3. 一つの背から 白い羽と黒い羽
溶けた泥でカカオ色に染まる泡を流していくと、現われた翼は新雪の降り積もった山脈か、その日最初の曙光を受けた雲海のよう。
純白と言うより、あと一滴で白銀になりそうに透明な金を内包した白。北極熊の毛並みは白いのではなく、色素がなくて透明で、毛の内側で光が反射するから白く映るのだという。そんな趣の白。
翼だけじゃなくて髪まで揃いの銀白だ。
「わあ、きれいない……ろ?」
感嘆は風切羽根の異変に塗り込められる。
シャンプーの間から変だと思ってはいた。どれだけすすいでも流れない闇色は、沼の泥炭よりも遥かに濃く、翼の先端から下縁を鮮やかに染め抜いている。
「黒が入ってる……」
「僕たちの翼は聖性百パーセントで真っ白、魔性百パーセントで髪まで真っ黒になります。目も聖性が強ければ青、魔性が強ければ赤に」
天使にも悪魔にもなる雛は、心の清らかさで翼と瞳の色が変化するらしい。即座の反映を待ち構えているのか、白と黒の境界線は凪ぎ切れない湖面のようにゆらゆらと移ろっている。
「あれだけわたしを騙したくせに、これじゃ黒の比率が低すぎませんか」
「僕は天使になりたいのです。悪魔になって人間の欲をせこせこ回収するのは重労働でイヤなんです」
「その発想がすでに悪魔寄りかと……っていうか騙したの否定しないんですね」
「あなたの恋を食べたから、少しは聖性が戻りました。感謝します」
金の斧を落としたのに錆包丁を突き返されてる損失感。
「恋を食べるって、キスをすることなんですか?」
「キスごときで天使になれたら、世界は天使で溢れ返ります」
奪われた挙句、ごとき呼ばわりされたキスの被害者は惨めな気分で閉口した。
「僕らは長年、Angel's Shareで聖性を維持してきました」
聞いたことのあるその単語がスコッチ好きの父から聞いたものだ、と彼女は思い当たった。
樽詰めの蒸留酒は熟成させている間に蒸発し、年に約二パーセントずつ減っていく。減るほどに美味となる酒はまるで天からの贈り物。
だから蔵の人々は畏敬を込め、この蒸発分をAngel's Share――天使の分け前、と呼ぶ。
「あの芳醇なアロマが僕らを清め、天界へと導いてくれるのです……」
神の国を語るようにうっとりと夢見心地な青年は、酒が天使を作っている衝撃の事実に幻滅中の聞き手に無頓着だ。
「ところが近頃は嘆かわしくも良質な醸造所が減り、天界は慢性的アロマ不足に陥っています。そこで恋です。恋は人間の持ち得る限り最も清澄で、神聖な――」
慈愛を湛え透明な眼差しをした、天使らしい顔が見る者をどきりとさせる。
「――食糧です」
「やっぱり思考が悪魔寄りなんですね……。お酒と恋に同じ効果があるとは思えないけど」
「どちらも人を酔わせます。無上の幸福を、ただし度が過ぎれば死をもたらすAqua Vitae――生命の水」
Aqua Vitaeはラテン語で生命の水。古い時代に薬として飲用されたウイスキーの語源だが、説かれてみれば恋もお酒と似ていた。
「命を授かるという意味においては、恋こそがAqua Vitaeの名に相応しいのでしょう。人間は生命の名を与えられた酒も及ばぬ甘露を賜わりながら、恋に破れて酒に縋る、不思議な生き物です」
「……そう、です……ね」
悪魔がまた手のひら返す。悪びれもせず人を罠にはめ、言葉で愚弄したかと思えば、美貌と清純で恋を語る天使になる。
反転を続けるティーカップに乗せられているようで、平衡感覚はミルクを吸ったカステラみたいに甘く崩れる。天使の無邪気と悪魔の魅惑をブレンドした笑顔で詩的に囁かれれば、彼女はもう頷くしかない。
「あなたの恋のアロマは純で雑味がなく、瑞々しくて、この上ない聖餐でした」
食べ足りない、と煌く紫の瞳で訴えられれば逃れようもない。泡の滑り落ちる腕が首に回され、美味称賛する唇の距離を回転木馬の速さで縮めていく。
