魔女
「ハロルド様……」
私は、赦されない恋をしました。
相手は、絵本に描かれた物語から飛び出してきたように素敵な方。
この国の王子、ハロルド・レノックス様。
ですが。
恋に落ちた日に、私は失恋する事が決まったのです。
王子と私には、あまりにも大きな壁があって。
それだけでなく、彼の婚約者は……シャーロット様だったのです。
(こんなの……。こんなのってないわ)
失うのなら好きになりたくなかった。
ときめいてしまった心さえ、恨めしく思う。
元より、私が王子様と結ばれる筈もありません。
どんな間違いが起きたって、彼と結ばれる筈がないんです。
何よりも彼の相手は……シャーロット様。
私が知る中で一番、素晴らしい方。
こんな私にまで手を差し伸べて下さった方。
シーメル様のように彼女の周りに居る令嬢達もこぞってシャーロット様を褒め称えていました。
過剰だと思えるぐらいに、です。
(シャーロット様は、素晴らしくて、誰にでも優しくて。だから)
だから私程度の相手にも手を差し伸べるんだ、と。
皆にそう言われているような気がしました。
たしかに感じていた『友人』としての気持ちも、シャーロット様にとっては、情けをかけるような戯れだと。
高位の貴族令嬢達が私にそう諭してくるんです。
しつこい程に。
(そんな事……分かってるのに)
知っている。分かっている。身の程を知れと、私だって思ってる。
令嬢達は、笑顔のまま私に話し掛けてくるのに……あまり好きになれませんでした。
いつだって、その言葉の先に、今の私の在り方を貶めるような何かがある気がして。
それを否定したり、庇ってくれるのは、いつだってシャーロット様でした。
だけど。
(惨めだわ……)
なんだかシャーロット様に庇われる度に、自分が惨めな気分になりました。
彼女が居なければ、私なんて吹けば飛ぶような存在で。
あの方のようになりたかった。
シャーロット様のように、私もなれたら。
自分と、彼女を見比べてしまって。そうしたら、惨めさに耐えられなくなる。
どんなに努力したって覆せない、生まれながらにして決まっている差。
感謝する気持ちがある一方で、どうしようもなく、そうでない自分を惨めにさせる程の……光。
(私は……これから先も、いつまでもシャーロット様を見上げて生きるのかしら)
羨ましい、と憧れの気持ちで。
そして……隣に立つハロルド様が、彼女を愛おし気に見つめる姿を。
届く筈もない恋。敵う筈のない相手。
そんな気持ちを抱きながら……そうして私に待つ未来は?
愛情すらも抱かない、見知らぬ誰かとの結婚……?
私の頭の中にモヤモヤと、黒い煙で描かれた漠然とした男性像が浮かび上がりました。
好きでもない、望んでもいない相手に嫁ぐ、自分。
自分が好きな相手は違うのだと、心の中で叫びながら……その誰かにこの身体を。
「……!!」
(嫌だ……。嫌。嫌……)
どうして私は貴族なんだろう。
平民で良かった。どうして。
生まれながら、貴族として育った女性達と私は違う。
貴族としての義務? その義務を果たさなければならない程の恩恵を……私は受けて生きてきただろうか。
(そんな事ない。ずっと貧しい生活だった。私は、義務に対する恩恵を誰からも与えられていない……)
貴族としての義務なんて、私に関係がある筈がない。
それを果たして欲しいのなら、もっと早くに私を引き取るべきだった。
だって、そうしていたら。
生まれながらの貴族令嬢だったなら。
それを当然の事として受け入れてしまえたんでしょう?
