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5. どれだけ羽撃いても 鳥のようには飛べなくて

 ねえ、お願いよ。

 わたしの命が終わる時、あなたが迎えに降りて来て。

 穢れなき純白の翼で、聖なる御手で、わたしを天へ連れて行って。

 約束よ。

 約束よ。




5. どれだけ羽撃いても 鳥のようには飛べなくて


「どうにか騙しおおせたってとこだな――『ディアジェ』?」

 愉快さに少しばかりの冷ややかさを取り混ぜた低い声は、含み笑いと持ち主を伴って床から不意に湧いて出た。テラコッタのタイルを水から上がるようにするりと抜けたかと思うと、瞬きの後にはその上へ寝転ぶ。

「たどたどしくて目も当てられなかったけどな、笑わせてもらったさ。あーあの泡、ありゃ本気でじゃれてただろ。ったく呆れたもんだっての」

 毎度の事ながら挨拶抜きの来訪だった。枕とクッションで建設途上の新たな巣を、悪趣味だとはっきり顔に書き出しつつ眺め回している。

 ディアジェの手は近くにあった枕をもぐら叩きの要領で不躾な訪問者にぶつけた。

「やはりリュシアン……雛鳥の奮闘を窓から覗く悪趣味な悪魔は、君くらいです」

「他に誰がいる? おまえを堕とす楽しみは、魔王様にも譲れるか」

 ぞんざいに枕を投げ返す黒衣の客は薄く笑う。

 バスルームを見下ろす梢で欠伸していた三つ目のカラスは本来の姿に戻っており、艶やかな黒を湛えた羽をゆっくり畳んだ。ディアジェのものより一回り大きく長く、飛ぶという実用を為す。それが地中であってもだ。

「追い払われない程度に嫌われようと必死だったな? ご苦労なこって、悪魔なら犯すだけで終了。至って簡便な快楽。諦めてここいらで堕ちてしまえ、俺のようにな……おお怖い」

 睨まれて、正真正銘の悪魔はルビーより燃える瞳を楽しげに細めている。零れ落ちてくる黒髪を面倒そうにかき上げれば、魔界の住人特有の尖った耳が何連ものピアスを重そうに揺らした。

「そそ、その調子。睨め罵れ怒れ嘲笑しろ、魔性という紅蓮の火に薪を投じろ。ふん……いつまでもしぶとい奴。せいぜい足掻くことだ、そう、今度の『シェリ』にも愛されたりしないように」

「ご心配なきよう。シェリが折れた理由は好意でなく興味です」

「これはまた学習していなくて嬉しいぞ、ディアジェ。幾人のシェリを失おうとも解らずにいてくれな。そして『天使になって、私が死んだら迎えに来て』というお決まりの約束を踏みにじり続けてくれ。……んー、そう言や」

 いたずらに痛みを煽っていたリュシアンが唐突に話題を変える理由を、ディアジェは長い長い付き合いで知っていた。

 リュシアンは天界に昇れずにいるディアジェの姿を面白がっているに過ぎない。実際に魔界へ堕としてしまえば、リュシアンはディアジェに対する一切の興味を失うに違いなかった。だからディアジェを痛めて魔性に染め切ったりはしない。

 要するにディアジェは、食べる気もない猫に爪で転がされている蝶のようなもの。

「アロマの報酬は取り決めたのか?」

 午後に四十五番台、と呟きながら出掛けたシェリの財布は、夕方に大幅な軽量化を施されて戻った。釘の甘さもビギナーズラックも、ギャンブル経験のなさをカバーできなかったようだ。涙目の抗議を受けたディアジェはおやつをねだり損ねた。

「金輪際ギャンブル系の知らせは遠慮するそうです。ですからアロマのお礼はツケにしちゃって、って言っときました。シャワーを知らないくせに、何処で覚えたんですかそんな単語――とか脱力してましたっけ。あれでなかなかに切り返しの鋭い女性で……」

「おいおい、ディアジェ?」

 研ぎ澄ました黒炭で引いたようにすらりと流麗な眉が上がる。光り物を見つけて物にしようと飛び立つカラスの様相で、リュシアンの比率の長い手が広げられた。

「饒舌は悪魔の専売特許というのに。どうしたどうした、餌に惚れたか? こいつは滑稽、ジャガイモに恋はしないなんて牽制しておきながら」




 深紅の瞳でたぎる炎が一瞬、そうと知る者でなければ読み取れない極小の幅に揺らいだのを見逃さなかった。次いでディアジェの視線は悪魔の翼に一本だけ白く輝く羽根へ流れる。

