後編
結局、私はマリーアに対する燃え上るような気持ちを喪失したままだった。
ほんの数週間前までは確かに感じていた筈の感情がない。
それに……。そう。
私にはある種の計算、打算があった。
それは大して優秀というワケではない、そして貴族と言えど末席の男爵令嬢マリーア・レントを妃に据えても、自分が王太子に選ばれ、そして政務も問題なくこなせると言う展望だ。
しかし、今となってはそれに何の根拠も見い出せない。
(何故だ。すべて上手くいく筈だったのに……)
愛しいマリーアを妃に迎え、そして余裕を持って政務をこなし、誰からも尊敬される王になる。
その確信があった筈なのに。
(どうして、こうも何もかも上手くいかない?)
苦手な政務、苦手な勉強に時間を取られ、マリーアと言葉を交わす余裕もない。
そして、いざ無理矢理にマリーアと会っても以前のように燃え上る『何か』がなかった。
「はぁ……」
何なんだ。どうして、こうなってしまった?
以前までの生活を取り戻したい。
もっと楽をしたい。
出来ていた筈なのだ。すべて、すべて。
苦手な分野の政務や、教育を避け、得意なモノを選び、こなし。
今、課せられている政務の量の3分の1程度を片付けるだけで解放され。
学園では自由時間を謳歌し、マリーアと逢瀬を重ね、デートを楽しむ。
出来ていた。出来ていたんだ。今まで。
それは満たされた日々だった。
私は、……僕は、あの頃の日々を取り戻したくて仕方なかった。
だから、と。簡単にその日々を取り戻す為の手を打とうとして。
はた、と気付く。
(どうすればいいんだ?)
簡単な筈だった。その時間を取り戻す手段は簡単なモノで。
パッと思いつくような事。そして、当然に成功するモノである筈だ……。
そういう確信だけはあるのに、その手段が思い浮かばない。
『ああすれば良かった』とか『こうすれば良かった』という感覚はあるのに。
それに該当する何かは、僕には全く思い浮かばないんだ。
──僕は、後悔さえも出来なかった。
ただ、今あるモノで、この状況を乗り越えていかなければいけない。
それがひどく苦痛で、耐え難い程のストレスを感じていようとも、僕には逃げる場所がなかった……。
政務と王子教育に追われた僕は、結局、せっかく手に入れた学年首席の座を明け渡してしまった。
一瞬だけの栄華。
ずっと僕が首席を取れていた筈だったのに。
なのに一度だけの首席で、すぐに僕は落ちてしまった。
順位発表の掲示を見ながら、悔しくて歯を食いしばる。
「くっ……」
「殿下。仕方がありませんよ。最近の殿下は、よく頑張っていらっしゃいました。勉強する時間もなかったのですから」
「それは分かっているのだが……」
ひどく、ひどく屈辱的に感じてしまうのだ。
『倍に増えた政務』と『王子教育』を『こなしながら』『学年首席』を『取り続ける』。
……どうしてか、それが出来ない事に屈辱を感じた。
側近だって、こうして労ってくれるし、理解してくれると言うのに。
誰も僕以上に頑張っている人間など居ない。
それは自他共に認める事の筈だ。
だから、僕が学年首席を逃したって誰も僕を見下してなどいない筈なのに。
何故か劣等感に苛まれる。
(くそっ……)
頑張っている。頑張っているんだ、僕だって。
なぜ上手くできない。なぜ。
でも、以前のような周りの目はなくなったと思う。
やはり一度は実力で首席を取った事が大きかったのか。
『どうしてそんな事も出来ないんだ? ■■と比べて』と、そういう視線を感じる事はなかった。
「ハロルド様っ」
「……ああ。マリーア」
今みたいな劣等感に苛まれている時、マリーアとの逢瀬が癒しになった。
彼女は、上手く出来ない僕の気持ちに共感してくれ、慰めてくれるから。
そうして、いつものように意気投合するんだ。
『誰もが■■■■■■様のように出来るワケがありません。王子様だって一人の人間なんですから』と。
そうだ。こんな事をこなせる方がどうかしているんだ、って。
だけど、そのやり取りを思い出して、どこか空しくなった。
「お久しぶりですっ。最近、中々お会い出来ない事ばかりでっ……」
「そうだな。忙しいんだ、色々と」
「は、はい。それは分かっていますけど……。以前は、お忙しくてももっとお会い出来ましたのに」
「……そうだね」
もっと彼女と会えていた。でも今はそれも出来ない。
ほとんど顔を見せた事もないような政務官まで僕の元へ来て、仕事を押し付けてくるからだ。
僕の仕事が遅れているせいで、遅れた部署の不満も溜まっていると聞いた。
それも『以前まではこんな事はなかったのに』と。僕だって思っている事をぼやく程だ。
そうした日々の仕事でさえも、今のこの成績掲示と同じような劣等感を抱いた。
(出来ないのが当たり前だ。普通なんだ。出来る方がおかしいんだ……)
そう言い訳する程に、胸の中の空しさが増していく。
出来ない? 本当に? 出来る人間が居たのでは?
