2. 洗うときはシャンプーか石鹸か
気に入りのホーロー製猫足バスタブも、空色タイルも、大きな泥足で無残な蹂躙に遭った。
風呂磨きが趣味化している者にしてみれば、キスを奪われるより耐え難い陵辱である。実弾装填したら本当に撃ちそうで、彼女はそれを自制した。
泥青年をバスルームに案内してから父のクローゼットを物色する。父のズボンは彼には太すぎ短すぎ、シャツも袖の長さが合わないだろうが、我慢してもらうしかない。
適当に見繕った服を置こうとバスルームの前へ。ところが青年は押し込めた時そのままの状態で突っ立っていた。唯一違うのは、折れた墓標を前にした弔客のようにうなだれた首の角度くらいか。
「この泉は枯れています」
と、空のバスタブを指差し、例の悲哀漂う薄幸少年風な情緒で嘆いている。バスタブの排水口から水が湧いてきたらそれは泉ではない。
「シャワー使ったこと、ないんですか?」
「水浴びしたいのです」
口八丁手八丁の不法侵入者の癖に、バスルームもない極貧の田舎から出てきたとでもいうのだろうか。性質の悪い悪戯なのかと真意をしつこく問うより関わらない方が得策と踏み、彼女は仕方なくバスタブに湯を出す。
待ち切れなかったのか、泥青年は着衣のままいそいそとバスタブに身を沈めた、というか身を潜めた。しかし容易に落ちない泥汚れに困惑して、ごしごしと必死にこすっている。
のちのち赤く腫れそうなほど摩擦される肌を見かねて、フレンチバニラのバブルバスソープが投入される。途端にモコモコ盛り上がる泡を前に、泥青年の瞳が輝きだした。
「雲の中にいるようです。天使の特権と思ってました」
泡が立つほどに彼の機嫌も膨れて弾けるようで、きゃーい! うぇーい! と、歓喜のあまりか奇声を発しながら無心に泡と戯れている。
とても演技と思えず、愛らしい、などとつい緩みかけた頬を彼女は理性と手の甲で押さえ込んだ。
「あの、父のですけど服を外に置いておくので……」
入浴を覗く趣味はないと引き下がろうとしたところ。ぱたん、とドアが勝手に閉まった。
「僕の羽、洗って」
「なっ……なっ……なんでっ?」
「体がかたくて、腕がつります」
自動で行方を閉ざしたドアの謎、翼の真偽も問いたいが少なくとも、当然の権利のように体を洗えと言われる筋合いがどこを探してもないのは明らかだ。
変質者を罵る言葉を探して彼女がアワアワしている間に、本物のあわあわの中で泥青年は服を脱ぎ始めた。
「露出狂ですか」
「裸は恥と決めたのは人間です。アダムとイヴが知恵の木の実を食べたのがいけないのに、そんな言い方は不条理です」
「ええと……」
「人間が着衣を求めるようになって、仕方なく天使も悪魔も合わせて服を着ているのです。不本意です」
危機管理意識のある女性としてごく常識的な対応をしているつもりだったのに、ごめんなさいと謝りたくなってくるのはなぜだ――彼女は頭を抱えたくなった。
しかし彼の言い分にも一理ある。異常犯罪、性犯罪、そんな知恵の木の実を食べたばかりに、人々は何気ない出会い頭から恥部を隠すように背を向け走り去る。そうやって邂逅より広がる温かな幸福を手放すのなら、それはまさに失楽園だ。
とはいえ下手に逆らうより適当にあしらって帰してしまわないことには、このどうにも返答に困る会話が延々と続きかねない、と彼女は観念して裾と腕をまくった。
「解りました、背中ですね。洗いますけど……バスタブに、その泉に浸かっててください」
いざとなれば使い込んだデッキブラシや洗剤類が武器になる。すっかり脱いでしまった彼の前面から精一杯顔を逸らせながら、背中側に回り込んだ。
「火を噴く山が近いのでしょう。この泉はやけに熱いです……」
いまだに給湯システムを理解していないらしく、ありもしない火山を確認したいのか窓へと首を伸ばしている。
「ぬるいのが好きなんですか?」
「泉というのは冷たいと相場が決まってるんです。死体がほっかほかだとイヤなのと同じです」
「例えがサイテーですね」
ここまで来て彼女はハタと気付いた。青年は服をすべて脱いでしまったのに、背中の泥まみれ白鳥は健在だ。背負ったものを下ろさずに脱衣するなんて芸当は、体のかたい人には不可能なはず。
