6. 部屋の中で広げるな
『ボンジュール、パパンだよー! 私の鴨たちは元気かな。昼前に寄るから待ってておくれ。むちゅっ』
湿ったキス音つき録音メッセージは眠気を根こそぎさらっていった。渾身の力で受話器を叩き付ければ無かったことに出来そうな気がして試してみるが、父の朗らかな伝言は無情にも繰り返された。
シェリはレストラン棟から飛び出す。夜中に侵入して安眠妨害していった寝坊の元凶、彼がせっせと建築した巣へ走り込んだ。
「ここ片付けて、隠れてて! もうすぐパパが来る」
「んー……あ、おはよう、シェリ」
恋人と初めて迎えた朝のように、眩しげに優しく緩んだ目元が見上げてくる。家中からくすねたらしいクッション類に埋もれていた天使の雛は、夢うつつなまどろみの瞳でシェリの腰を抱き寄せた。ディアジェの欲しがる唇を、シェリは海老反りで回避する。
「朝食の給餌に来たんじゃありません!」
夏空も敵わぬコーンフラワーブルーの瞳がさっと曇り、夕立を降らせそうに潤んだ。
「おはようのキスは親愛の挨拶なのに、淡白です……」
「あっ。ごめんなさい……」
いじけた指先がテラコッタのタイルにチキチキと禍々しい模様を描き出す。
「もういいです。シェリなんて魔界へ逝っちゃって」
「きゃーやめてー! 黒板引っかき系の音っ」
ごめんなさい、と重ねて謝って頬に落とそうとしたキスは、受け手の僅かな動きで着地点を唇にすり替えられた。冷たくされた仕返しなのか、ごく軽く噛んでくる食べるようなキス。
朝の挨拶にしては情熱的な口付けは、年頃の娘の意識から棘を奪っていくにはあまりに効果的だった。とろりと心地良い重さを含んだ瞼を上げれば、満足気なディアジェが微笑んでいる。
「ごちそうさまです」
「やっぱり食事だったんですか……」
「衣食足りて礼節を知る、です」
クッションでべふんと叩かれても、ディアジェはきょとんとして避けもしない。
「満腹でも礼儀を知らないくせにっ」
「衣服がまだですから」
コンコンコンコン、と休戦を告げるゴングのタイミングでドアノッカーが来客を告げた。お届けものでーすと呼ぶ声がする。玄関へ出たシェリに、宅配業者は代金引換だと言ってイタリアの紳士服ブランド名が印刷された箱を掲げた。
「ディアジェ宛て……? ええっ、高っ」
金額に驚くが、要らないと突き返しても業者を困らすだけ。涙ながらに支払ったシェリそっちのけで、ディアジェは包装紙をベリベリ破いて散らかしている。
「きゃっふーぃ。美しい包装を破くと、とっても悪いことをしてるスリリングな気分に浸れます」
「あー分かるそれ……じゃなくて、払ったのわたしなんですが!」
「四十五番台でしくじらなければ、安い買い物だったはずです。良き知らせを無駄にしたあなたの失態です」
ものすごく冤罪を着せられてる気分になるのはどうしてだろう――とシェリは殺意さえ覚えながら思う。こめかみを押さえて自分をなだめていると、耳にジャキジャキぱちんとやけに軽快な音が邪魔してきた。
見れば頭痛の種が真新しいシャツの背中に鋏を入れ、ちくちくと手慣れた運針で布端をまつっている。
「ディアジェが縫ってたのっ? 沼にはまってた時に着てたシャツ!」
「はい。ズボンの裾上げもドンと来いです」
「誰かが縫ってあげたんだと思ってたのに。服には気を遣わないんだと思ってたのに!」
「人間がいちじくの葉で済ませてくれるなら、僕もそうします」
涼やかに言い放つムッシュ責任転嫁に、こればかりは言い返せなかった。有翼青年用シャツは女性の深く細やかな愛情の手仕事と誤解してディアジェを受け入れたのはシェリ自身だ。無断で巣材に利用されていた父からのプレゼント、鴨のぬいぐるみの首を絞めつつ我が身を呪う。
