第20話 支える覚悟、完了…
ここはレイアノーティア。
名は人を座らせ、役目は人を歩かせる。
だが、ときどき世界は順番を間違える。
倒れるはずのところで踏ん張り、踏みとどまった者は、持ち直す。
⸻
大きな魔物が消えた。
道には音だけが残っていた。
荒い呼吸。
喉の乾いた咳。
膝を落としたときの、装備の金具の鈍い鳴り。
立ち上がろうとして、途中で力が抜ける者もいた。
座ったまま、顔を上げられない者もいる。
「もう少し」という言葉が、喉の奥で砂みたいに詰まっていた。
ガルドは、まだ前に立っていた。
立っているというより、かろうじて膝をつかずにそこにいるだけに見えるが、前だけを見ていた。
コムギは鍋を抱えたまま立っている。目からはポロポロと涙がとめどなく溢れてくるがそれをシャツの裾で拭き、手には力がこもる。胸の奥の冷えは拭けない。
(もう無理だ)
そう思うほど、指先が硬くなり、腕や脚が重い。重くなるたび誰かの視線が集まる気がした。
⸻
「……ごめんなさい」
誰に向けた言葉でもない。
だから余計に危険だった。
謝った瞬間に責任を負う。
責任を負う瞬間に、物語はよくない方へ回り始める。
コムギはそれを知っている。
知っているのに、体が先に口を動かした。
そのときトンヌラが、彼女の前にしゃがみ込んだ。
腕は組んでいない。
珍しくコムギの目線と、同じ高さに降りてきた。
「謝るな」
声は小さかった。
だが、刃物みたいにまっすぐだった。
コムギの涙が止まりかけて、また落ちる。
「でも、もうどうやっても足りなくて……」
トンヌラは、ため息をついた。
呆れたような、諦めていないような、よく分からない息だ。
「足りないのは事実だろ」
コムギが息を止める。
責められる、と体が固まる。
トンヌラは続けた。
「……だから、足りないまま勝つ」
意味が分からない。
だが、その“分からなさ”が、妙に救いだった。
正しさじゃない。罪でもない。
ただの選択の形だった。
「お前が折れたら、次に折れるのはみんなだ。
だから、泣くな。――食え」
コムギは口を開けて固まる。
泣くな、は命令に聞こえる。
でも、続く言葉が違う。
食え。
食べるのも仕事だと言ったのは、あの夜だった。
同じ言葉なのに今はもっと重い。
「……食べたら、なんとかなるってことですか」
コムギが絞り出すように言う。
トンヌラは肩をすくめた。
「知らん。俺は何もしてないからな」
その言い方は、いつも通り雑だった。
だからこそ、コムギの胸の奥に刺さる。
“何もしてない”のに、線だけは引いてくる。
背負わせず、責めさせない線。
コムギは鍋を抱き直した。
抱き直しただけなのに、指先が少しだけ戻る。
(……やるしかない)
⸻
歩き出そうとした瞬間、木々の擦れる音がした。
大きい魔物ではないが、数が多い。
散った群れが、大型の魔物が引くのを見て戻ってきた。
疲れきった隊列の端が、揺れる。
恐怖が、また喉まで上がってくる。
「くそ……またかよ……」
誰かが呟いた。
呟きは、怒りの形を借りた悲鳴だ。
「もう無理だ……」
その声が出た瞬間、コムギの中で、あの日の光景が煙に紛れて浮かんでくる。
空の鍋。
湿った布。
動かなくなった背中。
そして、誰かの声。
――お前のせいだ。
(違うのに)
(違うはずなのに)
自分がそう思えない。
自分がそう言えない。
その迷いの隙に、世界は責任を置こうとする。
置かれた瞬間、折れる。
コムギは歯を食いしばった。
「……やります!」
自分でも驚くくらい、大きな声が出た。
周囲が振り向く。
小柄な補給担当の声に、誰も期待していなかったはずなのに――
怖いから先に言葉で自分を固める。去勢でも、隊の中で1番力強く叫んだのはコムギだった。
トンヌラが、立った。
腕を組み、いつもの偉そうな姿勢に戻る。
腕を組むのは、内心が怖いからだ。
(やばい。詰んだ。もうなるようになれ!)