居る筈がない。そんなの見た事も会った事もない……。
「マリーア」
「は、はいっ! ハロルド様」
「……キミの成績順位は、どこなんだい?」
「え?」
「……上位には居ないようだね」
「あ、は、はい。上位の成績なんて私にはとても……。ハロルド様は、やっぱり凄いです!」
「……うん」
(どうしてだ。マリーアが僕をこうして褒めてくれる事に慰められてきたのに)
今ではどこか寒々しい言葉に感じてしまう。
「あ、でも」
「うん?」
「私も以前より順位が上がったんですよ!」
「……本当かい? どこまで?」
「えへへ、こっちです!」
と、マリーアに手を引かれる。
……第一王子である僕の身体に軽々しく触れる彼女。
それは当然、不敬な行為だ。
でも、それは今まで僕が許してきた行為だ。
ただ、その行為さえも何か今までと違うものを感じる。
(もっと……何か、なかっただろうか)
マリーアとこうして触れ合い、仲良くする事で。
誰かが、僕を意識し、そうして僕が……何か、優越感? に浸れるような、仄暗い充足感。
『もっと可愛げがあればいいんだ』と言いたくなる、そんな。
(可愛げがあれば……、それで良かった……?)
何の事を考えているのだろう。
マリーアに触れられて感じたのは、あまりにも空しい喪失感だ。
だが、僕は何も失ってなどいない。
失っていないのに感じる喪失感に解決する術はなかった。
「ほら!」
と得意気に自身の成績順を示してくるマリーア。
……順位で言えば中の下ぐらいの成績だ。
人によっては、よくもこの成績で誇れたものだ、と言いたくなるような。
だが、マリーアよりも下の成績の者が居るし、彼女はこれで元平民の庶子。
それがここまでになったのだから、そこには当然、努力があったのだろう。
どんなに努力しても、けっして僕より優秀になれない彼女。
……それを可愛らしく感じていた。だけど、どうして?
僕より劣っている令嬢なんて、もっと沢山いる。
じゃあ、マリーアと他の令嬢との違いは何なんだ……。
ただ近くに居たから?
どうして彼女の面倒を見るようになったんだろう。
マリーア・レントに近付く、構うだけの理由があった筈。
でも思い浮かばない。どうして僕は彼女を構う事に喜びを見出していたんだ?
