第19話 ほどけない糸
ここはレイアノーティア。
完璧な整合に管理される世界。
完璧であるために——
世界は、原因ではなく結果から整える。
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■世界調停機構・第二観測室
水晶卓の上に、波形が並ぶ。
整った線の間に、整いきらない線が一本混じる。
《N-LESS:ネームレス》
周囲の意味だけが、先に動く。
《G-ARD:バトル・ウォーデン》
定義は安定。
《KMG:未確定》
回復の“戻り”が過剰。
戻りすぎて、物語の速度が狂う。
ノインは立ったまま、水晶を見下ろす。
指先が、卓の縁に触れた。
触れた場所から、極細の光が伸びる。
糸のように。
「糸を引く」
リリカが息を止める。
「……重くしますか」
ノインは頷きもせず、淡々と言う。
「戻りすぎないよう、折れない程度に」
水晶の中で、小さな偏りが起きる。
遭遇の順番や風向き。
獣の“進む方向”。
どれも偶然の顔で、確率だけが湾曲した。
「うまくいき過ぎた前提を整える」
ノインの声は冷たい。
残酷というより、無感情に近い。
リリカは小さく呟いた。
「……また、コムギさんが自分のせいだと思う」
ノインは一拍だけ止まって何事もなかったように作業を進める。
止まったのは、同情じゃなく、作業の確認だけだった。そして残酷に糸は引かれた。
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◇
街道の空気は、決して悪くなかった。前へ進むしかない、という空気が出来ていた。
騒動の後、皆の目の色が変わった。
責めるより先に拾う。
怒鳴るより先に水を回す。
火を起こす人間が決まり、見張りの順が決まった。
「もうすぐだ」
「ああ、なんとかなる」
励ましは気休めだ。気休めだろうが、今は必要だった。
鍋を抱えて歩きながら、何度も周囲を見た。
顔色、手の震え、歩幅……呼吸。
明らかにみんなの疲弊が目立つ。
自分のせいじゃない。
——そう言い切れない自分が、いちばん嫌だ。
トンヌラは腕を組んで歩く。
口は軽いことを言うが、目線はコムギから外れない。
ガルドは前に立つ。
立つだけで、足並みが揃う。
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「見えたぞ」
先頭の誰かが言った。
木々の切れ間の向こうに、平らな地形が覗く。
目的地に近い地形だ。
声が連鎖する。
「もう少しだ」
「今だけだ」
人々の表情が少しだけ柔らかくなり、手に力がこもる。もうすぐ、この苦しさから解放される……。
そう思った瞬間だった。
瞬時に空気が変わる。
風が逆向きに流れたような、軽い違和感。
むせかえる獣の匂いが、重く立ち込める。
ガルドが止まった。
「……来ます」
声が沈む。
今までで一番大きい。
明らかに今まで現れた小さな魔物とは違った。
牙が長い。
脚が太い。
息が熱い。
一歩踏み締めるたび恐怖が包み、もう一歩が人間の足を止める。
「固まれ!」
「前へ出るな!」
誰かが叫ぶ。しかし、遅かった。
魔物が手を振り下ろすと強い衝撃と土煙が上がっているのが見えた。
咄嗟にガルドが前に出た。
迷いのない一歩で、境界が生まれた。
獣は踏み込むが、不意に止まる。
止まった瞬間、空気が軋む。
昨日までの“止まる”とは違う。
力任せに押して、崩そうとする。
ガルドの膝が震えた。これまで出会ったどの魔物より強い力。それでも立った。
「……下がって」
小さい声。
「今は、前に出ないで」
後ろが従う。
従えるのは、誤解でも威厳でもない。
“ここで前に出たら終わる”と本能が教えてくれるからだ。
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火が上がる。
松明が投げられ煙で目を逸らす。
石を投げ、意識を逸らす。
戦うためじゃなく、退かせるため連携。まともにぶつかれば被害は計り知れないのを全員がわかっていた。
コムギは叫ばない。
叫ぶ代わりに、配る。
一方が前に出て攻撃をし、一方は下がる。
ガルドは前線に出続け、魔物の動きを止める。
コムギは下がった隊へ水を配る。
「下がった人から水を飲んで!」
短く通る声が響き渡る。
魔物は吠え、暴れる。
暴れている間は下がり、誰も前に出ない。
ガルドひとり立ち続け全員をカバーする。
背中が、徐々に沈んで行く。
——限界が近い。
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数十分の出来事だったが、何倍も長く感じただろう。突如魔物が一歩引いた。
引いたというより、嫌になった。
崩せないと諦めた、といった様子だった。
一歩。
もう一歩。
そして森へ消えて行った。
消えた瞬間、全員の足が崩れた。
勝ったわけじゃない。負けなかった。
それだけで、全員が同時に安堵のため息をついた。
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座り込む者、膝から落ちる者、息が戻らず、言葉が出ない者。
ガルドはまだそこに立ち続けていた。呼吸が震え、全身で息を吐いた。
コムギは袋を抱えたまま、動けなかった。
(間に合わない)
頭の中で、数字が崩れる。
水も、塩も、糖も。
何もかもが“もう少し”足りない。
あの日の煙。
空の鍋と軽い麻袋。
胸が詰まって、声が出ない。
出ないのに、目元だけが熱くなる。
「……ごめんなさい」
誰に向けた言葉か分からない。
でも言ってしまう。
言った瞬間、涙が落ちた。
「私の……配分が……」
そこまで言って、もう言葉にならない。
トンヌラが一歩近づいた。
「まだだ」
短い一言に根拠はない。
でも、今はそれで充分だった。
ガルドが、震える声で言う。
「立てる限り、止めます」
隊の誰かが、掠れた声で笑う。厳密に言うと笑うように息が漏れた。
「……行こう」
その声が出たことで、空気が少しだけ前を向く。
コムギは袖で涙を拭いた。
拭いても止まらない。
止まらないまま、鍋を抱き直す。
それでも前に進むしかない。
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ここはレイアノーティア。
糸は引かれ、風は曲がる。
けれど、誰を責めるかだけは——
まだ、選べる。
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第19話 了