貴族令嬢達が、自分と同じ人間だと思えなかった。
好きでもない相手と、どうして結婚なんて出来るの。
どうして。どうして私は。
(シャーロット様のように生まれてこなかったんだろう)
涙が零れる。
それは、ハロルド殿下への思慕と、シャーロット様への嫉妬心だった。
彼女の立場に生まれていたなら……あの方の瞳は、私に向けられていたかもしれない。
何故、自分はこんなにも惨めなのか。
この先、一生こんな思いで生きていくのか……。
(嫌だ。嫌。嫌……)
苦しい日々が続いた。
なんとか表面上は、取り繕う。
小さくシャーロット様への嫉妬心を抱えながら……時折、姿を見せるハロルド殿下から目が離せなくなる。
「……!」
一緒の席に座るから、何度も何度もハロルド様と目が合って。
その度に私の胸には切ない想いが募っていった。
「……マリーアさん」
「は、はい。シャーロット様?」
「いえ。大丈夫? 体調が優れないように見えたけれど」
「え? は、はい。大丈夫……です」
シャーロット様に聞かせてきた平民としてのお話を、ハロルド様も聞いてくれた。
私の目は、ずっと彼に注がれたままで、一生懸命に話す。
「…………」
シャーロット様の口数が少なくなっていた事には気付かなかった。
ただ、私の話をいつも聞いてくださってきたシャーロット様だから、聞き上手だったのかもしれない。
(ああ、ハロルド様……お慕いしています)
彼と話す機会が増える度に、私の気持ちは膨らむばかりでした。
そうして気持ちが膨らむ程に、そのありえない恋に苦しむ日々が続いて。
(どうにかなってしまいそう……)
どうして、私は。私は、何故。
シャーロット様が羨ましい。あの方になりたい。あの方のようになりたい。
私は。私は。
『──マリーア・レント。貴方の願いを……叶えたい?』
「!?」
え!?
私は、学園に用意された女子寮の……小さな個室で一人過ごしていました。
扉は閉まっている筈です。
だから、部屋には一人の筈。なのに。
「だ、誰!?」
部屋を見回しました。でも誰も居ません。居ない。
けど、たしかに声が聞こえたし、私の名前を呼んだ筈。
『こっち。こっちよ』
「誰!? ど、どこに居るの!?」
(誰か居る!)
でも、どこに? 誰が?
部屋を見回しても人の姿は見えない。けれど、はっきりと声が聞こえる。
『鏡よ。鏡を見てみなさい?』
「か、鏡……?」
恐る恐る、私は部屋に備え付けられている鏡の前に移動しました。
ドクンドクンと心臓が鳴っています。
恐怖に支配されそうになる心。
明らかにおかしな事が起きている……。
『ふふ。はじめまして。マリーア・レント。【灰色の乙女】のマリーア』
「きゃっ!?」
鏡は、私の部屋や私を映し出しては居ませんでした。
まるでそこに穴があるように、別の光景を映し出していたんです。
(な、何なの!? これは一体!?)
鏡の向こうには……仮面を着けた女性? が居ました。
そして彼女が、鏡の向こうから話しかけているのです。
声も若い。仮面の下に見える肌も若々しいけれど……。その姿はまるで物語に出てくるような。
『驚いたでしょう? これはね。【鏡の魔法】を使っているの』
「え? は? か、鏡の……ま、魔法??」
(魔法だなんて! そんなの!)
いえ。
いいえ。
たしか学園で習いました。
魔法を使える人は、この世に居るのだと。
とてもとても貴重で、魔法を使えるだけで大切にされる存在だって。
レノク王国にも幾人か魔法を使える存在が居て、彼等の多くは貴族家出身の人……だという話です。
血の繋がりで魔法を使える才能が受け継がれる事が多いから、貴族家が積極的に取り込んでいった結果、そうなったとか。
(えと。ええと。たしか西の方の田舎に住む貴族が有名だってお話でした。鏡の魔法かどうかは覚えてません……)
そう。居る。
魔法を使える人間は、このレノク王国にも居る、と学んだ。
でも、そんな人が私の前に? 一体、どうして?
『ふふ。貴方はねぇ。マリーア・レント。【この世界】の主人公……なのよ』
「え?」
(何を言っているの? 主人公……?)