「……よく頑張ったね、マリーア」
「はい! ハロルド様っ。えへへ、頑張りました」
可愛らしく微笑むマリーア。
その表情を見ながら僕は……。
『この成績では確かに僕の妃には迎えられないな』と。父上や母上の言葉を思い出していた。
◇◆◇
「ハロルド殿下。その」
「どうした?」
後日。僕の婚約者候補を決めるお茶会が開かれる事になった。
公爵家のいない僕達の王国。
最上位の貴族である侯爵家の令嬢達は、全員が既に婚約者を持っていて手が出せない。
だから集められたのは伯爵令嬢ばかりだった。
それも僕と同じ年齢で、まだ婚約者を決めていない令嬢達ばかり。
第一王子に婚約者が居なかったのだから、ある意味でその家の判断は正しいのだが……。
しかし、何というか。
残った令嬢達は、どうしても物足りなかったり、問題がありそうな令嬢ばかりだった。
当然、この席に呼ぶのは問題はなかった令嬢となる。
だが、それでも目立った優秀さのない伯爵令嬢達。
素朴な良さがあると言えばあるし、貴族令嬢の多くは彼女達のような者と言えばそうだ。
ただ、僕に相応しい相手が彼女達の内の誰かだとは、どうしても思えない……。
「その。レント男爵令嬢が来たそうなのですが」
「は? マリーアが?」
「はい。……どうされますか?」
「どう、って」
今日は僕の婚約者の候補を決める為のお茶会だ。
そこにマリーアは呼んでいない。
父上や母上が言ったように、マリーアでは『妃』にはなれないからだ。
これで彼女の成績が、僕に並ぶ程に優秀だったなら話は変わっていたかもしれないが……あの有様だ。
「……僕が話を聞こう。令嬢達に失礼のないようもてなしていてくれ。すぐに戻る」
僕は侍従にそう言い残して、マリーアに会いに行く。
彼女が王宮に無断で来ても捕まったりなどの対応をされないのは、既に彼女の顔と僕との関係が周知されていたからだ。
それでもマリーア・レントは、僕の婚約者というワケではない。
王子の婚約者候補を決める茶会を邪魔する権利などないのだが……。
「ハロルド様っ」
「マリーア。今日はどうしたんだい? あまり王宮に気軽に来るものじゃないよ。僕は怒らないが、良い事でもないからね」
「は、はい! で、ですが……その! 今日は居ても立っても居られなくて!」
「うん? 何かあったの?」
「何かって。だってハロルド様の婚約者を決めるお茶会が開かれるって聞きました!」
「……ああ」
流石に彼女の耳にも入るのか。
誰が教えたかを聞いても仕方ないな。
別に隠してもいない事だ。
「そうだけど、それが?」
「それが!?」
何故かマリーアはショックを受けたような表情を浮かべた。
「だ、だって! 婚約者を決めるのでしょう!?」
「そうだが……」
「な、何故! 何故、それなのに……私を呼んでくださらないのですか!?」
「は…………?」
マリーアを、このお茶会に呼ぶ? 何故。
一瞬、本気で分からなかった。
だって……僕達は、もうそういうのじゃ、ないだろう?
そう。マリーアを『妃』に据える事は無理なんだ。
だから彼女は僕を癒す為の愛妾か、頑張っても側妃になるしかなくて。
なら、僕の婚約者……『未来の王妃』になる為の茶会に呼ぶワケがないじゃないか。
「マリーア。キミは何を言っているんだ?」
「な、何をって」
「今日の茶会は、僕の婚約者を決めるものだ」
「は、はい! でしたら私が」
「……マリーアは僕の妃にはなれない」
「え?」
「男爵令嬢というのもそうだし。キミの成績では誰も納得しないだろう。父上……国王陛下や王妃殿下だって納得しない。だからマリーアが僕の妃……少なくとも『正妃』に据えられる事はないんだよ? 今日の茶会は、正妃となる者を選ぶ為の茶会だ。だからキミを呼ばないのは当たり前なんだが」
「え、え……?」
……彼女は何にショックを受けているのだろう。
当たり前の関係だと思う。
だってマリーアを選んで誰が納得するんだ?
以前までなら。
そう前までは根拠もなく、マリーアを妃に据えられると考えていた。
そして貴族達、少なくとも学園に通う貴族子女達を納得させられるだけの理由があると考えていたけれど。
よく考えればそんな事は無理だと分かった。
誰がマリーアを素晴らしいと認めている?
