第12話 警戒するクリスティアン
アレクシスの猫の事件が片付いてから数日後、ローゼンハイデン公爵家の広大な庭園は、春の柔らかな陽光に満ちていた。
花びらが風に舞い、芝生の緑がより鮮やかに映える季節。空気には花の甘い香りが混じり、遠くから鳥のさえずりが聞こえてくる。
だがまだほんの少し風が冷たい。ひざ掛けをかけてガゼボに座ったミリアムは、膝の上に刺繍枠を置き、細い針を慎重に動かしていた。布地に大輪の薔薇が少しずつ形を成していく。
ミリアムの視線の先では、兄のアレクシスが芝生の上で猫のアレクサンドラと、楽しげにたわむれていた。
アレクシスは普段の落ち着いた態度を崩し、猫じゃらしを振り回しては、飛びついてくるアレクサンドラに、笑い声を上げている。
その楽しげな様子に、ミリアムは自然と口元が緩む。アレクシスがこちらに気づくと、照れくさそうに、しかし満面の笑みで大きく手を振ってきた。
ミリアムもそれに応えるように、刺繍をしていた手を止めて、小さな手を振り返す。2人の間に流れる温かな空気に、もうすっかりうちとけたのだと、庭で働く従者たちは微笑ましくそれを眺めていた。
そんなミリアムの周囲を、ピンクのリボンを揺らしながらアリアドネがふわふわと漂っている。
アリアドネは興味津々で刺繍を覗き込み、明るい声で尋ねた。
「ミリアム、それはなんの刺繍だッピか? すっごく綺麗だッピ!」
「これはお母さまに差し上げるハンカチなの。お父さまの代わりに王宮でお勤めに出てらっしゃって、いつもお疲れのようだから……少しでも元気になっていただけたらと思って。」
ミリアムの記憶の中では、母親のアンナソフィアは、常に家にいなかった。本来であれば筆頭公爵家当主であるローゼンハイデン公爵自身が赴くところ、体調が理由で代わりに妻を差し出している状況だ。
既婚の女性で重職につく貴族は極めて少ない。いても王子宮や王妃宮の侍女頭などだ。
そんな中で、アンナソフィアはなんと文官長を勤めている。
元々は名門メイベリン侯爵家の令嬢であり、しかも現在の王妃が王太子妃時代に側近として仕えていた実績が認められた結果だ。
筆頭公爵夫人という立場がなければ、女性というだけでどれほど反対されていただろうか。しかし、それでも保守的な貴族たちの風当たりは強く、嫌がらせのように書類を山積みにされることも少なくなかった。
かつて「アンバスター王国の百合と薔薇」と王妃とともに称された美貌も、今では疲労の影に隠されている。頬はこけ、目の下には薄い隈ができ、髪の艶さえ失われていた。
実年齢より十歳は老けて見えるその姿を、陰で嘲笑う男たちがいることもミリアムは知っていた。
アンナソフィア自身は「貴族夫人としての矜持」と言いながら化粧を施すが、心の中では「手入れに時間をかけるくらいなら、少しでも眠りたい」と願っていたのだった。
それくらい忙殺され、家族と過ごす時間は、夫であるローゼンハイデン公爵よりも少なかった。
前世のミリアムはルーパート王国に逃げていた為、そんな母親の苦労に気づけなかった。夫を亡くしたその日ですら、アンナソフィアは仕事に没頭していたことも。
前世で家族は完全にバラバラになっていた。 だからこそ、今世のミリアムは、少しでも母親を癒やしたいと心から願っていた。
アリアドネが感嘆の声を上げる。
「うわあ、素敵だッピ!これならきっとお母さまも喜ぶッピ!」
完成したハンカチは、アンバスター王国の薔薇であるアンナソフィアを象徴する大輪の薔薇をモチーフにした豪華なものだった。
金糸で縁取られた花弁は光を受けて輝き、ポケットから覗いた時に最も美しく見えるよう計算されたデザイン。
男装で登城する日もあるアンナソフィアが、胸ポケットに挿せば、きっと華美でありながら控えめな女性らしさを感じさせる、アクセントになるであろう。
その時、ガゼボの背後の茂みがガサガサと揺れた。ミリアムが顔を上げると、木の陰から赤みがかった茶色の髪がチラリと覗く。
──次男のクリスティアンだった。
好奇心と警戒心、そしてどこか寂しげな感情が入り混じった瞳で、こっそりこちらを窺っている。だが、ミリアムにはとっくにバレてしまっていた。
クリスティアンの胸中は、嵐のように渦巻いていた。家族の変化が、どうしても理解できない。
ローゼンハイデン公爵は体調を崩して以来、ほとんど家に引きこもっていたはずだ。
長男のアレクシスは、いつも暗い顔で本に没頭し、誰とも目を合わせなかった。
ミリアムは……わがままで、癇癪持ちの、家族の厄介者だったはずだ。
それが今はどうだ?
父親は元気を取り戻し、アレクシスは笑顔で猫と遊んでいる。そしてミリアムは、突然優しくなり、皆から愛される存在になった。
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