前編
希代の悪女、シャーロット・グウィンズ侯爵令嬢。
腰まで伸びた漆黒の髪に、紫水晶のような瞳をした女。
彼女は、王国の第一王子ハロルド・レノックスの婚約者だった。
だが、それも先刻までの話。
夜会に集まった多くの貴族達の前で、彼女はハロルド王子に婚約破棄を突きつけられた事で、その立場を失う事になった。
「……ふふふ」
「何がおかしい!? シャーロット! 貴様の悪事の数々を反省しているのか!?」
悪事。そう言われても、それらはシャーロットの与り知らないものばかりだった。
貴族子女達を集めた学園に入学し、2年は何事もなく、ハロルドとシャーロットの関係も深くはなくも問題はなかった筈。
しかし、一人の少女が現れた事でシャーロットの人生は狂い始める。
今もハロルド王子に庇われるような位置にいる女、マリーア・レント。
灰色の髪に庇護欲をそそるような見た目。
そして真実、彼女は今、怯えた表情をしている。
打算や計算、底知れぬ悪意をもってシャーロットを罠に嵌めたのではなく、本当の被害者かのような態度だ。
男爵家の庶子であったマリーアは、慣れない生活をしていた。
ほとんど平民として過ごしてきた彼女は、学園でも浮いた存在となっていて孤立していた。
そんなマリーアに初めに手を差し伸べたのはシャーロット本人。
そしてシャーロットが彼女に手を貸す程の距離にいる事で、ハロルドとも関わるようになり……。
あっという間にハロルドとマリーアの距離は縮まっていった。
シャーロットという婚約者が居ながら、必要以上にマリーアに親密な態度で接するハロルド。
そうしてシャーロットは、いつしかマリーアへの嫉妬にかられて虐めを先導した悪女にさせられていた。
誰が言い出したかは分からない。
何者かの悪意があってか。噂話が行き過ぎたせいか。
マリーアの態度を見るに、彼女が言い出した事ではなさそうでもある。
けれど、シャーロットの悪女としての噂を、マリーアが積極的に否定してこなかったのを知っていた。
マリーアは純粋にハロルドの事を異性として好きになっていたからだ。
そうして、シャーロットの悪評が広まった時。
虐めや嫉妬の対象がマリーア自身であり、当事者であるにも関わらず、消極的に……シャーロットがハロルドの婚約者でなくなる事を願った。
シャーロットが居なければ、自分がハロルドと結ばれるのではないか、と。
そういう一人の女としての願望が、この事態を招いたのだろう。
「いえね。ハロルド殿下。おひとつお伺いしたいのですけれど」
シャーロットは、微笑みを崩さぬままハロルドに向き合う。
夜会に集まる貴族子女達。
マリーアを庇うように立つハロルド王子。
その傍には、ハロルドの側近、近衛騎士でもあるゼンク・ロセル侯爵令息や、同じく側近で、将来の宰相候補とも噂されるクロード・シェルベルク侯爵令息も居た。
彼等もまた、シャーロットの事を、マリーア・レント男爵令嬢を虐めた悪女として睨みつけている。
正義の心もありつつ、その裏に男としての感情がある者達だった。
ゼンク・ロセルなどマリーアが好きだからシャーロットを憎んでいるのが、あまりにも分かりやすい。
「私がいなくても、貴方は彼女を愛したかしら?」
「……なに?」
婚約破棄への問いでも、悪事への言い訳でもなく。
シャーロットはそんな事をハロルドに問いかけた。
ハロルドは、行動こそ起こしていないが……確かにもうマリーア・レントに愛情を抱いている。
その事を問い詰めようと言うのだろうか。
「希代の悪女シャーロット。最近では、そんな噂で皆様、大層盛り上がっていましたわね」
「当たり前だろう! お前は、それだけの、」
「つまり、それだけ貴方達の話題は、私の事ばかりだったの」
「…………は?」
シャーロットが指摘するのは真実だ。
ハロルドとマリーアの仲は、かなり親密ではあったが……。