誰も彼女を認めていない。
もちろん、僕は彼女を可愛いと思っているけれど……それと周りに認められるかは別の問題だ。
マリーアは、大多数にとって『関心を持たれない、ただの男爵令嬢』だった。
もちろん、第一王子である僕が彼女を構っているのだから、まったく注目されていないワケではない筈だけれど。
それだって結局は『婚約者を決めるまでの遊びのようなモノ』と見做されていた筈だ。
身分や、彼女を認める声がないのもそうだし。
今、僕に必要なのは政務を共に担える人材だから、という面もある。
『王子妃』、そして王妃というのは『職業』なんだ。
ただの王子が愛した女性、という立場じゃない。
むしろ王子が愛しているだけの女性なら、それはやはり『愛妾』か、少なくとも側妃の立場に収めるのが当然だろう。
妃には妃の仕事がある。
国王や王子に任せ辛くとも妃ならば、と考える者も居るだろうし。
それをこなせる者を妃に迎えなければ、僕の立場さえも危うくなってしまうだろう。
「そ、そんな……ひどい! どうして、ハロルド様!」
「何が酷いって言うんだい?」
「だって! だって私を妃にして下さるって言ったではありませんか!」
「……言ったかな?」
「言いました! その、あの……だ、誰かを妃にするぐらいなら、私がいい、って……」
「誰かって、誰だい?」
「それは……、その、えっと」
僕はマリーアの事を呆れて見ていた。
「誤解しないでくれ。別にマリーアの事が嫌いという話じゃないよ。でも僕は王子なんだ。立太子はまだだけど、王になる可能性も高い。充分にあると思う。だから僕は『正妃』を愛情だとかで選べる立場じゃない。でも『愛妾』や『側妃』にならマリーアを据えられると思う。だから、これからもマリーアには、その立場で僕を癒して欲しいと思っているんだよ」
「!? なっ……はっ!?」
マリーアの目が驚愕に見開かれた。何だ?
「わ、私に『愛人』になれって言うんですか!? ハロルド様!」
愛人。愛妾とは意味合いが変わってくるように思うが……。
「呼び方が誤解を招くのかな? 公妾と言うべきだろうか。ちゃんと公式に、その立場の女性の生活や活動の費用が出るんだよ。社交界にも出れなくはない。公妾の政務への参画権は与えられないのが僕達の国の制度だけど……。マリーアには必要ないだろう? ただ、僕を癒してくれる存在であればいいんだ」
「だ、だから……それが愛人って言うんでしょう!?」
「……何を言っているんだ」
ちょっと頭が痛くなってきた。
彼女はこんなにも我儘だったろうか?
「信じられない……。どうして? ハロルド様っ」
「何がどうしてだか分からないよ、マリーア……」
どうも致命的に何か勘違いをしているようだが。
今日は止めて欲しい。今日は僕の将来にとって重要な場なんだ。
「はぁ……。ゼンク。マリーアをお願い出来るかい? 彼女の話を聞いてやってくれ。僕には仕事がある」
「は、はい。分かりました。マリーア、行こう」
「ゼンク……! おかしいわ、おかしいのよ、こんなの。だって、だって前は……!」
「分かってる。話は聞くから。な?」
側近であり、マリーアとも親しかったゼンクに任せてマリーアを追い払った。
僕はその姿を見ながら……。
(ゼンクもそう言えばマリーアに惹かれていたんだったな……)
今までマリーアは僕の癒しだった。だから愛妾に据えようとしたのだが。
なんだか前と同じ情熱を感じないのも事実だ。
……それならいっそ、ゼンクに彼女を任せるのも良いのではないだろうか?
