聖女ヘレンは美しくない乙女の守護聖女である。
腰まで伸びた長くつややかな髪、均整のとれた体付きと細く長い手足、憂いのある表情、そして二つの宝石のような瞳──
その容貌の美しさで知られているのが、聖女ドロレスである。かつて彼女の美貌は、大陸中の男を虜にした。平時においては、彼女の姿を一目見ようと、修道院が座する本山のふもとまで巡礼者が押し寄せた。解放戦争においては、死地へと赴く兵士たちに彼女の祝福が決死の勇気を与えた。
大陸を征服しつつあった魔術師王でさえも、天敵であるはずの聖女ドロレスの美しさには心を奪われたという。そこで魔術師王はドロレスにある取引を持ち掛けた。永遠の若さの魔術による取引である。
自分のものになるのなら、魔術によってその美しさを永遠に失わないようにしてやる──と魔術師王はこういったのだ。
しかし、聖女ドロレスは聡明だった。彼女は恥ずべきことを知っていて、恥ずべきでないことを知っていた。彼女は魔術師王のものにはならなかった。
現代において、聖女ドロレスは老人の守護聖女、貞節な人妻の守護聖女、そしてなにより、美しい乙女の守護聖女として広く信仰を集めている。彼女の似姿の聖像は、他の聖女と比べても、ひときわ美麗に作られるのが慣例となっている。
そして、この世界に一つの疑問が生まれたのだ。
……じゃあ、美しくない乙女は、いったい誰が守護するんだろう? 美しい乙女は聖女ドロレスの加護を受けるとして、その残りは?
修道会は答えない。しかし民間信仰において、いつしかそれは定められていた。
聖女ヘレンは、修道会の教義において最上位に位置づけられる六人の聖女の一人である。漁村の出身として伝えられるこの聖女は、修道会の正式な教義としては、漁師の守護聖女、船乗りの守護聖女として定められている。
そして伝説は彼女の身体的特徴をほのめかしていた。すなわち、目つきが悪いだとか、背が低いだとか……。無論、公的に制作される聖女像については、これらの特徴はある程度の慎み深さをもって反映されている。
一方で民間においては、それはあからさまだった。粗製される絵物語等において、聖女ヘレン彼女のその姿には、露骨に、あるいは誇張されて、特徴的な矮躯として描かれるのだ。
そして俗信は生まれた。聖女ヘレンは醜女であるがゆえに、美しくない乙女の守護聖女である──と。
かくしてこの大陸における乙女は、美しいのも、美しくないのも、余らず聖女の加護を受けるにいたったのだ。
……まったく、ありがたい話である。
わざわざお気遣い、どーも。
山岳性気候の冷気が、夜の女学校の中に満ちていた。
かすかな行灯の光が照らし出す夜の世界の中、わたしはひとつ身ぶるいをした。
……まったく、夜の見回りなんていうのは、損な役回りである。
潔癖で、品行方正で、教師陣からの信頼も厚く──そして平民の娘。自分事だが、夜の見回り係としてわたしは最適なのだろう。同じ女学生とはいえ、まさか貴族の子女たちにこんなことはさせられないだろうから。
男子禁制の本山の修道院に併設されたこの女学校。その運営においては、当然、女学生たちの自治が必要とされている。この夜の見回りなんていうのも、その自治の一環だ。
……面倒くさいが、誰かがやらなければいけない仕事でもある。
第一講義室、第二講義室、食堂、図書室……それぞれの部屋に入り、席と席の間、書架と書架の間を縫うようにして歩いていく。いまのところ、誰もおらず、何の気配もない。
初めてこの見回りを任されたときは、これがひどく恐ろしく感じたものだ。明るくにぎやかな昼間の世界とは打って変わり、夜の学校は暗く静まりかえっていた。何も聞こえないのに誰かがささやいてくる気がして、誰もいないのに何かが潜んでいるような気がした。
けれど、今となってはもうここは既知の世界だ。夜闇の中には誰もいないことをわたしは知っているし、たまに誰かが潜んでいたとしてもそれは夜遊びのために部屋を抜け出した女学生の誰かに過ぎないということを知っている。