 リュシアンが天に背いてまで溺れた女性は、雛鳥の堕落をそそのかしたとして人の形すら残されなかった。魔界の隅で意思もなく蠢く肉の塊にされたと聞いたかつての彼の女神。その隣へ崩れるシェリの虚ろな瞳を想像して、ディアジェは無言のうちに首を振る。

 沈黙に己にまつわる悲しみの匂いを嗅ぎつけたのか、リュシアンは迷惑そうに顔を逸らした。

「面白くもない。おまえの性質は悪魔向きのはずだろ、ディアジェ。そんな目をされる覚えは……ディア、ジェ? そっか『ディアジェ』か。いいね、今度のシェリは悪くない」

 急に背を丸め翼の先を震わせて、悪魔が忍び笑いをする。

「傑作だ。聞きたいか? 聞きたいな?」

 彼らはこうして気を持たせるのが好きだ。別になどと答えようものなら、たとえそれが相手の生死に関わることであろうと、笑ったまま何も言わずに飛び去ってしまう。

 諦念と共にディアジェが素直に頷けば、ルビーの瞳に満足そうな明るい色が射した。爪の伸びた指先がテラコッタの上へ文字を綴ると、軌跡が細い炎となってインク代わりに留まる。

「悪魔のDiableと天使のAngeの前後を繋げて出来る名だ。悪魔が先に立っている。悪魔の頭に天使の身体。うまくおまえの性質を言い当ててるぞ」

「あっ?」

 『沼に落ちてた人』の次に提示されたまともな名前につい飛び付いた自分の浅はかさを知って、ディアジェは額を押さえる。これがリュシアンを喜ばせてしまったらしく、ばたばたと羽を打ち鳴らして笑っている。

「我が旧友、そうでなきゃおまえじゃない。飛ぶな、永遠に飛ぶな。潜るのも許さない。どれだけ羽ばたこうとも鳥にさえ及ばぬ無力さに、おまえの心を食わせるな。俺を喜ばせてくれ、なあ、無尽蔵な人間の欲などとうに食い飽きた俺の慰みを、取り上げたもうな」

「……僕は必ず天へ飛びます」

 どうからかわれようとディアジェの内には、この悪魔を追い払う気も憎む気も起きない。むしろシェリを乗り換える度に嘲笑しに来るリュシアンがいなければ、白い羽根の重さに耐えかねて魔界へ身を任せていたかもしれないとディアジェは思う。

「なにしろ今度のシェリのアロマは、ヴィンテージのAngel's Shareも恥じ入るほどです」

 まあなあ、と悪魔が同意の印に唇の片端を引き上げると、鋭い牙が覗いた。

「認めてやるさ、掃き溜めの中にしちゃまともな餌だってな。恋してない、かといって失望もしてない、雛好みの熟成加減。ディアジェの名にふさわしく、恋心を生かさず殺さず……存分に飼い殺すことだ、最後の一滴を搾り切るまで」




「ノックくらいしてください!」

「あなたは僕を突き落とすのがお得意です……」

「自業自得です!」

 しみじみ見入らされた健やかな寝顔は跡形もなく消失し、シェリの眉間には猛々しいアルプス山脈が隆起していた。おまけにその手は枕の下から拳銃を召喚中。

「禁猟期間です、シェリ。空砲で脅すのは無意味です」

「護身用は年中無休! しかも銀の弾丸篭めてありますからっ」

「悪魔ならまだしも、天使の雛鳥に銀の弾丸は無効です。お腹が空いたのですが、眠っているあなたを起こすまいと気を遣ったというのに誤解です……チッ、寝てる間に食ってしまうんでした」

「銀の弾がものすごーく効きそうな発言をしませんでしたか」

 悪魔のリュシアンが潜って帰って行った後、ディアジェは天井を抜けて乙女の寝室に侵入していた。

 なぜ無粋で硬質な平面と直線で、人間は住む場所も行く道も限定してしまうのだろう、とディアジェは思う。自由に通ると叱られてしまう。人が囲う空間は立ち歩くには困らずとも、羽を広げるには不適当だ。

 きっと人間は直線を覚えて羽を忘れてしまったのだ。そう、蛇がそそのかしてアダムとイヴに食べさせた林檎の実は、ニュートンを使って万有引力の法則なんて味気ない定式で、天の創った世界の秩序を暴かせた。その報いかもしれない。

