薄給で弟妹の家を失いかけ辞職する会計係、三度目の給金袋を返すと辺境伯が仕事も求婚も選ばせてくれました
重い。
嬉しい重さならよかった。求婚の花束とか、焼きたての丸パンとか。だが私の手にあるのは三か月分の給金が入った袋であり、これから細切れにされる予定の金である。
机の下で紐をほどく。
収入、一。
支出、六。
弟妹への送金。私の部屋代。食費。制服の補修費。帳簿に使う筆記具代。親が残した負債の返済。
なお、最後の項目は予定額に届かない。
収入、一。支出、六。未回収の恋心は、今月も資産に数えないことにします。
「カミラ」
その声だけで、私の胸の帳簿が勝手に一頁増えた。非常に迷惑である。
顔を上げると、エーリク様が共同計算用の机へ近づいてきた。若い辺境伯は剣を持てば様になるし、馬から下りる姿など絵になるし、黙って窓辺に立てば財政難すら芸術的に見える。
ただし数字に弱い。
「今期の支払いは」
「こちらです。職種別の給金、控除、差引支給額の順に並べております」
エーリク様は一行目を見た。
二行目で眉間に深い溝ができた。
三行目まで進むと椅子の脚へ踵をぶつけ、そのまま立ち上がった。
「急ぎの巡回を思い出した」
「本日は雪です」
「だから急ぐ」
領主は数字から逃げた。
窓の向こうは白一色である。数字のない世界へ行きたかったのだろう。お気持ちは分からないでもないが、私は追わなかった。追えば好意が経費として認められるわけでもない。
給金袋から弟妹へ送る分を取り出す。
残りを数え、もう一度数え、数えたところで増えないので諦めた。
次の三か月も、たぶん同じ。
それが私の仕事であり、私の生活だった。
* * *
三か月後、エーリク様は逃げなかった。
これは事件である。
私は念のため扉を見た。閉まっている。窓も見た。雪解けの泥がひどいので、さすがに飛び降りる気はないらしい。
「始めてくれ」
「本当にですか」
「なぜ聞き返す」
「前回は三行でしたので」
「今回は四行読む」
目標が低い。だが前期比三割増どころではない。立派な成長として計上しよう。
私は職種別の一覧を開いた。エーリク様は四行を読み、五行目へ進み、六行目で額を押さえた。七行目では右手の指を使い始め、八行目で左手まで動員した。
「この合計は合っているのか」
「合っております」
「俺が足すと違う」
「二を三回足す途中で、指を一本お忘れになりました」
「指が勝手に退席した」
部下へ責任を負わせるには、ずいぶん短い部下だった。
それでもエーリク様は席を立たなかった。
差引支給額まで目を通し、私の欄で手を止める。
「送金先があるな」
「はい」
「毎回、同じ相手へ?」
「はい」
「この額を?」
「はい」
問いかけ、回答、眉間の溝。数字が一つ増えるたび、エーリク様の顔から血の気が一つ引いた。
「食費を給金から引いているのか」
「使用人は全員です」
「制服の補修費も」
「先代からの決まりです」
いつの間に入室していた古参の管理職が答えた。別の一人も、まったく同じ調子でうなずく。
「筆記具代も先代からの決まりです」
先代はずいぶん細かいところまで死後の支配を続けている。亡くなった方の勤勉さとしては尊敬に値するが、私の財布から見ると早めにお休みいただきたい。
エーリク様は控除欄を指先で叩いた。
「食費を半分にする。制服の補修費は領主側。筆記具代もだ」
「ですが、先代からの——」
「俺の代だ」
古参二人が目を合わせた。反論をどちらから始めるか、順番が決まらなかったらしい。
私は新しい額で全員分を計算し直した。
そして支払日、二度目の給金袋を開いた。
多い。
私の給金だけ、控除の減額分を入れても、まだ多い。
「エーリク様。計算違いです」
執務机へ給金袋を置くと、エーリク様は帳面と袋を交互に見た。
「違わない」
「違います。前期との差額が大きすぎます」
「お前の給金を上げた」
「なぜです」
エーリク様の口が閉じた。
私は待った。
彼は帳面の送金欄を見た。
「必要だろう」
「必要なら、給金が上がるのですか」
「上げられるなら上げるべきだ」
「私だけ?」
また、口が閉じた。
必要だから。
それは理由のようで、理由ではない。私が何に必要としているか、聞かれてはいなかった。
