File:1 命の恩人
俺は朦朧とする意識の中、目の前のリュックサックへと手を伸ばした。
中を探り、栄養補給食品のパッケージを引きずり出す。
袋を開いてそのうちの一つをカラカラに乾いた口の中へ放り込んだ。
この場所に飛ばされてから、5日が経過していた。
最初はどこにあるかすら分からない町を歩いて探す元気があったが、水が尽きた今は動かず体力の消耗をおさえることしかできない。
俺、ここで死ぬんだ……。
その予感が徐々に現実に迫りつつあるのは明白だった。
決死の思いで歩いたとしても近くに町がある保証すらないし、力尽きて死ぬ可能性のほうが余程高い。
そもそも今の尽きかけた体力でこの酷暑の中を動けるはずもない。
かといってこのままここにいて助けが来る確率も万分の一、億分の一だろう。
完全な八方塞がりだ。
水分は汗によって失われ、補給する術も無い。
食べ物だけで人間は生きていけない。
水、水がほしい。
もしも、このリュックサックが一緒に飛ばされていなければとっくの昔に死んでいただろう。
だが、結局少し長生き出来ただけだったかな……。
背中をじりじりと焼く太陽の光を恨めしく思いながら、俺は今日三度目の睡眠に入るのだった。
「……きて、……きてください」
微かな声で、俺は微睡みから静かに覚醒を迎えた。
「起きてくださ……大丈夫ですか?」
「あ、ああ……」
人だ、人だ。
助けが来てくれたんだ。
俺はその事実に安堵しながら、かすれた声でその人物に頼みを告げた。
「み、水……水を……」
「水? 水ですか、分かりました。すぐに持って来ます」
土ががこすれる音。
どうやら何処かに水を取りに行くようだ。
俺は細く目を開いて周囲の状況を探る。
どうやら今は夜であるようで、空は星々に彩られていた。
冷たい風が吹き抜けるのを感じる。
この気温だと時間的には深夜に近いはずだ。
そんな時間にここを人が通るとは、まさに僥倖としか言いようがない。
数分後、俺を起こした人が戻ってきて、鉄製の水筒を手渡してきた。
「冷たい水だと体力を消耗しますから、人肌ほどに温めておきました。どうぞ」
俺は水筒を受け取り、唾液すら涸れた口にその内容物を注ぎ込んだ。
数十時間ぶりの水は痛いほどに全身を潤していく。
ぬるい水だったが恐らく俺は生涯この味、感覚を忘れることはないだろう
少し元気になったので、俺は声の方向に首を動かし「命の恩人」の顔を見る。
声、顔、格好からは中性的な少年の印象を受けたが、どうやら少女のようだ。
中性的な顔立ちの上に緑色のタンクトップ、砂漠迷彩のミリタリーパンツ。
正直、少しでも胸が膨らんでいなければ確実に男だと勘違いしていただろう。
長い間ここの強烈な日射しに晒されてきたためか、彼女の肌は褐色に染まり、髪は色あせて茶色がかっている。
「もしも行きたい場所があれば僕たちが送りますけど……どうしますか?」
ん? 僕?