 そんなことを考えながら寝顔を眺めていて小腹が空いて、夜食を頂こうと屈み込んだところで、タイミング悪く夜食が目を覚ましてしまった。

 有無を言わさずベッドから突き落とされ、ノックしろと怒鳴られて今に至る。

「食べ足りないと魔性が疼くんです……」

 間にふわふわの寝具が無かったら、突きをまともに受けていただろう。身を挺して衝撃を吸収してくれた柔らか寝具を巣材に欲しくて、掴んでずるずる引きずり落とす。

 が、シェリは変質者を見る目でディアジェの額に銃口を押し付けてきた。ごりごりと険悪な音が脳内経由で聞こえる。銃身が概ね黒なのは、生命を奪う魔性の道具だからかもしれません――とディアジェは納得してみる。

「お取り込み中申し訳ありません。銀の弾丸を撃ち込むなら、脳より心臓がお奨めです」

「誰のせいで取り込んでるか分かってますか」

「ギャンブル以外でお礼はします。かつて先輩は助けて頂いた返礼に機織り部屋に篭もり、自分で羽をむしって反物にしたそうです」

「う……そうでした鶴の羽根も白地に黒……」

 あれも怪我して動けなくなってたのを助けられた話だったような、まさか雛鳥には詐欺マニュアルが、と絶望的な顔付きで呟くシェリの銃からそっと額を離す。銃口へ掌を差し伸べると銀の弾は砂になって零れ落ち、煌く小山を形作る。ぎゅっと握ればたちまち細いチェーンに姿を変えた。

「ううん、羽根入り生地なんてもらっても困ります」

 はっとして詐欺疑惑追究から戻ったシェリが拳銃を握り直したあたり、弾が抜き取られた事に気付いていないようだった。

「今のご時世なら羽毛寝具かダウンジャケットね。あ、ちなみにこれ羽毛布団。天使の雛を一羽使ったら、布団は無理でも枕くらいは……あ。ごめんなさい、そんなに鳥肌立てて震えなくても。っていうか反物とか言い出したの、ディアジェでしょ……」




 鳥肌を出したくらいで銃を引っ込めてくれちゃうシェリには、黒い羽の害虫が不安です――と、ディアジェは親心なため息を一つ。白い羽根をぷつんと抜いて銀のチェーンに挿す。

「これをあなたに差し上げましょう。着けますから後ろを向いて」

「ネックレス?」

 首輪です、と内心だけで訂正を入れておく。

「わあ、きれい……でもまさか宝石店で空巣した獲物じゃ……」

「疑惑は不当です。とはいえ、半分は頂き物と言えます」

 なおも疑うシェリだが、繊細なアクセサリーに既にご執心なのは鎖に触れそうな鼻先が物語っている。どうか僕を助けると思ってもらってください……などと言いくるめ、後ろを向かせた。

 羽根を挿したネックレスはアンテナ代わりだ。シェリがどの方角にいるか、悪魔に邪なちょっかい出されたりしていないか程度は察知できる。

 巻貝をシェードにしたランプは電球から天然に近い色彩を選り分けて、部屋を遅い夕焼け色に染めていた。片手で髪を上げて露わになったシェリの首筋も、優しい暖色の恩恵を受けている。

 首輪を嵌めようとしていたディアジェの手が止まった。

 視線の軌道は滑らかな首筋からうなじへと誘われ、柔らかそうな産毛に踊らされて、ふっくらとした耳朶を経由して頬へと渡って行く。その質感と体温は視覚以上に指先で確かめずにはいられず、ディアジェは暗さを言い訳にネックレスの連結にもたついた。

