9話 シャーロット
婚約破棄。婚約破棄、婚約破棄!
「……ふふふ」
「何がおかしい!? シャーロット! 貴様の悪事の数々を反省しているのか!?」
悪事など何もしていない。
王家の影が私を見ているだろう。
婚約者だったのだから、第一王子が声を掛ければ、すぐに調べただろう。
知っている事を話しただろう。
ならば私の無実など、とうに証明できている。
弁明するまでもなく。語るまでもなく。
にも拘わらず、このように貴族子女の集まった場所で『悪事』を突きつけ、悪女と扱い、婚約を破棄して見せた。
目的は何?
マリーア・レントを己が『妃』に据える為か?
たとえ努力によって能力が足りるまでに至ろうと、『正妃』に据えるまでは時間が掛かった事だろう。
何よりも私が居た。
邪魔だったからか?
私を『悪女』と罵れば、それだけ彼女を『清らかな乙女』として持ち上げられる、と。
ああ、そうだったわね。
学園でもそうだった。
皆様、こぞって私を悪女と噂し、嫌味のようにマリーアさんを持ち上げる。
『相対的』な聖女様。なんて滑稽な話。
シャーロットよりも『マシ』だから綺麗で、素晴らしいのだと評価する。
それでいいの? マリーア・レント。
そんな事も見えていないかしら。
だって、貴方の恋心には打算などないのだから。
私を貶めたかったワケじゃないでしょう?
そこには積極的な悪意などなかった。
あったのは、消極的な肯定と、願望。
『もしも、このままシャーロット・グウィンズの悪評が広まったら、もしかしたらハロルド様と結ばれるかもしれない』という。
…………ねぇ。マリーアさん。
その願望の果てで、私がどうなるか、どう扱われるか、どう思われるか、どう見られるか。
少しでも考えてくださったかしら?
それとも『シャーロット様なら赦してくださるわ』とでも思っていたの?
…………ええ。きっと。
それでも私が『妃』として立つのなら。
レノク王国の『国母』となるのならば。
矜持と意地とで、貴方の願望を飲み下してあげられた。
されど、婚約破棄。
婚約破棄だ。
その意味が分かる?
……令嬢として婚約破棄は瑕疵がつく?
違う。
……次の縁談が望めなくなり、もうまともな結婚ができなくなるかも?
違う。
……愛する男にフラれて可哀想?
違う。
結婚や、愛など二の次。どうでもいい事。
大切な事は……『王の妃になれない事』だ。
であれば何だったの?
今までの私の努力は。私の人生の大半は。
10歳の頃から始まった妃教育。それに費やした時間。
政務を請け負った時間、努力、労力。
それらをすべて踏みにじる言葉。
私の7年間をすべて踏みつけ、唾を吐く言葉!
それが婚約破棄という『意味』だッ!!
恋が問題なのではない。
愛が問題なのではない。
結婚が問題なのではない。
私の『人生』を踏みにじったのよ。
(これから先、私はどうなる)
大勢の前で、ハロルド第一王子の口から『婚約破棄』と明言された。
その言葉は取り消せないし、そもそも『ハロルド王子の心はシャーロットにはない』という事が知らしめられた。
王の言葉ではない。
だから『なかった事』として私との婚約関係が続く場合もあるだろう。
……そして、その場合の私は、貴族すべてに侮られる王妃となる。
どんなに優れた実績を残そうと、言葉を発そうと『王に愛されていない王妃』だ、と。
すべての貴族に、臣下に、宰相に侮られる王妃となるだろう。
「…………」
その癖、政務だけは私が数多くこなさなければならない未来が予測できた。
これほどの醜聞を経てまで、私を『妃』に据え置く決断の意味は『そこ』に違いないからだ。
ノブレス・オブリージュ。
妃としての仕事を全うするのであれば『それ』で構わないだろう? と。
だってそうしなければ民草はどうなる。
……いや、そう悩む事が『自惚れ』に過ぎない事か?
私が国の中枢に関わらずとも、きっと彼等は国を回すのだろう。
ハロルド・レノックスには『王子』という立場がある。
その彼が私との婚約を破棄したのだから。そう判断したのだから。
私が果たすべき『義務』は、そも『妃』の仕事ではない。
……そういう事に違いない。
貴族の義務は、何も妃だけが果たすものではないのだから。
(では、グウィンズ侯爵家に帰った私はどうなる)
あの父が、野心と政治の道具として見込んでいて、それを果たせなかった私を許容するのか?
