。だから人類が天にも届く不遜な塔を建設した時、天は言語を分割して伝達の手段を奪い、人々を挫けさせた。

 だが、とディアジェは思う――言語以外の方法で送受信し、そのアンテナを磨くことでいくらでも知ることが出来るのに。誰もがそう努めれば、言語での分断など何の妨害でもなかったのに。

 現にリュシアンの肌からは、陽光の差した凍土が解き放つ繊細な霧ほどに、微かだが確かに大気を湿らすものが伝わってくる。

「……まだ俺を友と呼ぶのか。間抜けめ、だからおまえは天に昇れないんだ」

「そうかもしれません。ですがリュシアン、君はシェリの命を脅かすと宣戦布告したのではないでしょう。取引破棄されかねない危険を冒してまで、僕に、自分と同じ轍を踏むなと忠告してくれました」

 けっ、と短い息でリュシアンは場を穢す。

「忠告だ? 曲解もいいとこだな、どこまでおめでたいんだ」

「天邪鬼な君のイエスと受け止めます。だからシェリがいて、君がいて、今の僕は安らかな気分です」

 穏やかな笑顔を前にして、悪魔は否定するのを諦めたようだった。




「はあ、俺としたことが、とんだ期待はずれ。女と自分を天秤にかけたのか、って罵る顔が見物できる筈だったのになあ」

 こめかみを載せて立てた片膝は、アースのようにリュシアンの愚痴を外へ垂れ流しているようだ。不運を天の試練と割り切れない者にとっての発明は愚痴だ。

「ヘレスをチップに積んじまっただけなのさ。監視官との賭け、こいつがどれだけしぶとく堕ちずにいられるかの賭けに。そう思い込むのが面倒でなくていい」

「いま気付きました、『ヘレス』はスペイン語でシェリー酒のことです。リュシアンが彼女を食い物にする運命が定まっていたかのような名です。食い物どころかチップにまで……鬼畜。外道。悪魔」

「棚に上がるな、アロマの提供者に『シェリ』と名付ける天使の雛め」

「何てひどい誤解なんでしょう、あれはフランス語で愛しい人という意味で」

 悪魔は黙って、嘘に黒を増大させたディアジェの羽を指差した。天使の雛は黙って、リュシアンの黒い羽根に一本だけ輝く純白の羽根を指差し返す。

「雛にとって羽は心を映す鏡です。心を自由に仕舞うことは困難です。仕舞い込めたなら、どれほど楽なことか」

「……悪魔も同じだ」

「はい。きっと、見えなくても、人間も。誰もが、仕舞っておけない心で飛ぼうと必死です。なのに」

 ディアジェは藁人形に頬ずりする。

「なのに非道です。僕は被害者の身ながら、心は仕舞えないと理解して美しき友情と愛情に殉じようというのに。ねえリュシ夫もそう思うでしょ。思うならあいつを呪っちゃって。天使にしておしまい。プラトニックという拷問にかけておしまい」

「おまえ、ロッククライマーか? 小指一本で天秤皿からぶら下がってる状態じゃないのか? あのなあ、俺が礼を言う屈辱的な姿を期待してるんだろうが――」

「謝意はあると確認しました。ですが君の土下座は不要です。言葉など無価値です。きっちり働いて頂きます」

 逃がしません、と口に出さずとも明確に伝えるディアジェの指が、リュシ夫をがっちりとホールドした。

「……なんでおまえが悪魔じゃないんだろうな」

「なんで君が悪魔なんだろうね」

 自棄な文句と盛大なため息を零す悪魔に、天使の雛はきらめく笑顔を振りまいている。

「面目躍如と参りましょう。ある頑固オヤジに悪魔の囁きを一発、お願いします――白い羽募金にご協力を」


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