マリーアの存在は、これから決めなければならない婚約者にとって邪魔な存在だろう。
ただでさえ、侯爵家などの候補もなく、伯爵令嬢に絞られた候補達。
……彼女を侍らせての縁談は、僕にとってかなり不利な話になる。
今の僕には、そんなに選択肢があるワケじゃないんだ。
ある程度の優秀さ、最低限の優秀さを備えていなければ、僕の立場が揺らぐ。
(どうしてだろう。前までは、もっと……)
もっと僕の立場は揺るぎないものだった筈なのに。
だからこそマリーアだって囲い込めるだけの余裕があった筈なのに。
今では、数少ない選択肢の中から、少しでもマシな令嬢と縁を結ばなければならない。
王子だと言うのに、ほとんど頭を下げるような気分での婚約者選びだ。
(父上が、もっと早くに僕の婚約者を決めないから……)
(それに侯爵家の者達が、令嬢の婚約者の席を空けておかないから……)
僕が苦労する事になったんだ。
伯爵令嬢から妃を選んでも、諸侯の意見を黙らせる力は薄い。
……きっと僕の治世では苦労が絶えないだろう。
そう考えれば、ますます憂鬱になった。
あんなに愛しかったマリーアの灰色の髪も今では、何の輝きも見えなくて。
(……ゼンクが、まだマリーアを好きかどうか。話を聞いてみないとな)
色褪せた彼女への情熱から、僕は自然とそう考えてしまっていた。
◇◆◇
それから2年の月日が経過した。
僕は学園を卒業し、日々の政務に取り組んでいる。
……婚約者には、やはりマリーアではなく伯爵家の令嬢を据えた。
彼女の評価はそこそこに優秀といった評価。
可もなく不可もなく、といった所。
それでも居ないよりも居る方がマシだ。
愛情は……まだないと思う。
ただ、冷めてしまったマリーアへの気持ちよりは忙しい自分を助けてくれる彼女に好意を抱けている気はした。
マリーアの扱いだが少し困っている。
というのも……僕はやはりゼンクの婚約者にマリーアを据えようとしたのだが。
当の本人のマリーアがそれを拒絶したのだ。
どうしてだ、と思う。ゼンクとだって仲が良かっただろうに。
ただ、ゼンクもゼンクで以前ほどマリーアを好きというワケではなさそうだった。
そういうところが問題なのかもしれない。
学園を卒業したあと稀に会ったりもしているのだが……。
もう、僕から彼女に絡む事はほとんどない。
宙に浮いたような関係となってしまった。
(……前は、もっと劇的な関係になると思っていたんだけどな)
波風の立たない平穏な関係になり、だんだんと疎遠になったマリーアとの恋愛関係。
これが平民の立場なら自然と消えるようなモノなんだろうが……。
「ハロルド殿下」
「うん?」
僕の婚約者である伯爵令嬢ソフィア・レドモンド。
彼女が手紙を持って僕の執務室にやって来た。
「どうしたんだい?」
「はい。ディミルトン辺境伯のご嫡男が結婚式を挙げるそうです」
「辺境伯のご子息が?」
西の辺境伯、ディミルトン家。
たしかに息子が居たが、婚約者が決まっていたとは耳にしていなかったな。
それが婚約を飛ばして、もう結婚か。
「相手はどちらの家の令嬢かな?」
「そうですね。元平民の女性だそうで……辺境伯家の縁戚である子爵家の養子となってから嫁いできた女性のようです」
「ほう」
わざわざ手間を踏んで貴族令嬢にしてから娶った平民か。
元平民、という言葉にマリーアの顔を思い出す。
「……その女性は優秀なのかな。それとも辺境伯令息がお気に入りだっただけかい?」
「招待状が届いただけで、お相手の女性についての仔細までは書かれていませんが……」
招待状か。
ソフィアから受け取ると、形式的な招待状というものだった。
中央から辺境伯領までは遠いからな。
相手も別に王子や王、王妃を指定していない。