しないに決まっている。
では、実子として『グウィンズ侯爵』を継承するだろうか。
そうして女侯爵として『義務』を果たせと。
(するワケがない)
あの父が、何故、実子ではなくセシルという養子を取ったのか。
それは爵位を譲らない為だ。
いつまでも、長く、己が筆頭侯爵という多くの貴族の上に立つ存在であらんが為だ。
そして、その為の『王子の婚約者』の私だった。
……つまり、私が家に帰ろうとも、果たす『義務』はないのだ。
どこぞの家に都合よく妻として押し付けられるか。
政略結婚もまた『義務』だ。
たとえ、それがどのような相手であろうとも。
(それが私が積み重ねてきた人生に対する、果たすべき『義務』なの?)
義務と権利は表裏一体。
私は領民の税によって衣食住を満たし、生かされてきた。
王国の民の税によって妃教育を受けてきた。
そうして支えられたからこそ、民の生活を良くし、支え、守る義務があったのだ。
だけど、おかしいじゃない。
もし、私の未来がそういう結末だったなら。
今までの人生は何だった?
突然そのように失うリスクがある立場な事もまた、義務の内か。
どこぞの家の、気に入らぬ夫の『慰み者』として、ただ子を成す事が私の『義務』でしかなかったのなら。
妃教育とは何だった。
請け負った政務とは何だった。
侯爵令嬢としての課せられた教育は何だった。
…………もっと『自由』で良かったのではないの?
今までの人生が。
だって『要らなかった』のだから。
王妃に仕えて教育を受けるよりも、娼婦に習って閨を学んだ方が、余程に『義務』だったのではなくて?
「…………」
あはは。
何もかもみな、どうでもいい。
要らない。すべて。気持ち悪い。
(王家が私をただ手放すとは……思えない。それは客観的な事実。自惚れではない)
一人の女としての私の『名誉』を守らずとも、実務的な問題があり、また家門の後ろ盾という問題もある筈。
だから、父がこの件で私に怒りを覚えたとして……。
(修道院行きか。すぐに他家との婚約を押し付ける事はしないでしょう)
妃となるに使えなくなった役立たずでも、通常の政略として最大限に使い潰そうとする筈。
だから一旦、家を出し、修道院に押し込める。
そこでなら、私はまだ『淑女』のままと思われるもの。
そして交渉を開始する。
私の人生であるにも関わらず、私を抜きにして勝手に。
(ハロルド様も両陛下から叱責される筈だわ。だって冤罪だもの)
だけど、処罰は軽い。
そして、その『愛』は認められる。
マリーア・レントは『側妃』か……いえ『愛妾』か。
……ああ。この事態まで放置した王家だ。
彼女を『正妃』に据えながら、私を『側妃』に据え、実務のすべてを私に負担させる可能性も大いにある。
(王家の影にこの場で前に出るように言うか)
私の無実は証明できる筈。
この茶番を仕組んだのが国王や王妃でさえなければ。
だけど。
(結局、私が『王に愛されない妃』となる未来は変えられなくなった)
……そう。手遅れなのよ。
もう、この時点で私が生涯、数多の人間に見下され続ける未来が決まった。
人が人を見下す、という事は恐ろしい事。
見下している相手の言葉など、人間は聞かない。
正論かどうかではないの。
理論が正しいかどうかでもない。
見下しているか、否か。
敬意を払っている相手の言葉なら、まだ『会話』が成り立つもの。
そうでない相手とは『会話』さえ成り立たないものよ。
それを是正する為には、もはや『善なる在り方』では無理だ。
『悪』か『力』を示す必要がある。
……見下している人間の言葉を聞けずとも、殴りつけられ、歯でも折られ、腕でも折られた相手ならば、きっと『会話』が成り立つでしょう?
国同士のソレであれば、それは武力だ。
『会話』を成り立たせる為に必要な力。
今の私はもう『敬意』によって対話する事は不可能となった。
善良なる淑女など、彼等は求めていない。
(……それは、とても『しんどい』わ)
対話の為に武力を常にちらつかせる。
脅威を有する事によって、初めて会話が成り立つ関係。
こうなった私にあるのは『文官』として政務に関わるぐらいが真っ当な『価値』しかない。
妃などになれば、見下される方が上回る。
彼等が私に求めたのは『悪女』だった。
悪女となれば、まだ人は畏怖によって話を聞く余地があるでしょう……。
(それは一体、何の為に?)
