8話 婚約破棄
「…………」
妙な女性と出逢ってしまった。
彼女は、何か……匂わせるだけの事をして、私の前から去っていったの。
そして私に小さな『手鏡』を渡していったわ。
(私の事を救いたい? 何から?)
今の状況から?
……私は今、孤立しているわ。
ハロルド様は、マリーアさんを連れ回し、彼女と親密な関係を築いている。
一方で私の事は……お世辞にも良く扱っているとは言い難い。
彼の側近であるロセル侯爵令息や、シェルベルク侯爵令息も、ハロルド様をお諫めしているみたいだけれど、効果はまったくないと言っていいわ。
ロセル……ゼンク様に至ってはむしろ逆効果ですらある。
マリーアさんを引き離す為か、はたまた本心か知らないけれど。
結果としてハロルド様とマリーアさんの仲を深める形になった。
『貴方の状況は、もっと悪くなるばかりです』
(……あの女性。魔女を名乗った彼女は、そう言ったわ)
どこかの家の者?
ううん。口調に独特の訛りがあったわ。
地方、或いは……隣国のイントネーション。
レノク王国と隣国であるベルファス王国では、同じ言語を使っている。
でも、その発音には差異があるのよ。
偶に些細な発音の違いで大きな誤解を生む事もある。
だから、王族や外交に携わる者は、そこの違いをキチンと把握しておく必要がある。
(ハロルド様は苦手そうだけど)
王子・王子妃、または婚約者である私が請け負う政務の内、外交関係は私が担う事が多かったわ。
あの女性、【鏡の魔女】を名乗った彼女の言葉は、隣国ベルファスのもの……。
(ベルファス王国の手の者。それも魔女を名乗るからには魔法を使う……なら、国でも重要な立ち位置の可能性が高い……)
そんな人間が秘密裏に私に接触を試みる、ですって?
いくらハロルド様に今、冷遇されていようと私の立場は『第一王子の婚約者』である事は変わりない。そんな私に隣国の者が接触するだなんて。
(王家に報告を入れなければならないわ)
『私は、我が主は貴方を救いたいのです。シャーロット様。主は……貴方の幸せを第一に考えています』
(私の幸せ……)
『シャーロット様には別の道が、未来もあるのだと。心に留めて欲しいのです』
『市井に下るつもりなら私がお供致しましょう。私は、どこまでもシャーロット様に付いていきます。どうか、貴方様はお一人ではない事を……忘れないでください』
(何を言っているの?)
市井に下る? 私が?
侯爵令嬢であり、王子の婚約者である私が?
それで彼女が付いて来る? 何の為に。
『シャーロット様が幸せになれる未来を……私は、私達は守りたいのです』
私の幸せ。
それは……ハロルド様の隣に立って。
いずれ王妃になって、国を守り、民の為に。
それが私の。私の。
…………意地。
個人的な幸せの為に生きてきたワケじゃない。
そんな生き方を私は許されていない。
何の為の貴族。何によって生かされてきたか。
(国に還元する事こそが)
ハロルド様の隣で。
……私を見ない、彼の、隣で……?
ゾクッ、と。背筋に寒気が走る。
私は本当にずっとこのままで生きていけるのか。
国母として立ちながら、王となるハロルド様から向けられる目は冷たいものだけで。
その未来に耐えられる程、私は……強い……だろうか。
(出来て……しまうのかもしれない)
きっと私は、私の心を殺せるだろう。
彼からの愛がなくても、『国母』という人間になって、国に尽くす人生を歩んで……しまえるだろう。
『私は、結婚するなら好きな人とがいい。これだけは』
マリーアさんが私に漏らした、その言葉。
甘ったれた台詞だ。
貴族には、許される筈がない台詞だ。
……いいえ。私には、許されない台詞だ。
だけど。
『私だって、そうなのに』……と。
あの時の言葉を思い出して、そう悲鳴を上げたくなった。
政略結婚だろうと、ハロルド様の愛が、或いは信頼があればいい。
それならば黙って、この叫びは呑み込む事が出来た。
でも。
(それすらも……ない、という事を、ハロルド様は今、証明なさっているわ)
最低限の信頼。最低限の愛情。最低限の……。
ハロルド様から私へのそんな感情は……ない。
彼は、マリーアさんに夢中なのだから。
「…………」
マリーアさんが私に助けを求めるように漏らした言葉が、ぐるぐると頭の中をかき乱す。
空虚なままでいれば、今のままでも立っていられる。
己のすべてを国に捧げて。
愛のない妃の座に座って。
(一人ぼっちの……私)
私の味方はどこに居る?