白鳥の翼を引っぱってみた。彼の背中がついてきた。
「痛いです」
白鳥の羽根をむしってみた。彼の背中が引きつった。
「痛いですってば」
とんでもないものを拾ってしまった。
「天使? 本物の天使っ?」
滑稽に裏返った声がバスルームにわんわんと反響する。
「そうとも言えます」
だが当の本人は平静なもので、掌に掬い上げた泡をためつすがめつ検分しており、返答には何の感情も差し挟まれていない。そのあっさりとして微妙な否定が彼女を少し落ち着かせた。
それでも指先の羽は彼女の驚愕を如実に反映して震えている。千々に揺らされた柔らかな羽毛が静けさを取り戻すまで、ぎこちない深呼吸は繰り返された。
熱が下がっても眩暈を残すように、衝撃が去った後も煙って鈍した頭で再考すれば、青年の言動は天使よりもむしろ。
「悪魔?」
「そうとも言えます。僕は幼生です」
「……妖精?」
「幼体です。子供、候補生、予備軍、見習い、雛鳥、卵。成年に達した時、魂の清廉さにより天使か悪魔に分かれます」
そんな話は初耳だ、と彼女は呻く。すると青年の両手はV字に掲げられ、掌に盛られていた泡を二分してみせた。
「人間こそ好む概念です。最後の審判や閻魔大王を経て、罪の重さで永遠の命を得る者と地獄へ堕ちる者にふるいをかけられるでしょう。不勉強です」
「なんだかさっきから、不合理とか不勉強とか責められてばかりな気が……」
「悪魔はヘブライ語で告発者という意味です」
「開き直るって意味は含まれてないんですか?」
彼が首を振ると、髪の毛束から泥がビチビチ飛んできた。憎たらしさは悪魔及第点だ。
「責められるのが不快なら、あなたの恋を食べさせて。食べ足りなくて魔性が疼くんです」
「キスを強奪するのはすでに立派な悪魔的行動だと思うんですが。犯罪ですよ、立派な何とか法違反です」
「立派な――天使になる方法……」
「違いますっ。軽犯罪法! でも立派な天使になる方法違反とも言えますね……」
激しく言い負けているのを感じ、彼女は情けなさに眉間を押さえる。
「あなたの恋を食べてるんです。キスを強奪しただなんて……同意の上での行為なのに、不当です」
同意したのは鯉料理であって、と反論しようとしたが。
うなだれながらめそめそと泡を突ついている青年にそう言ったら泣かせてしまいそうで、彼女はとりあえず黙った。怒りを買って魔界に告発されるのは困る。
さて、羽を洗うにはシャンプーか石けんか。
何しろ洗ったことがないため見当もつかず、両方のボトルを手に彼女は首を傾げる。原油流出事故で油まみれになったペンギンには、食器用洗剤がいいらしいのだが。
後になって不のつく単語で責められるのは避けたいので、選んでもらうことにする。
「泡が多いほうでやっちゃって」
と、サンタクロースもお目にかかれないような期待に満ち満ちた瞳を煌かせるので、シャンプーが大サービスされる。バスルームはバスソープとシャンプーが混ざり合った、むせ返るような甘い芳香で溢れた。
繊細な羽毛をガビガビに固めている泥炭はなかなか落ちてくれない。彼女の指先は羽根を抜いたり傷つけたりしてしまわないよう、細心の注意を払いながら洗い進める。
「くすぐったいです、ひゃふ、きゃおーぅ」
翼の付け根に触れる度、背筋を捩って暴れられる。バスルームに響く嬌声を隣人に聞かれたら激しい誤解を受けそうだった。幸いにして隣家は離れている。
「泡が入道雲のようです。なんて緻密なんでしょう。埋まりたいです」
スポンジの使い方を覚え泡作りに熱中しだす彼の羽毛には、頑固な泥の塊がしがみ付いている。指先でほぐしているうちに、彼女の内に嫌な疑念がそれこそ入道雲のように湧いてきた。
「この泥、乾いてますよね。乾いてから相当、時間が経ってるように見えます」
「お手数かけます」
「そうじゃなくて。もしかしてわたしが発砲する前から、すでに沼にはまってたんじゃ? 銃撃されたフリして助けを求めたんじゃ……?」
「不覚です」
天使の雛は望みどおり、泡に埋められることとなった。