長い廊下を抜けて、最後は聖堂だ。
扉を開けると、並んだ席の間を抜けてまっすぐと通路が伸びていく。装飾窓を通して月の青白い光が差し込んでいる。正面には聖壇と聖像が位置していて──
そこで、わたしは気がついた。その最前列に誰かが座っている。
「そこのあなた!」わたしは声を張り上げた。「こんな時間に、こんなところでなにをしているんですか!」
相手を逃がすまいと、わたしは足早に歩み寄る。近づくにつれ、相手の姿もはっきりとしてくる──まだだいぶ若い女で、年の頃はわたしと同じくらいだろうか──
相手は、逃げるどころか座ったまま、なんだかおっとりとこちらを振り返った。
そして、ついに相対した。
月の光に照らし出されたその女の顔は──ドキリとした。衝撃があった。白い肌と、吸い込まれそうな大きな瞳、そしてその顔の造りの美しさは、あたかも聖女像のようで──
そしてふと気づいた。こちらがむこうの顔を思わず見つめてしまっているのと同じく、向こうもこちらの顔をまっすぐに見上げ、見つめ返してきている。
なんだか急にきまりが悪くなって、わたしは視線を逸らした。
「……わたしの顔に、なにかついていますか」
「あら、ごめんなさい」彼女は微笑んだ。どこか幼い少女のような話し方だった。「あなたがお友達に似ていたものだから」
「そんなことより、あなた。こんな時間になにをやっているんですか? 夜間は自室から出てはいけない決まりでしょう。あなたのことを自治会に報告させてもらいます」
「まあ」
「それで、あなたの名前は?」
改めてその女の顔をじっと見てみるが……しかし、見覚えはなかった。少なくとも同じ学級の人間ではない。特にこんな美人がいたら印象には残っているだろう。
彼女は悪戯っぽく笑った。
「そうね。わたしの名前をいうのもやぶさかではないけど……その前に、あなたのお名前を教えてくださる?」
「はあ?」
「わたしも、あなたのお名前を知らないもの。先に名乗るのが礼儀でしょう?」
「……ヘレン、です」
わたしはしぶしぶと答えた。
自分が名乗ると、たいていの相手はちょっと間をおいて、じろりとこちらの顔の造りをあらためて一瞥する。そしてその瞳の奥に、ああなるほど『ヘレン』の名の通りだ──と言わんばかりの、嘲りの色をほのめかすのが常だった。
生まれてからずっとそうだった。
どうせこの女だって同じような反応をするだろう……と身構えていたが、しかし彼女は喜色満面だった。
「あなたもヘレンっていうのね! わたしのお友達も、ヘレンっていうの」
「別に珍しくもないでしょう、聖女様から名前をいただくのは」
「そうね。ヘレン、素敵な名前だわ」
「……」
皮肉を言っているのだろうか? しかし彼女のその人懐こい子犬のような笑顔からは、言葉の裏を読みとることはできなかった。
実際、ほかの聖女たちの名前ならともかく、わざわざ聖女ヘレンの名前を拝することは、そう多くないはずだ。いったい誰が好んで、大陸でもっとも有名な醜女の名前を愛するわが子につけようと思うだろうか? ……この名前をありがたがるのは、一部の辺境地域、大陸南部の沿岸地域のみである。聖女ヘレンさまはうちの村出身だとそれぞれに主張するいくつかの小さな漁村がもっぱらだ。
実際のところ、わたしの父は海運で成り上がった成金であるが、この故郷の迷信をいまだに信じていた。父は「海の男にとっては醜女こそ縁起が良いんだからな」といってはばからない。
……いや、わたしの名前なんていうのはどうでもいい。
「あなた、名前を教えなさい」とわたしは詰め寄る。
「ドロレス」と、彼女はなんてことないことのように答える。
「……あ、そう。ドロレスさんね」
名は体を表すというやつか。やれやれ、大した名前だこと。
「それで、ドロレス。あなたこんな時間にこんなところで何をしていたの?」
彼女は涼しげに答える。
「観想と懺悔。聖堂でやることなんて、それしかないわ」
そのとぼけた回答に、わたしは顔をしかめるしかない。