「受け取れません。職務の追加も、評価の説明もありませんから」
「評価なら——」
廊下で足音が止まり、扉が開いた。
現れたのは、仕立てのよい上着を着た見知らぬ男性だった。抱えた書類は分厚く、眼鏡の奥の目は数字と仲良くできそうな形をしている。
「本日より家令を務めます、セヴランです。ご指示どおり、給与台帳の補助から着手いたします」
新しい家令。
給与台帳の補助。
なるほど。
私の耐用年数が切れたのですね。妙に納得できるのが腹立たしいです。
エーリク様が何か言う前に、私は一礼した。
「では、正しい額が決まりましたらお知らせください」
給金袋は机に残した。
持って出たのは、いつもより軽い手だけだった。
* * *
それから屋敷の支出は、少しずつ居場所を変えた。
厨房で働く者の食費は厨房費へ。制服の補修費は領主の被服費へ。帳簿に使う紙とインクは、当然ながら業務費へ。
「先代からの決まりです」
古参の管理職は、そのたびに言った。
「では、俺の支出として記せ」
エーリク様は、そのたびに領主印を押した。
印面を逆さに置く。インクを袖につける。合計欄へ日付を書く。失敗の種類は豊富だったが、席からは逃げなくなった。
セヴランは私の向かいではなく、隣へ座った。
「厨房費、銀貨二十四枚」
「銀貨二十四枚です。領主負担へ移します」
「制服補修費、銀貨十一枚」
「銀貨十一枚です。前期分との差額も一覧にいたします」
数字を必ず一度復唱するので、仕事は正確だった。私の整理した台帳を読み、別の一覧へまとめ、古参が抱えていた領収書まで掘り起こす。
分担。
引き継ぎ。
どちらにも見える。いや、私には後者にしか見えなかった。
エーリク様は週に一度、計算の机へ来た。三か月ごとの共同計算だけでも珍事だった方が、週に一度である。私がいなくなったあと困らないよう、数字を覚えているのだろう。
私の欄だけ増えた給金も、次の担当者なら元へ戻せる。
ずいぶん丁寧な解雇準備だ。
そこへ弟妹から手紙が届いた。
『家の支払期限が次の支払日より前になりました。足りない分は、こちらでも働いて用意します。買い手が決まれば家を手放します。姉さんだけが負担することではありません』
簡潔で、読みやすく、私の呼吸だけが読みにくくなる手紙だった。
家を売れば負債は返せる。
弟妹は住む場所を失う。
私が次の給金を待っていては間に合わない。今すぐ弟妹のいる町へ行き、住み込みではない仕事を探せば、三人で働ける。屋敷より給金のよい商会もあると聞いた。
仕事を失う前に、仕事を選ぶ。
実に合理的だ。
簿外へ追い出したものが胸の内側から扉を叩いているが、回収予定なし。うるさい資産である。
私は辞職願を書いた。
功績は書かなかった。
食費を削った日も、夜明けまで台帳を合わせた回数も、エーリク様の指の代わりに合計を数えたことも。恋心はもちろん記載しない。辞職理由は家庭の事情。退職希望日は五日後。
収支が合っている。美しい。
エーリク様は辞職願を読み、机へ置いた。
「給金の件が不満だったのか」
「いいえ」
「セヴランか」
「有能な方です」
「なら、なぜだ」
家を失いかけている弟妹のためです。
次の給金を待てないからです。
ここで働き続けたいし、あなたのそばにいたいけれど、それでは間に合わないからです。
どれも口へ出せなかった。負担を訴えず帳尻を合わせるのが、会計係の仕事だと思っていた。私生活まで同じやり方をしている自覚は、そのときの私にはない。
「家庭の事情です」
エーリク様は私を見た。
辞職願を持つ指が少し曲がった。
「そうか」
それだけだった。
引き留められると、どこかで期待していたのだろうか。
なんという不良債権。今すぐ償却したい。
「いつ発つ」
「五日後です」
「分かった」
承認された。
私は一礼し、執務室を出た。廊下の角を曲がるまでは背筋を伸ばした。曲がったあとも伸ばした。曲げたら何かがこぼれそうで、清掃係の仕事を増やすからだ。
出立の日、荷を馬車へ積んでいると、セヴランが帳面を抱えて走ってきた。
「カミラさん。お辞めになるとは、どういうことです」
「言葉どおりです。引き継ぎは終えました」
「引き継ぎ?」
セヴランは目を丸くした。