完成でーす、という宣言と同時に着替え始めるディアジェの脱ぎっぷりは相変わらず大胆で、シェリは慌てて部屋の外へ逃げ出した。そこへ耳慣れた排気音がやってきて玄関前で最後のひと唸りを上げ、ふつっと静かになる。そして接近するどすどす豪快な足音にシェリは青くなった。
「パパン参上ー! おやどこに隠れてるんだ、私の娘は? おーい」
「きゃーっパパが来ちゃった! ディアジェ何とかして、羽も巣も部屋の中で広げないでください、そうだマントを羽織るとか」
「一、真夏に時代錯誤なマントを羽織った男が部屋から出てくる。二、天使が棲みついている。さあ好感度が高いのはどっち」
「都合がいい時だけ『雛』を省略しないでください!」
シェリが背中で張りつくドアの向こう側は、がさごそとのんきな身支度を続けている気配。
「ご心配なきよう、僕に秘策があります」
人間の皮を被った熊、と密かに評される筋肉質で毛深い父は瞠目して立ち尽くす。対するディアジェは自ら仕立てたばかりのシャツとズボンを着こなし、白多めの翼を優雅に開いて慈愛の微笑を湛えている。
そしてゆっくり差し出したのは、天の御子かのように大事そうに抱いていた――スコッチファン垂涎、幻の最上級ウイスキー。
「初めまして。お嬢さんは僕が頂いちゃいました」
「…………!」
カッ、と音のしそうな迫力で父の目はもう一段見開かれる。シェリは、痴れ者めがー! と鉄拳を繰り出す父を確信して身を縮めた。
が、次の瞬間に男二人はがっちりと握手を交わして抱き合い、ばんばんばん! と背中を叩き合って意気投合した。
「メルシーボクゥ! 何とめでたい日か、私の天国行きは確実だ! 我が息子よ、この美酒で祝杯をあげよう」
「ちょっとパパ、娘の身柄と天国とどっちが大事なのっ」
「ワンウェイチケット トゥ パラダーイス! 天国シルヴプレ!」
「ありがとうパパ。これで心置きなく恨めます……」
飲む父と嗅ぐ天使での酒盛りが賑わう隣で、シェリは呪詛を呟く。今まさに開栓され酌み交わされているスコッチが、空巣に遭う前の酒屋にうやうやしく飾られていたのを見ていたからだ。
「おおっと、いかん、雨が降ってきてしまったぞ。明るいうちに妻の墓参りへ行くつもりだったのだが」
ボトルが空に近くなった頃、窓ガラスにぱたぱたと透明な小花を咲かせて雨が落ちてきた。遠くないとはいえ、墓地のある見晴らしのいい丘までの小道はぬかるむと厄介な相手だ。
参ったなあと酒臭いため息をつき、それから父はふと酔いの醒めた目を天へ向けた。
「人というのはなぜ、愛する者が天に召されるのを願いながら、その体を土の下へ埋めるのだろう。地上より天に遠く、天を臨めぬその場所へ」
「パパ……」
「なーんてな、ふはは! どうだパパンのブラックポエム」
酒屋の店主に密告したい激しい衝動を、シェリは深呼吸で迎え撃つ。佳人薄命と嘆く父こそが母の早世の原因ではなかったか、と疑いたくなった。
疑念はキュイと軽い金属音に断たれ、顔を上げればフランス窓が開いている。見えない手で押し開けたらしいディアジェが庭先へと進み出て、掌に受けた雨粒を捧げるようにそっと掲げた。その姿は空を支える天使そのもので、シェリは知らず息を呑む。
「急ぎ足の雨たち、もう少し空に留まっておいで。そこは天に近い、生きとし生けるものすべてが羨む場所です。……無論、この僕も」
雲より遥か上を望む遠い遠い瞳に籠もった愛おしさと憧憬は、シェリの胸の内に小さな暗雲を呼び起こす。
「おおっ、雨が止んでいく。メルシー天使くん、どれ一丁行ってくるかな」
「雛。雛だから、パパ……」
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
墓参にはいささか不届きな、体重に加えてアルコールによる愚鈍さの増した重たい千鳥足で父は出かけていった。