「あなたは恋に縁遠く、アロマが有り余っているようなので。僕に食べさせて、その死蔵資源」
「一瞬でもフラついたわたしが愚かでした」
「もちろん、お礼はしましょう」
バスタブに背を向け出て行こうとした彼女のベルトを、青年は口調の悠長さに不釣合いな素早さで掴んで引き戻した。
「死後の天国行きを保証されても遠慮します!」
「代替資源提供ごときで天国を融通したら、天の不興を買います」
逃亡を切望する足は踏ん張って振り切ろうとするのに、一歩も前へ進まない。
「離してください。帰ってくださいっ」
「全裸で空腹の僕が門前で泣き濡れていたら、あなたの一生の不名誉です。外道と後ろ指さされるあなたはとても不憫です……」
殉教者を悼むに相応しい憐れみの面持ちで首を振るのが、不憫な状況へ追い込もうとしている張本人。厳重に抗議しようとした彼女の注意は、ふと気付いた視界の違和感へと向けられて原因を探る。
影の多さ。
青年の翼の黒い縁取りが、迫り来る不吉な夜のようにじわじわと白を侵食して登っている。あれが翼を食べ尽くし、髪をも染めれば、彼は魔界へ堕ちていくのだ。
ぞっとした寒気が腕から首筋へと肌を逆撫でしながら走り抜け、心臓の裏に居座って内側から冷気を吐き出し始めた。
「恋を食べさせてくれれば、幸いの知らせを授けます」
増殖する闇色から目が離せない。青年は返答の消失も背中の異状も感知せぬにこやかさで取引条件を述べている。
「たとえば、こんな知らせです。麓の駅前パチンコ店、四十五番台の釘が甘くなっています」
「世俗的な天使ですね……」
うごめく魔の色は、白鳥を食らう蟻のように、月を消す暗雲のように、彼の背を目指して進軍する。
「安心して。Angel's Shareが酒そのものでないのと同様に、僕らが食べる恋は恋そのものでなく、待機して熟成中の恋心の香りです。あなたが誰かに恋すれば、それは樽が開けられたということ。僕は新たな樽、新たな分け前を探して旅立ちます」
泥を落として息を呑んだ白。あと一滴で白銀になりそうに透明な金を内包した白は、宇宙のように濃い、それだけに温度のない黒に退却を強いられている。羽の根元に近付くほど、闇は勢いを得て速度を増すようだった。
「ああそうそう。僕があなたを危険に晒すか、など不要な心配です。肉欲はワインの澱のようなもの。触れれば僕の翼には拭いがたい染みが残るでしょう」
「あの、背中……」
「そもそも僕があなたに恋するなんて不適当です、あなたがジャガイモに恋しないのと一緒です。聞けば人間の中には猿とか馬を好む者もいるとか――」
痛いほどに心臓が警鐘を打ち乱し、青年の柔らかな声をノイズが掻き消す。暗黒を抱く翼、魔性の赤に染まる瞳。微笑めば天使だった彼が堕ちようとしている。
――天使になりたいのです。
「だめ、そっちに行っちゃだめ」
彼女がバスタブに駆け込むと、水滴と泡とが暴れて周囲を舞った。構わずに膝をつき、泡ごと彼を引き寄せる。
「使ってない恋くらい、あげますから……!」
「無理にとは――」
「黙って」
悪魔にするのはしのびない、その一心だけ。
最初のひと触れは、思わぬ温かさに驚いたように互いが身を強張らせた。だが再び寄り添えば、もう迷いなく授受を繰り返す。重ねる唇のせわしさは、長い不在に耐えかねていた恋人のようで。
回した腕の中で徐々に青年の体から力が抜け、酔ったようにほぐれていくのを感じる。湯が静まり、ぬるんでもなお、泡の雲に包まれて彼は分け前を堪能していた。
天使の雛はシャンプーの香り。
幸せそうな吐息が満腹の合図か、彼女が目を開ければ翼は僅かな縁取りを残して銀白に輝いていた。
「盟約成立。不履行は魔界へ不返の流罪、です。……はい、メシ確保」
極上の微笑で宣言された瞬間に翼の黒が一段増えたのを、暴言が聞こえたのを、彼女は精神衛生のために錯覚ということにした。