「何をおっしゃっているんですか?」
『…………、……主人公と聞いて、心当たりはないかしら?』
「あ、ありません。けど……」
「本当に?」
「は、はい」
『……うーん。私が知っている、と聞いても?』
「知っている? ですか?」
何? 一体、何の話を。
『……【灰色の乙女】という言葉を、私が知っていると聞いても?』
「え、と。灰色の、乙女? ですか? は、はい……。よく分かりません……」
『……そう。じゃあ、貴方は本物のマリーアなのね』
本物の、って。どういう意味だろう。
私の頭の上には疑問符ばかりが浮かびました。
『……じゃあ、一つ。聞いてもいい?』
「え、あ、は、はい。ど、どうぞ……?」
鏡の向こうに居る女性は、どこか。はい。
貴族の女性というよりは、私と同じ平民……出身のような喋り方でした。
それよりも、少し馴れ馴れしいような、そんな。
『シャーロット・グウィンズは貴方に意地悪をするかしら?』
「え!?」
シャーロット様? どうして今、彼女の名前が?
「い、意地悪、ですか? い、いいえ。私は彼女にそんな事、された事はありません……」
『そう? じゃあ、そっちは可能性あるのね? でも、それにしては……ねぇ? ふふ』
「な、何でしょうか……?」
『いいえ。こっちの話。ねぇ、マリーア。本物のマリーア・レント』
「は、はい……?」
『貴方は……ハロルド殿下に恋をしている?』
「っ!」
この人は。この『魔女』さんは、どうしてその事を知っているのでしょう。
一体、この人は何?
「ど、どうしてですか? どうして、その事を」
『ああ。その気持ちは抱いているのね? ふふ。じゃあ、きっと上手くいくわ』
「うまく、いく?」
何が。
『マリーア。貴方は……ハロルド王子と結ばれる。そういう運命だから』
「えっ」
私が? ハロルド様と?
「な、何をおっしゃっているんですか!? ハロルド様は……シャーロット様、と」
言いたくなかった。
その先の言葉を。何度もその事実に打ちのめされてきたから。
『ふふ。それなら問題ないのよ』
「はい……?」
『シャーロットの運命の相手は、ハロルド王子じゃあないから』
「え?」
運命の?
「ど、どういう」
『気にしなくていいの。いいえ。気にして貰っては困るわ。シャーロットはね。王太子殿下と結ばれる運命にある女だから。だから、むしろ貴方には動いて貰わないと困るの』
「え、え、は?」
何? 何? どういう。
私は頭の中がパニックになりました。
鏡の向こうの魔女も現実的じゃないのに。
彼女の言っている意味が理解できない。
ただ。ただ。
その言葉の端々に、今の私を救うような言葉があって。
私がハロルド様と結ばれる? でもシャーロット様の相手は……王太子?
王太子と、王子は違うと聞きました。
ハロルド様の肩書きは、まだ王子……で。
王太子? 違う人? でも、たしか第二王子殿下は歳が離れていて。
『シャーロットは、ハロルド王子と別れても幸せになる運命なの。……まぁ、少し変わった形で。肩書きだって、申し分ないものを彼女は手に入れるわ。その役割に相応しい末路……ええ。幸せの一つの形。外に出る事は叶わなくてもね? 王太子殿下は、ずっと昔から彼女を望んでいる。その設定と現実は変わっていないの』
「? ……??」
分かりません。意味が理解できません。
『……本当に、貴方はただのマリーアなのね』
「一体、何の話を……されているのですか」
『……うん。シャーロットの運命の相手は、その国には居ないの。だから貴方は……彼女をレノク王国から……国外追放しなくちゃいけないわ』
「は!?」
つ、追放? 国外?
何を言っているの!?
