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4. いつも背中の開いた服

 袖が短いとか襟が落ちているとか、それより彼女の父のシャツが青年に合わない最大の理由は羽であった。

「着てた上着、一体どういう構造してたんですか」

「手が二本です」

「得意気に申告するほど驚きの事実ではありません」

「先程までいちいち驚いてくれたのに不発です……」

 結局は前後逆に羽織らせ、ウェスト間際のボタンだけを翼の下で留めるという力技に打って出た。ぶかぶかのズボンをベルトで締めたら皺だらけだし、裾は足首どころかふくらはぎまで覗いている。

 実に情けない姿だが、裸がデフォルトと主張する天使及び悪魔の雛は気にしていないように見える。ふんふんとしきりに空気を嗅いで首を伸ばし、廊下の方へ出たいようだ。

「外に出たりしないでくださいよ? 羽付きな上にそんなおかしな格好なのを見られたら、二人まとめて隔離……」

 そんなおかしな格好が壁をすり抜けた。

「わーっ、嘘ーっ! え、えーっと、この壁の裏ってどこだっけ」

 中庭だ、と小さく叫ぶ。廊下を走り、部屋を抜け、つまずきながらようやく中庭へ辿り着いた彼女の目の前で、羽付きの背中は別棟の壁をすり抜けて消えるところだった。

「ここまで来たのに!」

 慌てて取って返して問題の部屋に入ろうとしたが、ノブが回らない。

「鍵、鍵」

 真鍮の鍵は逃走劇を楽しんでいるのか天使の味方なのか、震えてなかなか言うことを聞かない。焦って乱暴にして鍵穴に傷が付いた。父のしかめ面が彼女の脳裏をよぎるが、ご近所の評判に修復不可能な傷が刻まれるよりマシだ、と罪悪感を一蹴する。

 ようやく中へと転がり込めばお尋ね者はバーカウンターの上でちょこんと膝を揃えてしゃがんでいて、まるで大木の枝で律儀に卵を温める親鳥のようだった。だが嬉しそうに抱いているのは、卵でなくスコッチの瓶。

「ダブル・マチュアード……大好きです」

 ふんふん嗅ぐ彼をうっとりさせているのが未開封だった父の愛蔵ボトルと知って、彼女は手痛い臨時支出を覚悟した。

「無断で壁をすり抜けないでくださいっ。お酒を盗まないでくださいっ」

「天使が降りて来るのに煙突で四苦八苦してたら不様です。北欧の太っちょな聖人と同一視は心外です」

「天上から降りて来るならまだしも、歩いて抜けられるのは激しくイメージ損壊です。じゃなくて、もしかして町の酒屋を荒らした空巣ってやっぱり」

「Angel's Shareでなくてもスコッチのアロマが恋しくて……人間における煙草のようなものです」

 酒屋荒らしをかくまった罪まで負わされることになり、彼女は頭痛を覚えてこめかみを押さえる。

 その手首をそっと掴む手があった。

 包むように優しく、なだめるように温かな指にびくりとした彼女が顔を仰げば、銀髪の間からサファイアのごとき奥行きを湛えた瞳が見下ろしている。サファイアが天国の石と呼ばれる理由を納得させる、深いのに澄んだ色。

 穏やかに微笑む唇からは、熟成されたウイスキーの洋梨に似たアロマが零れてくる。

「でもあなたのアロマの方が、遥かに生命です」

 天使の囁きはスコッチの陶酔。




「広い部屋……祭壇がないとは、教会にしては不真面目です」

 雰囲気に呑まれてつい食事をさせてしまった彼女の指先は唇をなぞって、滑らかな熱とスコッチの残り香を持て余していた。

 恋人同士なら困らないのに、会ったばかりでキスした後に何を話せと言うのか。温かい唇の余韻を収めながらうまく会話を切り出せずにいると、そうと察したのか鈍いのか、当惑の元凶は室内を見渡しながらのんびりのたまった。

「ここはレストランです。父はジビエ料理のレストラン経営者なの。オフシーズンは閉めてあるんだけど、わたしは避暑で一足先に来ていて」

「ジビエ?」

 ジビエは狩猟して食する野生の鳥、鹿、兎などのこと。シーズンは秋からだ。

 純粋な野生・ソバージュだけでなく、一定期間の飼育の後に放したり野生を餌付けるデミ・ソバージュ、自然の森に網を張って飼育する半野性のエルバージュもある。

 彼女の父は業者を雇い、レストラン裏の敷地でデミ・ソバージュを行っていた。

「沼にはまってる時、見ませんでした? 鴨とか雉とかうずらとか」

「はまっていただなんて。あなたに撃たれて」

「騙されませんってば」

「……鳥を料理する部屋と理解します……早まったようです」

 ひそりとした呟きを落とし、有翼青年は白黒の羽を小さく折り畳んでふるふるしている。

「屋根に鉄の鳥がいたので、鳥フレンドリーだと思ったんです」

 レストランの青屋根に立つ風見鶏にあらぬ期待を寄せていたらしい。幼い勘違いに彼女の胸は温まる。

「そういう意味じゃ……だって牛の看板を提げている肉屋に牛が寄って来ますか?」

「掲示が捕食や反目の証なら、教会の十字架は不敬です」

 温まった三倍分の体温が彼女の胸から脱走した。

「鳥を食べるということは、あなた方は鳩やカラスも」

「鳩は食べますけど、カラスは食べません」

「悪魔びいきです」

 責め口調で詰め寄られるに至って彼女は、鳩は天使に、カラスは悪魔につきものだと思い出した。

「うーん、単にカラスがおいしくないだけかと思いますが」

「僕の前で鳩は撃たないで。天使の先輩方の心証が悪くなります」

「どこまで利己的なんですか……」




 昼間からスコッチの香り漂わす放蕩青年だが、一方で鴨の幼鳥のように従順に、ランドリールームまでてくてくと彼女の後をついてきた。途中、壁をすり抜けて近道したそうにする度に厳しい制止を受けながら。