妙な噂をやめさせようと頑張っても空回り。
シーメル様達も、離れていったわ。
(……苦しい時に離れていく『友人』なんて……ね)
私が友だと思っていただけだったのか。
彼女達は、私を捨て置き、マリーアさんの周りに侍っている。
私のことを『悪役』にして、まるで彼女を守り立つ者達のように。
「…………」
ふと。その姿に。
私は大きな勘違いをしている事を突きつけられた。
……私が『ハロルド様の妃』になる事は、本当に確かな未来だろうか、と。
シーメル様を始めとした友人達は、今や『マリーアさんの友人』として振る舞っているの。
きっと、元より『ハロルド様の妃』に侍っているつもりだったのでしょう。
つまり、彼女達は……未来の王妃を、マリーアさんだと考えているのよ。
(私の未来は……決まっていない)
それが大きな、大きな勘違いだったの。
何が国の為に尽くす? 何が国母?
王家の血を継いでいるのは私じゃない。
ハロルド・レノックス第一王子だ。
だから確定しているのは彼が王に、或いはそれに近い立場に立つという事だけ。
(彼女達の姿は……未来の光景なのかもしれない)
私を『悪役』にして盛り上がっている彼女達。
希代の悪女、シャーロット・グウィンズ。
そして灰色の髪の、乙女。マリーア・レント。
誰もが私を悪し様に罵る。
そうして語るの。『彼女よりも、よっぽど愛らしくてハロルド殿下に相応しい』って。
いいえ、味方は居るのでしょう。
でも、その味方とは……王家に携わる者達だけ。
王家の影もそう。
クロード・シェルベルクも、ゼンク・ロセルもそう。
彼らは『私個人』を大事にしたいワケじゃないわ。
『政務をこなせる令嬢』としてのシャーロットを重視しているが故に、私の立場を守ろうとしている。
ただ、それだけ。
(それが私である必要は……ない)
妃教育にかけた時間が、費用が。或いは家門の力が。
必要で、惜しいだけの話。
「ハ……」
どうしたの? どうしたのかしら、シャーロット。
それでいいと考えていた筈よ?
それこそが貴族の義務だと、矜持を持っていた筈じゃない?
(だけど、その矜持すらも果たせないなら?)
来る日も、来る日も、私は悩み、苦しんだ。
苦しんで、悩んで、足掻いて、訴えて。
だけど願うような答えは出ない。
王家に訴える程じゃないから?
もうすぐに噂は収まるだろうから?
だけど、私は……私は、もうハロルド様を……信じられて、いない……。
「…………」
嫌だ。
嫌。
このままなんて、嫌。
だけど誇りがある。矜持がある。意地が……あるのよ。
私が国母として立つのなら。
ハロルド・レノックスの裏切りも。
マリーア・レントの恋心も。
シーメル・クトゥンの手の平返しも。
ゼンク・ロセルの浅はかな企みも。
クロード・シェルベルクの怠惰も。
……すべてを飲み下して、立ってみせる。
それが私の意地。
ノブレス・オブリージュ。
それが今までの私を生かしてくれた、レノク王国への──
「シャーロット・グウィンズ侯爵令嬢! 私は今日、お前との婚約を破棄する!!」
……………………その言葉を聞いた瞬間。
私の中にあった何かにヒビが入り、そして……砕けてしまったの。
ふふふ。
「あはは……。あははははははははははははは!!」
私は笑ったわ。ええ、本当に。心の底から。
だって、もう。ここに立っているのは……求められているのは。
優等生の、貞淑な侯爵令嬢、シャーロット・グウィンズじゃあ、ない。
彼等が求め、彼等が言葉を交わし、彼等が嘲笑い、彼らの視界に立つ女は。
──希代の悪女、シャーロット。……なのだから。