恐怖の正体
人間はときに、「状況」そのものに恐怖を抱く。
高所、密室、汚れ。あるいは虫や血液に対しても。
理由を問われれば、過去の失敗やトラウマを挙げたくなる。けれど、実際には明確な経験がないまま、「それは怖いものだ」と判断してしまうことが多い。
それは、負の学習によるものだ。
人が知識を得る方法には、大きく分けて二つある。
ひとつは勉強。
課題の達成や資格取得といった目的のために、受動的に行う努力だ。そこには「やらされている」「つらい」という感覚がつきまといやすい。
もうひとつは学習。
好奇心や興味に導かれ、自ら進んで理解しようとする行為である。「もっと知りたい」という動機から得られる経験は、心地よさを伴い、理解が深まるほど楽しさが生まれる。
だが、学習には落とし穴がある。
それは、無意識の偏りだ。
例えば、ある日ふいに蝶々が顔の前に現れ、不快に感じたとする。その瞬間、「蝶々=不快」という学習が、意識の下で静かに行われる。最初は嫌いではなくても、不快な経験は蓄積される。
次に蝶々を見たとき、脳はこう判断する。
「不快になる可能性がある」
その結果、蝶々を避ける。
避ければ、少なくとも不快にはならない。すると脳はその判断を正解だと認識し、「蝶々=不快」という学習をさらに強化する。
この循環を繰り返すことで、恐怖症は完成する。
いつの間にか、無害な蝶々を見ることすら「怖い」と感じるようになる。それは論理的な危険ではなく、その人の中で「不快をもたらす存在」になってしまったからだ。
幼少期に形成された恐怖症を、大人になってから克服する方法は残酷である。
「対象を理解する」という対策は、多くの場合効果がない。なぜならそれは勉強だからだ。怖いことをやらされているという感覚のまま知識を得ても、脳は納得しない。むしろ恐怖は増幅されることすらある。
カウンセリングも同様に知識だけで、「怖くない」とあの手この手で思い込むことは難しい。その瞬間の思考は騙せても、実際に蓄積した学習を覆すことは、単独ではできない。
恐怖症を克服する方法は、たった一つ。
それは「慣れる」ことだ。
蝶々の例で言えば、見ても想像ほど不快ではないという経験を積むこと。触れても外傷はないと知ること。はじめは脳が強く反発し、震えや動悸、冷や汗が出るかもしれない。「やっぱり不快だ」と叫びたくもなるだろう。
それでも、実際には違うという経験を積まなければ、恐怖は書き換えられない。
慣れるとは、無理に飛び込むことではない。逃げずに、存在させる距離を自分で選び続けることだ。
この方法は、残酷で、倫理的に問題があるように聞こえる。
だが、避ければ避けるほど恐怖は強くなる。そして人は、これからも負の学習を重ねていく。その事実を踏まえれば、今この瞬間こそが、もっとも恐怖の少ない状態なのだ。
恐怖を取り除くことは難しい。
けれど、恐怖を克服した先にだけ、ノイズのない世界が広がっている。
脳が不快というラベルを外したとき、
蝶々はもはや避ける対象ではなく、
風に乗って揺れる、きれいな存在としてそこにいる。
世界は変わらない。
変わるのは、学習によって形づくられた、世界を見る価値観だ。