そう。私が『悪女』とされた理由は。
マリーア・レント。
彼女を聖なる者、相応しき者として飾り、持ち上げる為。
だからこそ私という『悪』を必要とした。
ぐるぐるぐると思考が高速で巡る。
微笑みを絶やさないまま。未来の事を考え続ける私。
お母様の時と同じ。無意味に賢しい私は、この先の自分を、そのリスクを考察して。
やはり、婚約破棄という言葉に衝突する。
私の『義務』は否定された。この国の王子に。
だからどうしても思ってしまう。
たとえ、この先、私が『妃』として王家に迎えられようとも。
ここまで侮辱されてまで、生涯に渡って見下されてまでして。
何故、民に尽くさねばならないのか、と。
……敬意が払われるならばいい。
名誉が保たれるならばいい。
民の為に私がしてきた事が、きちんと評価され、認められるならばいい。
飲み込める。飲み込めた。
私の果たすべき義務なのよ、と。
だけど、大事な、大事な、その部分がハロルド・レノックスの手によって破壊された。
未来の私に敬意は払われない。
未来の私の名誉は踏みつけられる。
未来の私の評価は常に真っ当なものではない。
…………人間は義務だけでは身体を動かせない。
今まで受けた恩を返せ、と言うのなら。
(……私は、既に返しているのではありませんの?)
ハロルド・レノックスが請け負うべき政務の大半を既に肩代わりしてきた実績がある。
きっと、通常よりも多くのモノを、私は国に返してきた筈だ。
領民ではなく、王国の民の暮らし向きを、良きものに変えられた面はある筈。
それで不十分だと……そう判断する権利があるのは誰?
民だろうか。その民はキチンと私を評価してくれる?
(悪女の噂を立てられているのに)
……あはは。
やっぱりダメ。ダメよ。もうおしまい。
どう考えたって無理なの。もう手遅れなのよ。
ハロルド殿下のこの暴挙を諫められない、野放しにした王家が、この先の私をどうするの?
使い潰される。
誰からの尊敬もないまま。
名誉もないまま。
ただ消費していい『悪女』として。
その未来を……この夜会に集まった貴族子女達のすべてが『証明』している。
未来の私を、今この時のように嘲笑い、見下し、悪女だと罵るぞ……と。
彼等がそうならば民草もまた同じ。
果たす『義務』に見合う対価は、二度と得られる事はない。
ああ、ならば。
いっそのこと、もう。すべてを投げ出してしまおう。
私にはそれが出来る。その『手段』があるじゃない。
それにこのまま……そう。父が私を修道院に入れるのなら。
王家との話し合いが終わるまでに、逃げ出してしまおう。
【記憶魔法】に支払う代価は……『妃教育』だ。
(ねぇ? だって私には必要ない記憶でしょう? ハロルド様)
だからこその婚約破棄。
私が受けた『妃教育』はすべて無意味だと断じた言葉。
なら、それを燃料に黄金の天秤に焚べてしまおう。
要らない。要らない。まったく不要だ。
(魔法を使って、逃げる。この先の未来から)
そして、貴族としての義務を捨てて、市井に──
「────」
……そこで。
怒りと嘆き、諦念に塗れた私の思考に、ビシャリと冷や水が掛けられた。
市井に下る。その未来を私は想像したの。
そこに引っ掛かるものなんてある筈がない。普通なら。
だけど。
(何故、あの魔女は……『市井に下るつもりなら』と、そう言った?)
そのつもりならば供をする、などと。
私は結局、王家に言えなかった彼女とのやり取りの記憶を引っ張り出した。
そしてドレスの端に忍ばせている、彼女から貰った『手鏡』に触れる。
(あの時は……疑問に思いながらも……それが『救い』のようにも感じていた)
どこかに私の味方が居るかもしれない、と。
今この時のような苦境に立たされた私。
そこに手が差し伸べられるのなら、きっとその手を私は取っていただろう。
(だけど……『順番』が……おかしいのではなくて?)
私が逃げると決めた『後』で、鏡の魔女が声を掛けてくるならばいい。
市井に下るつもりなのよ、と。私がそう発言した『後』で。
『ならば私もお供します。シャーロット様』と、魔女が言ってくれたなら私は彼女を頼っただろう。
──だが、何故、『先』に言う?
「ひゅっ……」
息を呑んだ。
まさか。まさか。まさか。
この茶番のすべては『誰か』が仕組んだ事なの?