「私はあなたの椅子ではなく、隣の椅子を任されたのですが」
胸の帳簿が派手な音を立てて閉じた。
「……隣?」
「はい。業務を半分に分けるよう、エーリク様から指示を受けました。数字を復唱し、あなたの確認を得るところまでが私の職務です」
「後任では」
「ありません。二人分の仕事を一人でしていた方を、二人に戻すのだと」
では、私は不要ではなかった。
そこまで分かっても、馬車から荷は下ろさなかった。
エーリク様は私へ目的を言わなかった。
私は辞職の理由を言わなかった。
そして弟妹の家の期限は、待ってくれない。
「すみません。今は行かなければなりません」
「ですが」
「隣の椅子は空けておいてください、とは申しません。座る方を決めるのは、エーリク様です」
馬車へ乗る。
屋敷の玄関に、エーリク様の姿はなかった。
見送りまで不要なのだと考えれば、今度こそ帳尻は合った。
* * *
半日ほど進んだところで、御者が馬を止めた。
道の先に、一頭の馬がいる。
横切ってはいない。
道の端へ寄り、こちらが通れるだけの幅を空けて、エーリク様が待っていた。
髪は風に乱れ、外套の留め具は一つ掛け違い、右の靴には泥が跳ねている。完璧な辺境伯の外見から三項目が控除されていた。残額は十分すぎるほど格好よい。腹立たしい。
「馬車を止めてくれ」
「道は空いておりますが」
「帰還を命じに来たわけではない」
エーリク様は馬から下りた。急いだらしく、着地した瞬間に膝が少し崩れた。立て直して何もなかった顔をする。見ました。しっかり資産計上しました。
それでも彼は、馬車の正面へ立たなかった。
「理由を聞きに来た」
「辞職願に書きました」
「家庭の事情では分からない」
「送金記録をご覧になったでしょう」
「宛先と金額は見た」
エーリク様が息を整える。
「だが、なぜ送っているのか、お前が何を望んでいるのかは分からなかった」
風にあおられた外套が、彼の脚へ絡みついた。エーリク様は一度払い、また絡まれ、諦めて裾を片手でつかんだ。
格好よさから、さらに一項目控除。
「分からないのに、給金を上げたのですか」
「足りていないことだけは分かった」
「新しい家令を雇ったのも」
「お前の仕事を減らすためだ」
「聞いていません」
「改善すれば伝わると思った」
「給金計算すら私へ任せていた方が、なぜ人の望みだけ自動計算できると思ったのです」
エーリク様の口が開き、閉じた。
「……できなかった」
その回答は、驚くほど小さかった。
「だから聞きに来た。なぜ送る。何が必要だ。俺にしてほしくないことは何だ」
風が止んだわけでもないのに、外套の裾が落ちた。
私は馬車を降りた。
「親が残した負債があります。弟妹は、その担保になっている家に住んでいます。次の給金より前に支払えなければ、家を手放すことになります」
「残額は」
私は答えた。
エーリク様は復唱しなかった。暗算を試みた顔になり、すぐに諦めた顔になる。
「屋敷へ戻れば払えるのか」
「通常の給金だけでは間に合いません。町で仕事を探し、弟妹と合わせます。家を売る準備もしています」
「俺が負債を払うと言ったら」
「受け取りません」
「なぜだ」
「雇用主から生活そのものを買い取られたら、私は二度と自由に辞められません」
エーリク様の顎がわずかに下がった。
「そうか」
「はい」
「なら、払わない」
即答だった。
救ってやる、と言われなかったことに、喉の奥がほどけた。
「ただし、返すべき金がある」
「何の話です」
「使用人から引いていた食費、制服補修費、筆記具代だ。セヴランと過去の記録を調べた。領主側が負担すべきだった分を、全員へ返す」
「私だけではなく?」
「全員だ」
「古参の方々は承知を?」
「先代からの決まりだと言われた」
「でしょうね」
「俺の代で返すと言ったら、反論の順番を失っていた」
あの方々らしい。
エーリク様は折り畳んだ一覧を差し出した。私の分の返還額は、弟妹が用意できる額と合わせれば期限に届く。
贈与ではない。
借りでもない。
私たちが働いて、引かれすぎていた金だ。
「この額を、弟妹の家の支払いへ回したい」
「私の許可を取るのですか」
「お前の金だからだ」
エーリク様は一覧を持ったまま待った。