もちろん王族が結婚式に参加した方が箔がつくし、それだけ祝福された縁だと示す事も出来る。
辺境伯家はある意味で侯爵家の面々よりも大切に扱わなければいけない家門だ。
なら遠くとも王族として顔を出すのは必要だろう。
僕がそう考えたように父上達もそう考えたようだ。
だから僕とソフィアは一緒にディミルトン領へと向かう事になった。
改めて近衛騎士となったゼンク・ロセルや、側近となったクロードも一緒だ。
……流石にマリーアは居ない。
「……何故だろうな」
「はい?」
馬車の中には僕とソフィア。そしてクロードが一緒に乗っている。
ゼンクは馬に乗って僕達が乗る馬車の護衛に付いていた。
「いや。ソフィアは知っていると思うが……。僕達は学生時代、ゼンクとクロードと、その。マリーアと一緒によく外に出たものなんだ」
「ああ、彼女ですか」
ソフィアはこれと言ってマリーアの存在を疎んではいない。
時折、困ったようには感じているだろうが不干渉といった具合だ。
……僕のマリーアへの態度が曖昧なせいもあるだろうな。
『そこまで殿下が情熱を持っていらっしゃらないのに可哀想な方』と漏らしているのを聞いた事がある。
ソフィアにとって嫉妬の対象にすらならない相手がマリーアだった。
正妃、側妃どころか愛妾未満の、恋人のようなそうでないような女性。
僕の評価が低迷している原因になってしまっているお荷物と化していた。
「マリーアが居ても居なくても。あの頃、感じていた輝くような日々は、もう戻って来ないのだな、と。……いつ、僕はあの輝きを失ってしまったんだろうな」
「……青春、学生時代というものは、そのように懐かしく輝いて感じるものですよ、ハロルド殿下」
「そうかな」
「ええ。私も友人達とおしゃべりをしていた時を懐かしく思う時もあります」
「……そうか」
過ぎ去った青春だからそう感じるのか。
劇的でロマンチックでさえあった日々は、いつの間にか色褪せ。
日々、地味で情熱を失った時間を積み重ねていく。
どことなく空虚さを感じつつも、目標や憧れを失ったような喪失感は拭えないまま。
ソフィアのお陰で政務も回るようになって来た。
王宮での僕の評価は一度は地に落ちたが、今は何とか……それこそ『不可もなく』といった所まで引き上げられている。
ただ、以前のように『素晴らしい王になるだろう』『ハロルド王子の代の治世は安泰だ』というような評価はない。
いつだって及第点を取る事がやっとか。
そうでなければ普通、平凡な王子……という評価に落ち着き始めた。
その評価にまた言い知れない劣等感や屈辱を感じるが、どれだけ頑張っても変わらない。
むしろ何故、以前はそれほどまでに高く評価されていたのか。
自分でも分からないくらいだった。
そうして空虚さを感じながらも平凡な王となろうとしている僕は、婚約者を伴って辺境伯領を訪れる。
ディミルトン辺境伯と挨拶を交わし、結婚式の準備で奔走している辺境伯令息、パトリック・ディミルトンとも会った。
……整った顔立ちの男だ。
僕よりも逞しい体付きをしているのが見て取れる。
どちらかと言えば騎士に近い雰囲気を持つ彼は、やはり辺境伯を継ぐだけはあるな、という印象だった。
僕とはまた違った色の濃い金髪にエメラルドのような緑の瞳。
中央貴族には居ないタイプで魅力のある……つまりモテるタイプのように見えた。
僕はソフィアの彼を見る視線を注意して見る。
特にソフィアの好みではないらしく、なんだかホッとしてしまった。
「ハロルド殿下。ソフィア様。遠く、王都からよく来て下さいました。誠に感謝しています」
「ああ。ディミルトン家には王家としても礼を尽くさなければならないからな」
王子を前にしてパトリックはへりくだるような真似はしない。
堂々とした態度だった。