嵐を呼ぶかと思われた父とディアジェの面会はあまりにあっけなく解決し、緊張は疲労に取って代わる。ソファに埋もれながらシェリは脳内の処世術手帳に一行書き足す――損をするのは損を感じる者だけなのだ。
降り始めの雨滴が舞い上がらせていった土と草の香り、蝶さえ捕らえられないその上昇気流に乗るようにディアジェの前髪が風に踊っている。
「わあ、雲の切れ間に覗く空は何て青いんでしょう」
空を仰ぐ時、どこに焦点を合わせれば天が見えるのだろう。人はそれを知らない、あるいは忘れてしまった。ディアジェの瞳には映っているのだろうか――そう思って眺めた横顔で妖しく光る、明け方の空のような紫。
「ディアジェ……魔性気味みたいですけど」
「喜びましょう。贈賄完了、懐柔成功です。そうそう、雨上げはシェリにツケておきます。僕としてはパパンよりあなたに貸しを作っておいた方が有利です」
「天使より悪徳政治家の方が向いてるんじゃないでしょうか」
「褒めてもツケの相殺はなしです」
にっこりと非の打ち所がない微笑は馬鹿なのか、口論を上手に避ける狡猾なのか。判別できずにシェリは諦めのため息を零す。
「パパならスコッチで買収できても、他の人はそうはいかないんだから。お願いだから家の敷地から外には出ないで。来客の時は絶対にその羽広げないでください」
「不可解です。異形として僕が放逐されることはあっても、あなたは人間ですから無事でいられるはずです」
「二人まとめて病院に隔離されますってば、ディアジェは壁を抜けられるかもしれないけど!」
「僕に羽があるとあなたが壁に閉じ込められる。無粋で硬質な平面と直線で囲まれた部屋に? 羽を広げられない場所に――その理屈は非合理です」
理解できないようで、ディアジェは困った顔でしきりに首を傾げている。シェリは彼が馬鹿か狡猾かなんて考えるだけ無駄に思えて、遣りどころのない苛立ちを言葉で投げつけた。
「人間ってそういうものなの! ディアジェが天使になれない理由が分かった気がする。ディアジェは人間のことなんて全然分かってない、なのに天と人間を取り持つなんて無理に決まってます!」
部屋に閉じこもって鍵をかけたところで、壁を自由に通過する天使の雛には無意味な篭城だ。そう気付いたシェリはざくざくと鴨の森を歩いていた。怒りは身体的な発散を要求する。
歩き疲れて怒り疲れて、池のほとりで足を止める。岸ぎわの土を踏めば草の根が抱いていた泥が押し出され、澄んだ水へゆっくりと渦を描いた。
「一人で空回りして馬鹿みたい。ディアジェは人間じゃないんだもん、分かり合えなくっても当然か」
恐らく天地は泉と同じ。泥の粒はどんなに上を目指そうと、いずれ沈んで底辺で墓地を形成する。だからこそ泉は澄んでいられる。天使の雛が人間の常識やしがらみに汚されたら、その重みは彼を底なし沼へ沈めてしまう。
妙なところで世間ずれしたディアジェが天に昇れずにいる理由を、シェリはそんな風にも考えてみる。
「それって寂しい話かもね」
「水際で遠い目して独り言は危険です」
「わー! いつの間にっ」
「六十メートル手前で視界に捕捉、そこから歩行速度が時速四キロとして接近にかかった時間は」
突然現れたディアジェは真面目に計算しだす。一キロが千メートルで、と呟きながら指先は電卓を弾くような仕草をしている。
計算高いんだか純粋なんだか分かんない、とシェリは肩をすくめた。
「……ごめんなさい。パパったらディアジェを当てにして、天国確実なんてあんな現金なこと言って」
「ああっ、話しかけるから商を忘れちゃった。当て? 僕とてあなたを当てにしてます、シェリのアロマを」
「使ってない恋くらいあげます。でもディアジェは天使になりたくても、まだなれずにいるのに」