私の返事を。
命じず、先回りせず、道も塞がずに。
「お願いします」
「分かった」
「ただし、私が屋敷へ戻ることとは別です」
「分ける」
「今後の雇用とも別です」
「分ける」
エーリク様は一つずつ答えた。
「三日後が支払日だ。過去分の返還と今期分を、全使用人へ直接渡す。だがセヴランだけでは計算の確認が間に合わない」
「私に帰任しろと?」
「違う。一度限り、外部の会計係として依頼したい。報酬はお前が決めてくれ。その後、町へ戻るなら送る」
外部の会計係。
帰任ではない。
私は仕事を請けるかどうかだけを選べる。
見上げると、エーリク様はまだ答えを待っていた。
「一日あたり、以前の給金を日割りした額の二倍です。往復の交通費はそちらの負担。依頼外の仕事はしません」
「分かった」
「即答なさると、もっと請求すればよかった気がします」
「三倍にするか」
「交渉相手へ有利な提案を追加しないでください!」
この人を数字の席へ座らせ続けなければ、辺境伯家は別の意味で危ない。
いや、今の私は外部の会計係。将来の危険は契約外である。心配などしていない。していませんとも。
私の返還金を弟妹の家の支払いへ送る手続きを済ませてから、私は馬車の御者へ屋敷へ戻るよう頼んだ。
エーリク様は帰路でも道を空けたまま、馬車の横を進んだ。
* * *
三度目の支払日、エーリク様は上着を脱いだ。
「なぜ脱ぐのです」
「前回、袖にインクをつけた」
「学習の方向が力業です」
「袖がなければつかない」
「シャツに袖があります」
エーリク様は自分の腕を見た。
顔をしかめた。
私は笑わなかった。外部の会計係は依頼人の無策を笑わない。肩が震えたのは、長時間の計算作業による疲労である。
セヴランが数字を読み上げる。
「厨房担当、今期分と過去の食費返還分を合わせ、銀貨三十一枚」
「銀貨三十一枚です」
私が照合し、エーリク様が数え、袋へ入れる。
一枚足りない。
戻す。
二枚多い。
戻す。
三度目で合った。
「遅いな」
「以前は三行で逃げておられました。驚異的な改善です」
「褒められている気がしない」
「正しく伝わりました」
広間には使用人全員が職種ごとに並んでいた。
古参の管理職がいつもの席から支給するのではない。エーリク様が一人ずつ名を呼び、自分の手で給金袋を渡した。
「厨房担当。今期から食費の控除はない。これは過去に引きすぎた分だ」
受け取った料理人は一歩下がりかけ、その場で止まった。袋とエーリク様の顔を見比べ、深く頭を下げる。
「制服の補修費、本当に戻ってる」
洗濯係が中身を数えた。
もう一度数えた。
「同じ額だ……」
「二度数えて減らない金なんて、初めて見た」
庭仕事の者が言い、隣の若者が肘でつついた。広間のあちこちで、硬貨の触れ合う音がした。
「先代からの決まりです」
古参の一人が最後の抵抗を試みた。
エーリク様は支出一覧を開き、自分の名が記された欄へ領主印を押した。今度は逆さではない。
「今代からの支払いだ」
古参は口を閉じた。
罰も追放もなかった。ただ、人の給金から勝手に引く権限が、彼らの手を離れた。
最後の一人へ渡し終えるまで、エーリク様は席へ戻らなかった。
全員が広間を出ると、机の上には一つだけ残っていた。
私の給金袋。
「これは、辞職日までの給金と外部依頼の報酬ですか」
「ああ」
私は紐をほどき、数えた。
合わない。
「多いです」
「やはりか」
「やはり?」
「セヴランにも言われた」
「分かっていて入れたのですか」
「次の三か月分を前払いした」
私は給金袋を、すっとエーリク様の前へ返した。
「受け取れません」
エーリク様の肩が目に見えて落ちた。
「まだ次の契約を結んでおりません。勝手に雇わないでください」
「……そこか」
「ほかにどこがあるのです」
「戻らないという意味かと」
「戻れとは言われておりません」
「言えば、命令になる」
「尋ねればよろしいでしょう」
エーリク様は椅子へ座った。
私にも向かいの椅子を示す。
セヴランが書類を抱え直した。
「私は席を外しましょうか」
「残ってください。雇用契約の証人が必要です」
「雇用契約、ですね。復唱いたします。雇用契約のみ」
几帳面な家令は、なぜそこだけ二度も念を押すのか。