かといって無礼でもない。
しっかりと教育も行き届いている様子だ。
「それで貴方の妻となる女性はどのような方なのかな?」
「シャリィは明日の結婚式の準備で少し大変でしてね。挨拶をするのは式の後になります」
「そうか。いや別にいいんだ。不敬には問わないとも。ただ、どういう人物かという情報があまり入って来なくて気になっただけさ」
「そうなのですか? 特に我々は彼女について隠した事などないのですが。諸々の手続きも堂々としており、書類も中央に送っているはずですよ?」
パトリックと辺境伯は互いに視線を向け合い、首を傾げていた。
「ああ。手続きなど問題ない。特に何かを疑っているワケでもないんだ。ただ単にこちらが知るのが遅れてしまっただけだよ」
「そうですか。それなら良いのですが」
実際、辺境伯令息の婚約や、元平民という女性の養子縁組の手続きについては以前から堂々とされていた事が分かっている。
本当に、ただこちらが把握出来ていなかっただけの話だった。
「辺境と中央では式の段取りが違いますからね。挨拶は後になりますが、妻のシャリィについては式で顔を見られますよ」
「そうか。では、その時の楽しみにしよう」
……そうして、翌日。
「新婦、シャーロット・エバンスの入場です!」
パトリックの妻となる女性が、青空の下、作られたアーチを潜って現れる。
エバンス子爵にエスコートされて現れたその女性は……とても美しい女性だった。
「え?」
「……あれ」
「あ……?」
僕とクロード、ゼンクの3人は彼女の姿を見て、何故か呆気に取られてしまう。
(あれ? なんだ? 何故……)
ドクンドクン、と。心臓が早く鳴り始めた。
辺境伯家の婚姻をぶち壊しにするワケにはいかないというのに、今すぐ立ち上がって彼女の顔を確認したい衝動に駆られる。
(バカな。そんな事、出来るワケがない……)
ディミルトン辺境伯は王国にとって重要な家門だ。
その息子の結婚式にあろう事か横槍を入れるなどあってはならない。
理性ではそれが分かるのに……何故か感情がそれを押しのけたい衝動に駆られる。
コッ、コッ、コッと彼女が歩く音が鳴る。
屋根のない開かれた空間で挙げられる結婚式。
日の光の下にヴェールから透けて見える彼女の横顔に、どうしようもなく惹きつけられた。
シャーロット・エバンス子爵令嬢。
元平民の女性。
エバンス子爵家に養子縁組されて貴族の一員となり、そして今は辺境伯家に嫁ぐ事になった、女性……。
美しい漆黒の髪。
そしてヴェールの奥に見えた綺麗なアメジストのような紫の瞳。
「……っ、……!?」
(なぜ、なぜ、なぜ)
なぜ彼女が僕の隣に居ないんだ、という意味不明の感情が頭の中を占拠した。
そうしている間にも彼女、シャーロット・エバンスはバージンロードを歩いて行く。
そして彼女は僕の隣ではなく、パトリック・ディミルトンの隣に辿り着くんだ。
讃美歌が響き渡る時も、僕の頭の中はぐるぐると何か得体の知れない気持ち悪さが巡る。
神への祈りが捧げられ、そして誓いの言葉が紡がれた。
「新郎、パトリック・ディミルトン。あなたは新婦シャーロット・エバンスを妻とし、病める時も、健やかなる時も、悲しみの時も、喜びの時も、貧しい時も、富める時も、これを愛し、これを助け、これを慰め、これを敬い、その命のある限り、心を尽くす事を誓いますか?」
「はい。誓います」
(ダメだ。ダメだ。止めてはいけない。邪魔をしてはいけない。僕にそんな権利はない……なのに)
どうしてか。
僕は、今すぐにでも、この結婚式を。
「新婦、シャーロット・エバンス。あなたは……」
(聞きたくない。嫌だ。違う。こんなのは間違っている。間違っているはずなのに)
だけど。だが。しかし。
(何故?)