(彼女の言葉使いはベルファス王国の訛りがあった。この婚約破棄劇は……、隣国の企て?)
……そう言えば。
あまりにも私の悪評が、すみやかに広まった。
これまでの私の功績も、実績も、人格も、すべて無視するように。
多くの者に私に対する悪意があったのかもしれない。
私が認識していなかっただけで、嫌われていたのかもしれない。
だけど、それらが表面化するに至った時間は……あまりにも短過ぎたわ。
違和感がある程に。
ドクン、ドクンと心臓が脈打った。
また『壁』を感じ始めたの。
そして同時に『恐怖』を感じたわ。
長年の婚約者からの、王子からの婚約破棄。
友人と思っていた彼女達の裏切り。
その事に絶望していた。自暴自棄になっていた。
だから、己の持つ力を駆使して、すべてから逃げる計画を頭の中で組み立てた。
すべてを捨てて、逃げる選択を選んだ、その先に。
……変わらない『運命』が待っているような気がしたの。
まるで逃げる事すらも『予定調和』だというように。
私の嘆きも、私の苦しみも、私の怒りも、私の憎悪も。
すべて、すべて、すべてが……予定調和に過ぎないと。
(…………ダメだ)
この選択は、きっとダメなのよ。
穏便、隠れて逃げて、ひっそりと市井に。
義務から逃げて。そうしたのはハロルド様やマリーアさんでしょう? なんて。
そう思って。
そう思いながら、民草の事を気に掛けて。
後悔しながら生きて。
逃げた先に。
自由があると思った先に見えた……暗い、暗い『壁』の存在。
(ダメ。ダメ。ダメ……)
違う。ダメだ。読まれている。
私の行動のすべてが。
私の思考のすべてが予測されている。
今までの私ではいけない。
このままはすべて予定調和なのだ。
もしも、そうならば。そうであったならば。
……レノク王国に待つ未来は?
私が居なくなった後の彼等を想像する。
ただ私が逃げてしまった後の彼等について、賢しい頭で予測を立てる。
その時、最も苦しい思いをするのは一体誰だろうか。
私? 本当に? 違う。
苦しむのは、きっと民達だ。
だってこの件に関わっているのがベルファス王国ならば。
そこには国と、国との諍いが、思惑がある。
他国の王族の婚約に干渉してくる、その理由は?
……戦争。侵略。それ以外の『理由』など、ある筈がない。
「…………」
私は、私を睨む彼等に改めて視線を向けた。
誰も彼もが私を疎んでいる。
多くの者が私に悪意を向けている。
……さっきまでは彼等に対して憎しみがあって。
それは決してなくなってはいないけれど。
すべてが仕組まれた茶番だとしたら?
「……ふぅ」
すべてだ。
すべての『予定』を壊さなければならない。
そのすべてに含まれるのは……『私』さえもだ。
私の感情、私の思い、私の願い、私の矜持。
それらすらも、すべて『破壊』する必要がある。
だって、これは『壁』なのだ。未来を閉ざす『壁』なのだ。
ならば破壊しなくては。
(──私の嘆きも、怒りも、すべてが予定調和の内なのだとしたら)
踊らされてなど、やるものか。
…………『大きな事』を、してやろう。
それは私の原初の願い。
義務ではない。矜持ではない。彼に対する愛でもない。
……ただ、あの時、母を救えなかった私の、心を慰める為。
(ああ。どれだけの事が出来るの、私の『魔法』は)
黄金の天秤に、乗せるモノの重さを、あの時の私は恐れた。
だから、ずっと後悔している。
その後悔を覆す時を……ずっと願っていた。
己を捧げる。捧げて、捧げて、『誰か』を救いたい。
誰だっていい。
だって、もう本当に救いたかった命は返らない。
だからこそ、これが最後の私の『義務』よ。
ノブレス・オブリージュ。
自己を捧げて、民の為に、国の為に、尽くす。
……けど、それは私を裏切った彼等の為じゃあない。
すべては民の為。国の為。
無辜の民まで、私達の運命に傷つけられない為に。
(その先の『義務』は……貴方達が果たしてちょうだい?)
それが、私に出来る、ほんの少しの意趣返し。
でも、最低の結末までは望まない。
どうか『義務』を果たせるだけの人生を歩んでちょうだい。
そうして、そこに……『私』が居る必要なんて、ないでしょう?
だって、だって。
私、もう、貴方達のことが……大嫌いだから。