エーリク様が私を見る。
「カミラ。会計係として戻る意思はあるか」
「条件によります」
「給金は?」
「私とセヴランの職務を明文化し、同等の基準で決めます。私は三か月ごとの給与計算を担当しますが、日々の支出確認は分担します」
「分かった」
「領主であっても、締切後に領収書を持ち込んだ場合は次期扱いです」
「それは困る」
「では戻りません」
「分かった。間に合わせる」
「辞職は一か月前の通知で認める。家庭の事情を説明する義務はなし」
「認める」
「弟妹への送金額を、給金の判断材料にしない」
「……認める」
「いま少し不服そうでしたね」
「必要なら増やしたい」
「必要額ではなく、仕事へ給金を払ってください。困窮への援助と労働の評価を混ぜると、また私が袋を返します」
エーリク様は返された給金袋を見た。
「それは困る」
「では?」
「仕事へ払う」
セヴランが契約書へ記し、金額を一度復唱した。
私は署名した。
エーリク様も署名し、日付を日付欄へ書いた。
「この条件で、会計係へ戻ります」
「分かった」
これで仕事の話は終わり。
胸の内側に残った未回収分は、まだ一枚も動いていない。
エーリク様は契約書をセヴランへ渡した。
「ここからは証人でなくていい」
「承知しました」
セヴランは立ち上がり、扉まで進み、振り返った。
「念のため申し上げますが、私はカミラさんの後任ではなく、業務分担のためにおります」
「分かりましたから!」
扉が閉まる。
笑いが途切れたあと、エーリク様は返された給金袋を机の端へ退けた。
仕事の書類も重ねて離す。
机の中央には、何もなくなった。
「もう一つ、聞きたい」
「はい」
「雇用とは別だ」
「はい」
「断っても給金は変わらない。仕事を辞めても、この返事を理由に追わない。弟妹の負債とも関係させない」
一つずつ、切り離していく。
私が混ぜて黙ったものを、彼は目の前で別々に置いていく。
「俺と結婚する意思はあるか」
声は低く、短かった。
辺境伯らしい飾った求婚の言葉はない。
代わりに、三か月ごとに計算の席へ座った。使用人の負担を自分の支出へ移した。引きすぎた金を全員へ返した。私を追っても道を塞がず、分からないことを分からないと言った。
そのどれも、給金袋へは入らない。
だからようやく、私にも数えられた。
「条件があります」
「聞く」
「私が黙っても、望みどおりだと決めつけないでください」
「ああ」
「聞いてください。答えないときは、答えられるまで待ってください」
「分かった」
「エーリク様も、改善だけで伝えたつもりにならないでください。言葉にしてください」
「努力する」
「そこは分かったではないのですか」
「数字より難しい」
正直でよろしい。加点一。
「私の仕事へ口を出さないでください」
「それは無理だ。俺の家の会計だ」
「では、締切を守ってください」
「努力する」
「減点一」
エーリク様の口元が、ほんの少し上がった。
「返事は?」
「求婚は受けます」
彼が立ち上がった。
勢いが強すぎて、椅子が後ろへ倒れた。
大きな音が広間へ響く。廊下の向こうで誰かが走り出し、別の誰かが「何が壊れました」と叫んだ。
エーリク様は倒れた椅子を見た。
私を見た。
「……今のは、取り消されるほどの損失か」
「備品費で処理します」
笑いを抑えきれなかった。
してやったり、である。三か月も一人で誤読して走り回った私の赤字は、この慌てた顔で少しだけ回収できた。
エーリク様が机を回り込む。
途中で足を椅子に取られた。
「危ない!」
私が腕をつかむと、彼は机へ片手をつき、どうにか転倒を免れた。近い。近すぎる。収入、仕事。支出、理性。未回収の恋心、ただいま全額決済中。
「カミラ」
「はい」
「もう一度」
「求婚は受けます。ただし給与計算では、今後も容赦なく他人です」
「それでいい」
「それから」
私は彼の腕を離さなかった。
「勤務時間外ですので、今だけは……エーリク」
廊下の向こうで、聞き耳を立てていたらしい使用人たちが一斉に動き、何人かがぶつかった。派手な破壊音。今月の備品費が心配である。
エーリクは笑い、私の手を握り直した。
机の端では、返された給金袋が、新しい契約を待っていた。