もしかするとやっぱり男なのだろうか。
疑問を押し隠しながら、俺は『彼女』に言った。
「日本に、行きたい」
叶わぬ願いであろう事は承知だったが、万一の可能性に懸けてみた。
少女は怪訝な顔をしながら「……日本?」と訊ねてきた。
「俺の……故郷だ」
少女は目を伏せながら告げた。
「ごめんなさい、多分……ここから日本には行けないと思います」
日本という単語に過分に疑問のニュアンスが入っていたから少女はその国名を知らないのだろう。
最初から分かっていたことではあるが、実際にことが確定してしてしまうとやはりショックなものだ。
日本語で会話出来ているのだから普通なら日本か、または日本人、日本語を操れる外国人であるはずだが、少女は国名すら知らない。
つまり、未来か異世界かいずれかの言語が何らかの方法で翻訳されているのだろう。
「君が謝ることじゃない。帰れないということは分かってたから」
それは確かなことだった。
これで少女を責めることが出来るはずもない。
「そう……ですか。えっと、車を持っているので近くの大きな都市までは送れますけど、どうしますか?」
「頼む。ここにいても餓死するだけだからな」
「了解です。車を持って来ますので少し待って下さい」
少女は俺から少し離れるとミリタリーパンツのポケットから小型のトランシーバーらしきものを取り出し、耳に押し当てながら喋り始めた。
すぐに話はついたらしく、少女は戻ってきて俺の近くに座り込んだ。
「五分ほどで来ます。担架も用意しているので立たなくても大丈夫ですよ」
俺がまだ衰弱していることを察したのか、少女は優しい口調で告げる。
「ありがとう」
少女の言った通り、五分程度で幌付きの大きなトラックが近くに停車し、男たちが担架を担いでやってきた。
「この人だよ。水と……果物の缶詰を用意しておいて」
「了解しました」
男たちは俺の身体を担架に移し、持ち上げる。
じゃりじゃりと砂が靴とこすれ合う音を響かせながら俺は白熱灯が灯されたトラックに運び込まれた。
トラックの中を少し移動し、備え付けられた三段ベッドの一番下へ寝かされた。
「食事と飲み物です。食べられそうだと思ったら食べてください」
若い男はそう言うとベッドの脇にある木箱に開栓された果物の缶詰と水が入ったコップを置いた。
「それと、これから移動するので少し揺れます。ベッドから落ちないように注意して下さい」
男は言い残すと荷台から出ていった。
恐らく運転するか、助手席に座るかのどちらかだろう。
「気分はどうですか?」
トラックのエンジンが唸りをあげはじめるのとほぼ同時、少女が現れ、そう訊ねてきた。
「大分マシになったけど、まだ立てそうにはないな」
「そうですか……無理はしないで大丈夫ですよ。とりあえず近場にある宿場町に行きますので、そこでゆっくり休んでください。目的の大都市までは休みなしで走って三日ほどかかりますから、出発予定の明後日までに出来る限り身体を回復させましょう」
多分、出発予定日は明後日じゃなくて明日だったのだろう。
宿場町に二日逗留する理由があるとすれば、死にかけだった俺を回復させるくらいしか見当たらない。
俺は多少の罪悪感を感じつつも、それに頷いた。
「にしても、大きな都市までは結構遠いんだな」
「ええ、小さな集落や宿場町なら結構ありますけど、大都市となるとリア・メディスかナトーリア・セレスくらいですからね……あ」
少女は思い出したように顔を上げ、俺に言った。
「自己紹介、してませんでしたね。僕の名前はフィエイレズ。少し長いのでフィズって呼んでください。あと、よく間違えられるんですけど、一応女ですよ」
どうやら、俺の見立ては当たっていたらしい。
まあ、よく間違えられるであろうことはすぐに理解出来る。
彼女の格好でも小綺麗にしていればまだ分かるかもしれないが、すり切れて砂まみれになったミリタリーパンツやタンクトップはおよそ女がするような格好ではない。
「俺も自己紹介してなかったな。俺の名前は佐那湧一。あと、見た限りほとんど同じ歳みたいだし、敬語はいらないよ」
「そうですか? 分かりました。じゃあ、よろしく湧一。僕はこれから助手席に戻るから一緒にはいれないけど、宿場町に着いてから少し話を聞かせて」
それだけ言うと少女……フィズは荷台から降りていった。
聞かせて欲しい話、というのはもう分かりきっている。
こんな場所で行き倒れになっていた理由だろう。
ま、命の恩人には話しておかないといけないよな。
俺は揺れる車内で得体の知れない果物の缶詰を頬張りながらフィズにする話を組み立てるのだった。
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