口は逃げなかった。そして。
「覚悟、完了……!」
低く、はっきりと。
その声が落ちた瞬間、空気の温度が変わる。
「お前は要だ。お前が支えれば、誰も折れない」
コムギは息を吸う。
逃げたい。
背負いたくない。
でも――背負わせたくない。
だから、呼応する。
「……覚悟、完了……!」
小さな声。
けれど芯が折れない声。
トンヌラの視線がコムギに落ちる。
「お前は隊を支える者……」
「《ミリタリー・サスティナー》のコムギだ」
⸻
何かが、カンッと鍋の中で鳴った。そして全体に震えが広がる。
匂いが変わった。
ただの出汁の香りが、香ばしく、甘い香りになる。コムギの迷いのない手つきに、力が戻っている。
干し肉を刻む。
豆を割る。
塩を落とす。
水を足す。
足りないものを、足りないなりに組み上げる。
組み上げるほど、足りないはずの数字が、なぜか追いついてくる。
湯気が立つ。
その湯気は、喉だけじゃなく胸に入ってくる。
「飲んで!」
コムギが叫んだ。
配る。
まずガルド。
次に、泣いていた男。
次に、震えている手の者。
一口飲んだ瞬間、顔が変わる。
「……戻ってくる」
誰かが呟いた。
それはただの回復ではない。
ガルドの背が伸びる。
膝の震えが、止まるわけではない。
「……立てます」
その言葉が、隊列の中心を作る。
小獣が迫るが、硬直する。
立つ者がいる。
水が回っている。
目が揃っている。
群れは、踏み込めない。
明らかに人間達は強い目でこちらに迫ってくる。
踏み込めず、一体ずつ森へ下がって行った。
⸻
誰も勝っていない。
だが、誰も倒れていない事実だけが残る。
沈黙の中で、誰かが息を吐く。
「……補給って、こんなに効くのか」
別班の男が、コムギを見る。
さっきまで責める目だった人間も、いまは黙って頷いている。
「子どもだと思ってた。悪かった」
コムギの眉がぴくっと動く。
「子どもじゃありません!」
叫びかけて、途中で止める。
いま叫ぶ必要がないことに、自分で気づいた。
その代わり、短く言う。
「……大人のレディです」
震えている。
でも、逃げない。
トンヌラは腕を組んだまま、ぼそりと言う。
「見直すの遅いわ」
誰かが苦笑した。
笑いは小さい。
だが、確かに場が戻り始める笑いだった。
⸻
その夜ギルドの水晶が、遅れて光る。
《コムギ:ミリタリー・サスティナー》
記録係が首をひねる。
まただ。
また“後から”だ。
世界調停機構の観測卓では、ノインが淡々と告げる。
「……また、確定した」
リリカが唇を噛む。
ノインは目を逸らさない。
冷たい声。
だが、観測は続く。
⸻
街道では、コムギが鍋を抱いていた。
抱き方が、昨日より少しだけ強い。
(……できた)
そう思った瞬間、胸の奥が痛む。
(でも、また足りなくなったら)
また、自分のせいになる気がする。
気がするから、先に怖い。
トンヌラが隣であくびをした。
「今日も拾えるもん拾うぞ」
「はい」
コムギは返事をして、帽子のつばを指で押さえる。
ガルドが前に立つ。
「最後まで立ちます」
トンヌラは肩をすくめた。
「好きにしろ」
その軽さが、ちゃんと支えになった。
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ここはレイアノーティア。
役目は、与えられるものではない。
折れかけた瞬間に――
後から追いつくものだ。
⸻
第20話 了