『マリーア。貴方は私の言う通りにしなさい? そうしたら。ええ。きっと貴方は手に入れられる。貴方の運命の相手を。シャーロットに気兼ねする必要もないのよ? 彼女には別の運命の相手が居るから……むしろ、彼女の為には私の言う通りにした方がいい』
シャーロット様に、別の運命の……相手が。
それは。それは。
「魔女様。それは……、シャーロット様は、ハロルド様と結ばれない……と? それでも」
『ええ。それでも彼女は幸せになる。彼女を望むヒーローは別に居る。だから貴方は、彼女の為にも……彼女を破滅させなければいけないわ? ふふ。ねぇ? 灰色の乙女さん』
……信じられませんでした。
すべてが悪夢のような体験です。
ですが。
ですが。
……その日から私は、鏡の向こうに居る魔女とお話を繰り返して。
そうして。
私は『運命』をなぞっていったんです。
魔女の言葉は本当でした。
私は、日に日にハロルド様と出逢い、お話をし……やがては一緒に外に遊びに出るようになって。
夢のような日々。物語のような素敵な日々に酔いしれました。
そして私が何もしなくても……シャーロット様の悪評が広まっていきました。
本当に、本当に私は何もしていないんです。
ただ、口だけを閉ざしていました。
だって、それがシャーロット様の為でもあったから。
(魔女の言葉は本当。シャーロット様にはハロルド様以外に、運命の相手が居る……)
だったら。
だったら。私がハロルド様と結ばれたって。
魔女の口ぶりでは……王太子、ハロルド様ではない相手。
第二王子でもない。
つまり……違う国の? 王子様が……シャーロット様を望んでいて。
彼女は、その人と結ばれるのが運命だと言うのです。
その言葉は真実なのか。そうでないのか。
でも、真実であって欲しい。だって、すべて魔女の言う通りになりました。
私とハロルド様は……互いに想い合うようになっていて。
「魔女様。本当に。本当にシャーロット様は幸せになりますか?」
『……ええ。ずっと彼の傍で暮らしましたってお話で終わりになるわ。束縛が強い愛だってあるの。幸せの形は人それぞれでしょう? 王太子様が彼女を愛しているのは本当だもの』
「えっと。はい……」
魔女様はすべてを話してくれているワケじゃありません。
彼女は、私の事を【灰色の乙女】と呼ぶ事があるけれど……それがどういう意味かも分からない。
ただシャーロット様は『悪役』でもあり、同時に幸せを掴む人物でもあるのだ、と。
だから気にしなくていい。私は気にしなくていい。
このまま運命の通りに。このまま。このまま。
そうすれば。そうすれば……必ず。
(私は……ハロルド様と、結ばれる……!!)
魔女の言葉に従い、私は運命に従いました。
そうすれば皆が幸せになれる。幸せになれる筈。
シャーロット様だって幸せを掴めるのだと。
そう信じて。私は、夜会の場に立ちました。
すべて『運命』の通りに。
(ハロルド様が、シャーロット様に婚約破棄を突きつけ、そして国外追放を言い渡す……)
(シャーロット様は、家に戻っても父親に失望されて、そのまま追い出されてしまう)
(そして王家からやって来た人に連れられて隣国に向かう事になって……)
(シャーロット様は、おそらく隣国の王太子と出逢い、本当の恋に落ちる。そうして彼の妃になって)
それが運命。皆が幸せになれる形。
これは、そういう物語。
魔女が予言した結末。
…………だった、筈でした。
(え?)
シャーロット様は私の知らない事を告げ始めます。
(記憶の魔法? そんな事は魔女から聞いていない)
(……魔女に騙された? え? でも)
違う。何かが違う。間違っている。
それは、それは……魔女の語った『運命』とも違う、結末。
(どうして!? どうして、どうして、どうして!)
(このままじゃおかしくなる! 全部、全部がおかしくなる! 『運命』の通りにならないなんて!)
私の頭の中は、ぐるぐると混乱して、まともに思考出来ませんでした。
だって、このままではすべてが!
シャーロット様だって『運命』の相手と出逢えなくなる。
魔女は王太子が運命の相手だと言っていた。
だったら彼女は、シャーロット様は『記憶』を失っていい筈がない!
私にだって分かりました。
未来の王妃となる為の教育を彼女が受けてきた。
その知識があるからこそ……隣国の王太子様と、彼女が結ばれる運命があるのだと。
なのに、その記憶さえシャーロット様が失ってしまったら?
(だめ、ダメ、ダメ! それじゃあ!)
シャーロット様の【記憶魔法】は、まるで運命のすべてを拒絶するようなモノでした。
「シャーロット様──!!」
彼女が『運命』を知っていたのか、知らなかったのか。
知っていて拒絶したのか。
知らずに……幸福となる未来を、自ら手放す事になるのか。
私は彼女を止めるべきでした。止めなければいけなかった。
だけど。
だけど、すべては光の中に──