「シェリ。僕に出来る最大の礼は、あなたの命が終わる時、あなたをきちんと天国へエスコート――」

「お断りします」

「――することですが、魔界がご希望ならきちんと逝かせて差し上げます」

「魔界も、ディアジェみたいな胡散臭い天使も願い下げです! 天国くらい地図くれれば自分で行くから!」

 銀の弾丸を撃ち込まれた魔物が砂になる瞬間ってこんな感じです――ディアジェは意識が砂になって毛穴という毛穴から漏れ出してしまった気分でフラついた。

「不可解です。僕はこれでも何人もの女性にご指名頂いてきた身なのに、殺生です」

「そんなんだから、いつまで経っても天使になれないんじゃないですか?」

「言葉が銀より効くとは……僕は、僕はあなたのためを思って言ったのに非道です……くそ、そろそろ泣き真似が通じない」

「泣き真似の見抜き方が分かりました。嘘ついてると羽の黒が増えます。それに」

 ディアジェは目を逸らしつつ、出来るだけ小さく羽を折り畳んだ。

「わたしのためを思って? 誰かのためにとか、悪魔は重労働だからイヤだなんて消極的理由の雛鳥、わたしが天でも認めませんっ」

「シェリ……」

 スコッチのAngel's Shareでなく恋のアロマで代用するようになってから。恐らく自分も人間の直線に囲まれていたのだ――とディアジェは悟った。『シェリ』のために天使になるべきという直線の人道に。

 折り畳まれた翼の奥でも、嘘に増えた分の魔性が聖性に追いやられ、羽根の先端から霧散していくのがはっきりと知覚できた。

 Angel's Shareも恋のアロマも摂取していないのに魔性が消える初めての感覚に、ディアジェは戸惑う。戸惑うが、あまりに清浄な後味は何らかの奇跡が起きたことを示唆しているようで、素直に流れへ身を任せる。

 Water、と体内の奥底で誰かが叫んでいる。

 生命の水、Aqua Vitae、無上の幸福をもたらすもの、人間の持ち得る限り最も清澄で、神聖な――それが無数の金色の光の粒となって降りて来たのを、ディアジェは陶然として眺めていた。

「今まで……誰一人、そんな風には……誰もが僕に必ず天使になれ、と」

「いえ、えっと。悪魔になれって言ってるわけじゃ……」

 恋のアロマは香水のようにほわりとシェリの身体から立ち昇る。

 人間にとってはフェロモンに等しいアロマで、天は雛鳥たちを試すのだ。恋に恋して恋人を捻出する愚者のように、アロマに眩んで身体ごと頂いたりしないかどうか。

 無上の幸福を、ただし度が過ぎれば死をもたらすAqua Vitae。本能は薔薇色に弾けて咲き誇る、だが眠らせておけば鈍色の幸福で足りたのに。

 試練を受ける身を痛感しながら、ディアジェは腕を伸ばしてシェリの細い身体を抱き込んだ。

「聞いてシェリ……アロマの摂取法が唇へのキスだけとは不便です。キスはキスでも、あなたの開口部から受け取れます。そう、例えばこことか……」

「きゃっ?」

 囁きを落とす耳へ唇を押し当てれば、シェリのしなやかな身体が腕の中でぴくりと跳ねる。

「それから、もっと下……とか」

 どうするシェリ、逃げる? それとも二人揃って堕ちちゃう? ――ディアジェは翼を広げてシェリにもう一周の拘束を重ねる。

 だが不意に胸を押し潰す、経験したことの無い冷たく痛い感触にディアジェの腕は緩む。目を落とせば痛む胸には、銃口がぐりぐりと押し付けられていた。

 銀の弾丸はシェリの首輪に変わって空砲なのは知っていても、殺気と銃口を差し向けられるのを普通は悦ばない――魔性に浸かった者以外は。

「恥じらいが染めたあなたの頬はこの世の眼福……痛いです誤解です。鼻です、耳より下の開口部といえば鼻です」

「耳と鼻はほぼ同位置です! それに羽がすっごい勢いで黒くなったんですけど! 絶対、いかがわしいこと考えてたでしょう!」

「天使における清廉を貫けば人類は死滅します」

「人じゃないくせにー!」

 魔性が疼く。意識へぽつり、ぽつりと血が滴るように赤い色が落ちてきて、病原体のように増殖していく。あれに心を食われたら、僕はシェリを、リュシアンの女神と同じ場所に――それだけは、と低い呟きは他人の声のように遠くから聞こえた。

「ねえシェリ……恋は忘れちゃって」

 清純の証であるラズベリー色の頬をそっと両手で包み込むと、警戒に塗り潰されていた瞳がくらりと揺れた。同時に銃口はおずおずと身を引いたのに、ディアジェの胸には冷たさが居残っている。

「あなたが恋をしたらアロマがなくなって、僕は、あなたのそばには……」

「ディアジェ……? やだ大丈夫? 苦しそうな顔してる……」

 いただきまーす。

 と、ディアジェは内心きちんとお礼申し上げて夜食のキスを満喫した。


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