僕にはこの結婚式を止める理由がまるでない。
そして王子と言えど、そんな事をしていいはずもなければ、許されるはずもない。
「……誓いますか?」
「はい。私、シャーロットは、パトリック・ディミルトン様を心より愛し、そして生涯、この愛を彼だけに捧げる事を誓います」
「……っ!!」
その文言は前例に倣わない言葉だった。
ただ『誓います』とだけ答えればいいのに。
シャーロット・エバンスは、それ程までに情熱的にパトリックの事を愛している。
まるで、そう主張するように……誓いの言葉を立てて。
「では、指輪の交換を」
「はい」
「はい」
粛々と二人を結ぶ式は進んでいく。
誰にも邪魔をする権利はなく、理由もない。
誰もが祝福する二人の婚姻。
それを僕だけが、どうしようもない程に駆り立てられる焦燥感に塗れながら見ていた。
「では、誓いのキスを」
「はい」
「はい」
「……っ!!」
声を出せない。出す理由など存在しない。
邪魔が出来ない。
彼等を邪魔する理由は僕にはない。
ヴェールが上げられ、シャーロットの美しい顔が晒される。
美しく、そして……幸せそうな、表情。
間違いなく、一人の女としての愛情をパトリックだけに向ける情熱を帯びた視線。
その視線の先には僕はいない。
居るはずがない……のに。
そうして二人が互いの唇を重ね合わせる光景を……僕は見ているしか……出来なくて。
「っ……~~ッ!!」
胸が苦しくなった。
何故。何故。何故。
「私達、結婚します。この事に神に感謝を。そして……私達を祝福して下さる皆様に、感謝を」
結婚の宣言と共に二人に拍手が送られる。
(嫌だ。祝福したくない。したくない、のに)
祝福の拍手を送らない理由が僕にはない。なかったんだ。
まるで見えない糸で操られているような錯覚に陥る。
認めたくない、祝福なんてしたくないのに。
認めない理由がない。
祝福しない理由がないから、僕は自らの意思で彼女の婚姻に拍手し、祝福を送る。
(何故。何故。何故……)
惨めな気持ち。屈辱的な気持ち。取返しのつかない絶望の気持ち。
そういうものが浮かび上がっては、その理由に思い至らず、どうしようもなく流される。
そうして、再び讃美歌が斉唱され、滞りなく式は進んだ。
シャーロット・エバンスは、シャーロット・ディミルトンに名前を変え、夫となったパトリックと共に退場していく。
彼女の名前が、他の男の名前になる。
……その事が、僕にどうしようもない程の激情を掻き立てるのに。
結局、その理由のない僕は何の行動も出来ないままで居るしかなかった。
「ハロルド殿下? ……どうして泣いていらっしゃるのですか?」
「え?」
泣いて?
「あっ……」
気付くと僕は涙を流していた。その涙の理由が分からない。
「感動されたのですか? 素敵な結婚式でしたものね」
「……感動、なのだろうか」
「ええ。新婦のシャーロット様、とても幸せそうにされていました。きっとシャーロット様はパトリック様を深く愛していらっしゃるのね」
「そう……だ、な」
僕は。
感動、したのだろうか。
彼女が……幸せになったから?
知らない女性だ。パトリックの事だってよく知らない。
では、何故、涙が流れるんだろう。
……元平民の女性が、あんなにも幸せそうに結婚して見せたからか?
マリーアのこれからの事を考えて、僕は後悔でもしたんだろうか。
それは……何か、違うような気がする。
「感動……」
しっくり来ない。だけど。それ以外に、僕が泣く、何の理由が?
ない。そんなものは、何もなかった。
僕には……後悔する理由さえも、ない。
そうして僕は、涙の理由すらも失って。
ただ一人の女性が幸せを掴む姿を目に焼き付けるしか出来なかった。
一旦、完結で。
令嬢(女主人公)には、ついつい【パワー】を授けてしまいます。
モラハラ男を、敵をぶちのめす【パワー】を。
冤罪! 鞭打ちの刑! なんだと? ならば貴様をこの手でぶち殺す! ドバキィ!
……で令嬢自らの手で解決する【パワー】を。
でも違うんだよな。異世界恋愛、そういうのじゃないんだよな。
それ、ヒーローの役割というか活躍場所なんだよな、と。
そして力のない令嬢の逆襲手段として、自爆ボンバーさせてしまう。
「あんたのモノになるぐらいなら死んでやるわ!」
で、首かっきり、毒ガブ飲み、崖ダイブ、魔法爆発もろともドーン! と。
他人を傷付ける手段がなくても自滅はOKみたいなとこあります(ない)
というワケで自殺もどきとして、存在抹消を令嬢にして貰いました次第。