「泥だらけの服、洗濯してあげますから。乾いたらそれ着て帰ってくださいね」

「盟約不履行は魔界へ不返の流罪です」

「いつまでキスを搾取する気ですか! 家はないんですかっ」

「恋のアロマを食べてるだけです。巣は、日照と通気性を考慮してあの辺りにします」

 と青年が指差せば、リビングの一隅から勝手に家具が退去した。

「居つくんですか!」

「人間の家は直線ばかりで不恰好です。クッションや枕を持ってきて。巣というものはふわふわでまふまふで」

 洗濯、一刻も早く洗濯、と呪文のように繰り返しながら彼女の手は泥にまみれた彼の服をかき集める。

 シャツらしき泥の塊にシャワーを浴びせてみると布地の妙な少なさに気付く。広げれば一目瞭然で、シャツの背中には大きな穴が作られていた。

 上質なイタリア製の生地は背中部分で惜しげなく切り抜かれ、縁は手縫いで丁寧にまつられていた。迷いのない端の始末は、このシャツが初めての羽用加工でないことを物語っている。

 彼のために幾枚も上等なシャツを買い、背中を開けてやった人がいる。

 その人は彼に恋のアロマを与えていたんだろうか。服を買い、縫ってあげて、一緒に暮らしていたんだろうか。そうさせるほどの何かが彼にはあるんだろうか――心の篭もった縫い目が彼女の好奇心を優しく煽る。

 だとしたらなぜ彼はそんな居心地のいい人のそばを離れ、裏の沼地なんかに落ちてきたのだろうか。

 Curiosity killed the cat. 好奇心は九つの命を持つという猫さえ殺す、ほどほどにせよ――という諺が胸中を舞う。その好奇心は別の諺を掘り起こしてきて反論を試みる。

 A cat has nine lives and a woman has nine cats' lives. 猫は命を九つ持ち、女は猫九匹分の命を持つ。女は逞しい。

「おまけに猫にはない知性も持ってる」

 知りたくなった時点で盟約はもう、成されたも同然。

 理由の後付けは人間だけの得意技だし、と彼女は思索の終わりにひとつ肩をすくめて、リビングへ声をかけた。

「名前を教えてください。わたしの名は――」

「名乗るなんて不注意です」

 大きなクッションを抱えて出て来た彼は、空いている手で翼の黒い羽根をつまんでみせた。

「僕は悪魔の雛でもあるんです。真の名を教わったら、あなたをそそのかしてどんな契約を結ぼうとするか……責任持たないよ?」




 今まで散々騙してきた悪魔の雛が、わざわざ警告を発している。酒と恋のアロマで聖性に傾いているからなのか、それともよほど危険な注意だからなのか。

 猫九匹分の命を持とうとも、魔性にかかれば鼻先で軽く吹き飛ばされそうだった。猫にはないアドバンテージのはずの知性も、この分ではさしたる役に立ちそうにない。

 早くも後悔が渦巻くが、不返の流罪発言が一気に真実味を帯びてきたので引くに引けない。彼女は知らず乾いていた喉をこくりと鳴らした。

「ええと……なら、そちらの名前を」

「お好きなように名付けてください」

 名乗りあうだけのはずが、ややこしい話に。

「僕にとって僕の名は不要です。必要とするあなたが好きに決めちゃって」

 自分で自分の名を呼ぶことはないから何でもいい、という理屈らしい。マイペースを悪気なく貫かれる迷惑を教えねば、と彼女は意趣返しを企む。

「じゃあ……沼に落ちてた人」

「不服です」

「好きに決めろと言っときながら選り好みするんですね」

「せめて、あなたに撃たれて沼に落とされた空腹で哀れな天使の雛と」

 吐息一つで散り落ちる繊細な花弁のように儚げな様子の割に、言うことは抜け目ない。仕掛けた意地悪以上の重量で返された疲労は、彼女に抵抗を諦めさせた。

「ディアジェ、とか」

 ぱっと輝いた青玉が気に入ったと雄弁に語っていた。

「はい。ではあなたにも名前を授けましょう。だって名前をもらったんですから、名前を返すのがギブ・アンド・テイクというものでしょう」

「取引条件にうるさいのは悪魔だけかと思ってました」

「実を言いますと、会った瞬間から決めていたんです」

 青年――命名ディアジェは、満点の答案を母親に見せようとする子供みたいに上気して、手にしたクッションをわふわふさせている。

「あなたの名は、シェリ。ぴったりでしょう」

 Cherie――愛しいひと。

 出会いの瞬間に決めた名が、愛しいひと。

「あ……」

 反射的に胸を押さえ、彼女は思った――こんな勢いで温かいものが溢れ出してしまったら、魂まで持って行かれそう。

 掌に伝わってくる鼓動が騒がしい、だからと言って静かにさせたくはなく。呼気の届きそうな近くに天上の笑みがあるのに気付いて、彼女は静かに息を詰める。

 微笑の形を崩さずに、ディアジェの唇が吐息だけの言葉を紡いだ。

「なにしろ、あなたは僕のアロマですから」

「……え?」

 アロマ、というお酒に馴染み深い単語が彼女の心拍数に待ったをかける。

 Sherry、シェリー酒。スコッチの熟成に使われる樽はシェリーやワインの古樽だ。すなわちAngel's Shareを生み出す樽。ディアジェにとっては食料製造工場、兼、保管庫。

「この……貪食天使!」

「の、雛鳥です」

 天使がくれたのは樽の名前。


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