「使ってない天使の看板くらい貸します。天使の看板を欲しがらないのはシェリだけです。……でした」
何気なく言い直された語尾がシェリの胸をきゅうと締める。ディアジェは一歩踏み出してシェリの隣に並んだ。
「僕はあなたに嫌われすぎたようです」
天を覆い隠す雲を困ったような笑顔が見上げている。
「せっかくあなたを見つけたと思っていましたが、諦めます。美しい泉ほど、近づいた自分の足で汚してしまう。ですからこれ以上は近づきません。泉は澄んでいると相場が決まっているんです。死者の瞳が輝いてたらイヤなのと同じです」
「相変わらず例えがサイテーですね……」
大きな掌がふと中空をすくい取った。
「また降ってきました。日和乞いも雛の祈願ではこの程度です」
池の表面に無数の同心円が湧きだした。額に手をかざし空へ目をやったシェリの頭上を白い傘が覆う。
「真っ白でなくても、天へ飛べなくても、あなたを雨風から護る程度には有効です」
ディアジェの翼だった。雨滴が柔らかな羽根に当たる音は、たふたふと優しい。羽根の弾力や厚みの違いで音程が変わり、翼の下は様々な音階が遊ぶ貸切のリサイタルホールになる。
こんな優しい音色を聞く幸運にあずかれる人間は他にいただろうか、とシェリは思って瞼を閉じる。
「部屋の中でなければ、広げてもいいのでしょう? 雨が止むまでここにいます」
「止んだら?」
「新たな樽を探しに行きます」
「……なら、止まなければいいですね」
小雨の一団が、さあっと水面を鳴らして渡っていく。草、木々、そして翼の白と黒の鍵盤は複雑な曲を奏でて連弾する。ディアジェの唇だけが黙っていて、雨に止むよう諭さない。
雨と森と天使の雛が作り出す和音が響いていた。
「――びくしっ」
厳かな指揮者然としていた天使の雛のくしゃみが演奏会をぶち壊す。思わず吹き出した客へ向けられた薄紫の瞳はバツが悪そうにしている。その紫色は出て行くと言い出す前よりも青に近くなっていて、アロマあげてないのにとシェリを不思議にさせた。
「ディアジェ、目がラベンダー色してる。ラベンダーってラテン語の『洗う』が語源って知ってる? 魔性の混じった目の色でも、ちゃんと洗い流せてます」
何を? と不思議そうに首を傾けるのが微笑ましくて、シェリはわざと答えないでおいた。
「アロマ、いりますか?」
そばにあった肩へ頭を預ける。雨が連れて来た涼しさの中で、天使の雛は温かかった。唇を寄せるディアジェの濡れた前髪から、小さな水滴がぱたん、とシェリの額へ落ちてくる。
「いま僕が欲しいのは、アロマより」
その先の言葉は、言葉でないもので伝わってきた。
雄弁な調べに鼓動が重なる。
膨らみすぎた気持ちは心肺も喉も押し潰して胸を埋め、人から言葉を奪う。天が言葉を持たないのは、最も原始かつ完成された形で伝える術を忘れていないからだ。
だって、とシェリは思う。
そうでなければ死ぬほど胸が苦しくて、人類の叡智である言葉を一つも発せられないのを、どうして天にも昇る心地と讃えられようか。
唇で聴く天上の音楽は突如、大きな羽ばたきに遮られた。はっとして唇を離して見回せば、近くの梢でカラスが羽繕いしている。
「ねえ、ディアジェ。あのカラス、すっごい馬鹿にした感じでこっち見てる気がするんだけど。しかも目が三つあるような気がするんだけど。翼に一枚だけ、白い羽根がある気がするんだけど」
「リュシアンめ、パパンに料理されちまえっ。……気のせいです。非科学的です」
「非科学の権化な天使の雛が言いますか。笑顔は完璧だけどその目、さっきよりむしろ魔性が増してないっ? キスしたのになんでー!」
天使の雛を追うシェリの胸の片隅で、暗雲がとぐろを巻いて蠢いている。
――ねえシェリ、恋は忘れちゃって。恋をしたらアロマがなくなって、僕は、あなたのそばには……。




