1. 撃ち落とされたあなたを拾った日
恋と悟った瞬間は、Waterと叫んだヘレン・ケラーに似ている。
本能は薔薇色に弾けて咲き誇る、だが眠らせておけば鈍色の幸福で足りた。
恋を悟った者たちは、現実主義への転向を迫られる。
現実――落馬する王子様や、黒い翼の天使など。
1. 撃ち落とされたあなたを拾った日
その朝まで、正確にはその青年に会うまで彼女は他の多くの人々と違わず、凶事の予兆は曇天と素直に信じていた。
すかりと晴れた青空に、風見鶏が上機嫌で胸を張る。思いもよらぬ遠方から幸福の便りが届く予感、そんなくすぐったい風に尾羽を立てて。
濃い森に映えるターコイズ色の六角屋根。頂上の風見鶏を見上げ、朝露と土と森が作り出す至上の香を胸一杯に沁み渡らせながら、彼女は身体を伸ばした。
「ふわあ、きれいな朝……天使が遊びに来てくれそう」
皮肉な劇の幕開けは、美しい朝を愛でた彼女が柔らかな芝の庭からキッチンへ戻り、コーヒーミルを一回しした瞬間だった。ハンドルに繋がるのは運命の歯車か、厄介な爆弾の発火装置だったのか。
窓ガラス越しに届いた梢を打つ慌てた羽音と騒がしい葉ずれ、意味するのは狐の来訪。父の愛する鴨たちを守ろうと、猟銃片手に迷わず飛び出す。
幼い頃から親しんだ森の違和感を、入るや否や肌が察知した。
下草が道を開ける。繁い茂り、侵入を嫌って人の足を絡め取るのが彼らの仕事にもかかわらず。
枝葉が身を反らす。視界から退き、光を通し、照準を導く。
普段にない異変に狩りの神の加護を授かったのかと、猟銃を握る手にも力が入った。
「これなら仕留められる!」
冬のマフラーはフォックス・ファーでぬくぬく、とほくそ笑んだその時。
「わっ……」
森が途切れ沼地が開ける一歩手前で、ぬかるみが彼女の足をすくって転倒させる。手を突いた狙撃手の下草と潅木に遮られた向こう側で、鴨ではない、もっと質量を持った獣が動く気配がした。
「逃がすものか、マフラー」
その一心で泥に膝立ち、音源へと引き金を引く。
……ボシャン。
一拍後に響いた重い水音は仕留めた興奮よりも焦りを先に連れて来た。泥炭を含んだ沼に落ちてしまえば、せっかくの毛皮が使い物にならない。底なし沼では回収も無理だ。
慌てて潅木をかき分けて開けた沼地、そこで泥水に浸かっていたのは狐でなくて――天使だった。
横向きに倒れている人影は、髪の色も判らぬほどに泥水をかぶっている。それでも人間に有ってはならないものが在ることは、動揺する彼女の目にもはっきりと見て取れた。
べったりと塗られた泥の所々から覗く白い、幾千枚もの羽根。それらは密に重なり合って収束し、人影の背中へと到達している。
「翼……?」
見間違いかと目を凝らし、強く瞬く。その間にもとろけたチョコレートのように柔らかい泥沼は、蛇が卵を呑み下す不穏めいた緩やかさで人の形を先端から浸食していく。
堕ちた天使が泥に穢され底なし沼へ沈んでいく、その様は禁断の書の挿絵のように見る者を縛った。
「……僕を」
「えっ」
「僕を撃つなんて……」
不意に天使が口を開いた。嘆きに打ち震えるその声は、まさに命を折り取られようとしている一本の百合を思わすほど繊細にして透明。
ゆっくり仰いできた泥だらけの顔の中で、二つの瞳がアメジストのように輝いていた。地中の黄金、夜の海に映る月、宇宙に浮かぶ新星、そのどれより高貴な光を宿している。
救いを請う儚い瞳、憂いを含んだ鈴の声で天使は告げた。
「お詫びにあなたの恋を食べさせて。でなきゃ魔界へ逝っちゃって」
「…………」
これが天使であろうはずがない。それは神への冒涜だ。気高い瞳は錯覚だ――彼女は素早く思考に現実を叩き込む。恐らく彼は密猟者。獲物の白鳥でも背負ってるのが、天使の翼に見えるだけ。そういえば町の酒屋が空巣に荒らされたと聞いた、彼がその犯人かもしれない、と。
「僕が沈んで完全犯罪になるのを待っているんでしょうか」
密猟者で空巣で、プラス精神が魔界に侵されてる人だとしても、と彼女の理性が働きだす。自分の不注意で発砲したことに変わりはないのだ。
「まさか! 待っててください――あ、犯罪成立をじゃないですよ。いま助けに行きますから!」
幸い沼の縁に近かったおかげで、彼の足を掴んで岸へ手繰り寄せることに成功する。続いて両手を握って上半身を引き起こそうとするのだが、泥を含んだ翼が重すぎる。
「白鳥、捨ててください」
「白鳥は使役対象外です」