──もしかしてこちらをだまそうとしているのだろうか? だとすると、名乗った『ドロレス』という名前も本名かどうか怪しいものだ。……とはいえ、それは無意味な誤魔化しだ。後から面通しすれば、すぐに特定できてしまうのだから。とくのこの女のような容貌は、一度見たらもう間違えることはないだろうに。
見たところ聖堂には他に人はいない。仮に彼女が何を企んでいようが、人ひとりでできることなどたかが知れていた。
わたしはひとつ、咳払いをした。
「とにかく、ドロレス。自室に帰りなさい。懲罰は後日、下されます」
「ふふ。やっぱり、あなたってわたしのお友達によく似ているわ」
「あのねえ! あなたいい加減に──」
「ごめんなさい」彼女はじっと、哀願するような目でこちらを見た。「もう少しだけ、ここにいさせて。まだ、観想と懺悔の途中なの」
「──」
その迫力に、わたしは思わず引き下がった。
月明かりの中、『ドロレス』は目を閉じて座ったまま、じっと観想を続ける。
そんな彼女のことを、わたしは少し離れてみていた。
額と鼻筋、顎の曲線は優美な横顔を作っている。月明かりの下、閉じられた目は、世界の秘密を憂いているかのようで……。
つまり、彼女は美しかった。
──そして、彼女のことを美しいと思う自分が嫌になった。
何かを美しいと感じるということは、すなわち、別の何かを醜いと感じることと同じだ。自分が世の中から嘲りを受けるその悪意の根源が、自分の中にもあるということを、否が応でも自覚させられてしまう。
そう考えると、わたしはなんだか腹が立ってきた。目の前にいる彼女に対して、何か言ってやりたくなり、思わず悪意が口をついた。
「あなたみたいなのでも、懺悔するような罪を犯すことがあるのね」
彼女は顔を上げ、こちらを見る。
「『あなたみたいなの』って?」
「だから、あんたみたいな美人ってこと。……人から愛されて、なんでも手に入れることができるような顔をしておいてさ」
「そう……でもね、わたしたは罪を犯したの。何よりも恥ずべき罪、永遠に許されない罪──わたしは、大切な友人たちを、裏切りました」
──まったく大業な言いぶりじゃないか。あたかも自分が世界の中心だと思っているかのようだ。
「もしかして、その友人たちって、さっき言っていた『ヘレンさん』のこと?」
「ええ」
「ふうん。……もしもあなたの友達のヘレンさんが、本当にわたしに似ているっていうのなら──たぶん、あなたのことを許さないでしょうね」
「そうなんです」と、彼女は寂しそうに笑ってみせた。「ヘレンさんは、わたしを憎んで、蔑みました。……でも、良いんです。わたしはそうされて当然の人間だから……」
彼女はまた目を閉じ、観想に入った。
いったいどのくらい時間がたっていたのだろうか。わたしはいつの間にかうとうとしてしまっていた。
ふと気がつくと、『ドロレス』はわたしのすぐ目の前に立っていた。そしてなんだか顔を覗き込んできていて──
「──うわっ」
慌てて立ち上がるこちらをみて、彼女はくすくすと笑った。
「驚かせてごめんなさい。なんだか気持ちよさそうに寝ているもんだから」
「……それで、もう気はすんだ?」
「ええ。待っていただいて、ありがとうございました」
「部屋まで送ります。懲罰については、後日、申し渡します」
二人で並んで、扉に向かって歩く。数歩の間無言だったが……わたしは思わず声を出した。
「さっきはごめんなさい」
「あら、なにが?」
「わたし、あなたを傷つけようとして、わざとひどいことを」
「いいんです。それがわたしの罪なんですから──」
聖堂の扉を開けて外に出ると、いつの間にかドロレスの姿は消えていた。
あくる日、わたしは自治会に対して昨夜の出来事を報告した。
ドロレスという名前の女生徒は数名在籍していたが、しかし、いずれもあの晩の彼女とは違っていた。
その後、全校生徒の面通しも行ったが──あの彼女と同じ美しさを持つ人間は、ひとりとして存在しなかった。