遠雷
あの客は、初恋の人だ。中年太りでややぽっちゃりとしているが、仕事や家庭で苦労しているせいか、疲れた顔をしている。学生時代に、真剣に恋した相手と、久方ぶりに再会し、稲妻のような戦慄が、私の身体を駆け巡った。
彼も随分苦労してきたに相違ないが、私も数多の人々に迷惑をかけてきた。私は娘を虐待した、前科者である。
妻子ある男性との子を産み、女手一つで娘を育ててきた。手に職がない上、不貞を咎められて以来、身内とは疎遠だった。経済的に困窮し、いつしか幼い娘に不平不満をぶつけるようになった。虐待がエスカレートしてきた頃、近所の誰かが警察に通報し、当然だが逮捕され、法に裁かれ、一定期間刑務所に身を置いた。どん底まで転落したのは、身から出たサビだ。
犯罪者になったことは、もしかしたら私の人生で、避けて通れない道だったのかもしれない。公人に保護された娘は、福祉施設で思いやりがある里親に巡り会うことができ、血縁がなくとも温かな家庭で、まともな生活を送れるようになった。自業自得なのは百も承知だが、私一人だけが取り残されたという寂寥感に、容赦なく強烈に襲われた。今すぐ娘に謝りに行きたい気持ちは山々だが、それを許されるためには、仕事に打ち込む社会人にならなくてはならない。刑務所にて奮起し、執念で美容師資格を取得した。
出所後、美容師として働き始めた。元々不器用な上、人付き合いが不得手なので、忍耐に忍耐を重ねる日々だ。上司や先輩からの叱責や、同僚から漏れ出るため息がオンパレードな日々を、小学生を背負ったまま家事をこなすような我慢をして、やりくりしてきた。
仕事に慣れてきた夏の日、あの初恋の人が、客として唐突に現れた。文豪の川端康成を彷彿させる大きなギョロ目と、当時大好きだった、無口で無愛想な性格は、全く変貌していなかった。少し安堵した。
向こうは私には一寸も気づいていない模様だ。終始うつむき加減な彼は、胸が早鐘を打つ私には見向きもしない。恐る恐る、希望のヘアスタイルを尋ねると、ぶっきらぼうな口調で「全体を三センチほど軽めに切って」と早口で頼んできた。カットを行う最中、「顔を上げてください」等、こちらがいくつかお願いをしたら、仏頂面ながら素直に応じてくれた。施術が全て終わると、やはりむっつりした表情で「あざーした」とお礼を口にした。繕うタイプを不信がるきらいがある私は、少し魅了された。
休憩時間も、彼の余韻に浸り、頭がぼんやりとした。彼との一瞬の再会を起因に、様々な記憶が走馬灯のように、脳裏を駆け巡った。人間は、自分の過去だけを糧に未来を創造するもの。どんなにみすぼらしい過去であっても、材料はそれのみなのだ。前科を犯した最低な母親の私は、つらい思いをさせ、傷つけた娘に償うためにも、顔を上げて生きていかなければならない。
片付けを終え、余りに暑いので、店の周辺をぐるりと打ち水をしていると、どこからかの遠雷が耳に入った。そういえば、スマートフォンの今朝の天気予報で、今日は夕立があるとの残念な知らせがあったのを、思い起こした。少し怖い遠雷を、突如現れた、遥か彼方の初恋のように思えた。