「なら白鷺ですか? どっちでもいいけど、背中の荷物を早く捨ててください。引っぱり起こそうにも、そろそろ、背筋がつらいことにっ」
「あなたのせいで落ちたのに、僕が叱られるのは不合理です」
的確にして傲慢にも感じられる言葉。しかし瞳はこの世の不幸を一身に負っても健気に耐える少年のようで、それ以上の強制をためらわせる。
そもそも彼の両手を捉えているのだから、荷を捨てろと言っても捨てる手がないと思い当たり、彼女は半ば自棄な気分で引く腕に力を籠めた。途端に青年の喉から、鷲の鉤爪に囚われた野兎のような悲しげな鳴き声が漏れる。
「すみません、翼が抜けそうです」
「わたしは肩が抜けそうです。……なんかその羽、背中に刺さってるように見えるんですが」
「生えてるんです。ところで、そろそろ答を選んで。食事か魔界か、どっちでしょう」
彼女は底なし沼脱出のかかった緊迫した場面で、のんびりと妄想世界に浸っている相手を睨みつけた。既に背筋も腕も震えることで限界を訴えている。
「ご参考までに空腹な僕としましては、魔道を開いて疲れるより、あなたの恋を食べたいです」
「……あ、鯉……?」
魔云々は無視するとして、彼が食べたがってるのは鯉かと合点する。この敷地には水の澄んだ池もあり、鯉やフナが泳いでいる。飼っているわけではなく、料理しても父に怒られることはなさそうだった。
とにかく発砲した落ち度は当方にある。加害者として医療費やさしあたっての食事くらい都合せねばならぬというものだろう、と彼女は怒りを押し殺した。
「分かりました。鯉くらい、いつでもいくらでも」
「感謝します」
彼が爽やかに微笑むと同時に、泥は彼を解放したようだ。おもりを失った反動によろめく彼女の体は、間髪入れず腰に巻きついてきた腕で際どい均衡を取り戻す。
頼りない爪先が少しでも乾いた足場を求めて彷徨っている間に、回された腕は急速に直径を絞った。
「では、遠慮なくいただきます」
天使のキスは泥の味。
「同意を得たのに。沼に突き落とされ銃を向けられるのは、不条理にして二度目です」
「発砲して申し訳ありませんでした、どうぞ速やかにお引取り下さい」
脱出したばかりの泥沼に再びずぶずぶと下半身を消されながら、青年は悲嘆に暮れて端正な眉をひそませる。
「まだ腹三分目……」
「そんな、ずぶ濡れの子犬が怯えながらも鼻先寄せてくるような顔したって、だ……騙されませ……」
視線で殺すとは言うが、視線で泣き落としてくる青年に、背を向け歩き去るのは難しいものがある。彼女が口ごもっていると、青年はさくさく泥をかき分けて底なし沼から上陸してきた。
「自力で脱出できるんじゃないですかー!」
「じゃあまず、泥を落とすの手伝って」
「騙されませんってば」
「傷が痛みます……」
胸を押さえてしんなりうなだれる青年。
口の減らない様子から怪我はないように思っていたが、銃弾が掠めるくらいはしたのかもしれなかった。しかも最初の過失の銃撃と違い、この状況下で撃てば明らかに狙撃。法を守る一般市民として刑務所という魔界を遠慮したいのは当然だ。
考えてみるに、彼は銃弾に当たらないことで殺人罪から救ってくれたのだ。罪の意識は、標的の確認を怠った己への呪いは、刑務所という身体的な拘束より遥かに救われぬ魔界に違いない。
曇天でなく快晴で正解。一歩間違えば暗黒の日になり得たものを、彼が怪我で済ませてくれたのだから。人は不運を嘆く前に、不運と断ずる自らの被害者意識を恥じるべきかもしれない。ヘレン・ケラーは障害を負ったからこそ、サリヴァン先生に奇跡を起こさせたのだから。
彼女は息をついて銃口を下ろした。
「うちのバスルームを使ってください」
「感謝します。親切にしていただいて、下界も良いものです」
全身からぼたぼたと引きずる泥もなんのその、軽やかな足取りで青年は歩き出した。肩を落として彼女は後ろへ続き、もう間違いを犯さぬようにと猟銃の安全装置をかけようとして、ふと気付く。
この猟区はシーズンオフ、つまり禁猟期間で、害獣を追い払うためでも実弾は使えない。代わりに装填してあるのは空砲だったはずだ。
「……あのう……弾、当たってませんよね?」
ぱちぱち、と紫の瞳が瞬いた。
「あなたは僕を撃ちました」
「それは認めます。でも空砲なんです。傷が痛いなんて嘘ですよね」
「人間に弓引かれるなんて、僕の心はいたく傷つきました」
彼女は決めた――家に戻ったらまず、実弾装備だ。