第17話 足りない日の記憶
ここはレイアノーティア。
名は人を座らせ、役目は人を歩かせる。
だが世界は、歩き続ける者から奪う。
奪い方は派手じゃない。
ただ、少しずつ
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朝から、隊の背中が低かった。
息が上がり、返事が遅れることが徐々に増え、
頭も下がり地面の小石を数えている。
足取りが重い。
荷の金具が擦れる音だけがやけに響く。
誰も笑わない。笑う余裕がないのだろう。
「あ——」
声が漏れて、ひとりがよろけた。
倒れはしないが、身体が先に折れかける。
隣の冒険者が肩を貸し、唇を噛む。
安全なはずの依頼。
目的地はもうすぐ。
その“もうすぐ”が、今日はやけに遠い。
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コムギは立ち止まった。
帽子の影で表情は読めない。
読めないのに、目だけがはっきりと動いている。
水。塩。砂糖。豆。干し肉。根菜。
袋の口を開けては閉じ、指で数えて、もう一度数える。そして最後に人数を見た。
(足りない)
声にはしない。
声にした瞬間、現実になるからだ。
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トンヌラは無言でコムギの背中を見ている。
道中ずっと見てきたからわかる。
彼女の配分は、完璧だった。無駄のない作業と的確な分量計算だ。
(もしコムギがチームにいなければ…)
そんなことを考えているとゾッとするほど、今回の依頼は異常だった。
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「コムギさん」
別班の男が来た。
顔色が悪い。目の焦点が浅い。
「……何とか、ならないか」
責めてはいない。
今はそれがいちばん重い。
頼る視線は、逃げ道をなくす。
コムギは小さく頷きかけて、途中で止めた。
自分だけが苦しいわけじゃない。
ここで自分まで崩れたら、回らなくなる。
それだけは分かる。
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煙の匂いがした。
空になった鍋。
湿った布の冷たさ。
指先の塩。
耳の奥で鳴る、まな板の音。
——また昔のことを思い出していた。
小さな炊き出しのテントに1人コムギは兄の背中を見ていた。
天候が崩れ、工程がずれ、時間がずれていく。
それでも兄は、包丁のリズムを崩さなかった。
兄は《三つ星料理人》
完璧な手つきと完璧な味。
周りはその完璧な腕に安心する。
しかし安心した分だけ、失敗を許さなくなる。
コムギも、完璧にやった。
人数を数え、配分を組み、足りない分を削り、代わりを足し、できることは全部やった。
——なのに。
風が変わる。
雨が長引く。
獣の出る場所が、妙に噛み合う。
工程が“ずれる方向”にだけ、きれいに揃う。
足りなくなる。
誰も倒れないように調整したはずなのに、倒れ始める。
「——お前のせいだ」
誰かの声。
勿論兄の声じゃない。でも兄は"止めなかった"
コムギの中で、それは賛成と同じ意味になった。喉の奥が、きゅっと縮む。
(また、同じになる)
完璧にやったのに、“足りないのは私”になる。
コムギは知らない。自分のせいだと思うしかなかった。
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現実で、誰かが咽せた。
息を吸って、うまく吐けない音。
コムギは戻る。
戻った瞬間、リュックの重みが現実になる。
おたまが揺れて、乾いた音を立てた。
今日はその音が、頼りない。
「……大丈夫です」
口が先に動いた。
大丈夫と言えば、場が落ち着く。
私が我慢すれば、責められない。
昔の癖が、真っ先に顔を出す。
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トンヌラが少し遅れて、コムギを見た。
腕を組んで、偉そうな顔。
そのくせ目だけは外さない。
何かを言いそうで、言わない。
言わないまま、空気だけが一段落ち着く。
その“言わない”が、コムギには怖い。
止められたら、崩れる。
止められなければ、また背負う。
コムギは小さく息を吐いた。
吐いた息が、朝陽に溶ける。
まだ終わっていない。
このペースが続けば必ず枯渇すると分かっていた。
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ここはレイアノーティア。
不足は、静かに人の心を削る。
削られた先で、誰のせいにするか。
世界はそれを、いつも後から決める。
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第17話 了