『マリーアが優れている』という話題では学園の生徒達も、そしてハロルド達でさえ沸き立っていない。
『悪女シャーロットを赦せない』『シャーロット様は、こんなにも酷いのよ』
……そんな風にしか彼ら、彼女らは熱を上げていなかったのだ。
「マリーア・レント男爵令嬢が際立ち、愛らしく見えている理由は悪女シャーロットが居たから。そうでございましょう?」
「……何が言いたい!」
「ふふ。私が居なければ、貴方達は彼女を愛したかしら、ね?」
「!?」
悪女が居てこそ輝く花。自力で輝く星ではない。
比べる者が居なければ、そもそも。
「高貴な女が落ちぶれる様が、皆様の退屈凌ぎに良かったのでしょう。悪漢からではなく、醜い悪女から、可憐な乙女を守る事こそ男の本懐と酔いしれる美酒になったのでしょう」
ニィ、と。
シャーロットは、それこそ本物の悪女のように歪んだ微笑みを見せた。
「……!?」
シャーロットのそんな表情をハロルドは見た事がない。
噂に聞いた悪女ならば当然の表情とも言えたかもしれないが、その時、初めて見たのだ。
「シャーロット! 貴様はやはり悪辣な!」
「表情ひとつで悪か否かを語るのですか? 浅はかなこと。貴方の快・不快は、罪も悪も定めるものではありませんわ。顔の造作もね?」
そうしてシャーロットは馬鹿にしたように呆れて見せた。
その態度にカチンとハロルドは頭に血が昇る。
「貴様っ……!」
剣呑な空気に染まる男達。
そして尚も口を噤み、シャーロットに虐められた事実などないと否定しないマリーア。
ここまで来て黙っているのだから、たとえ積極的に悪評を立てなかったのだとしても、それはもう悪意と変わらない。
「私には【記憶魔法】がありますわ、殿下」
「……!?」
確認するように、淡々と。シャーロットはハロルド王子に告げた。
「王家にも伝えているし、もちろんハロルド殿下も知っていますわね?」
「……ああ」
シャーロットの記憶の魔法。
それは自身の記憶を『代償』に消費し、特定の事象を引き起こす彼女の固有魔法だ。
限定的な記憶喪失と引き換えに、何か特別な事態を引き起こす魔法。
「なんだ? まさか、その魔法のせいで己の犯した悪事の記憶がない、とでも言い訳するつもりなのか?」
「いいえ? 違いますわ、殿下」
基本的に代償にするのは、シャーロット自身の記憶だ。
その記憶が多いほど、価値が重い程、強力な事象を引き起こす事が出来る。
だが当然、その代償はシャーロットにとって重過ぎる。
王子妃教育を受けているシャーロットが軽々しく、その記憶を手放せるワケもない。
だから、彼女の魔法はそこまで警戒されてはいなかったのだが……。
「これから私は2つ。この【記憶魔法】を使って見せましょう」
「お前、抵抗する気か!?」
「抵抗などと。そうではありません。せっかちですわね」
重過ぎる代償のため、シャーロットがその魔法を使う事は今までなかった。
だが、自暴自棄になった彼女が自らの罪から逃げるために暴走するのなら?
(暴れる事も問題だが、もしかしたらシャーロットが抜け殻のようになってしまうかもしれない)
ハロルドの頭の隅にそんな考えが浮かぶ。
マリーアのために感じていた怒りが冷えていった。
もしも、シャーロットが記憶を失って、そのようになってしまったなら。
そう考え、ハロルドは胸が痛むように感じた。
脳裏に浮かぶのは、これまでシャーロットと交わした言葉の数々だ。
流石にそれは寝覚めが悪い。
だから胸が痛むのだと、ハロルドは自分に言い聞かせる。
何故なら己の愛は今、マリーアにあるはずなのだから、と。
「まず。私がこれまで受けてきた『王子妃教育』についての記憶。それも王家に入る場合のみ、必要だった記憶を代償にして『断絶の結界』を張りますわね?」
「…………は?」
その言葉をハロルドが理解する前に、あっさりとシャーロットは【記憶魔法】を発動した。
魔法陣が浮かび上がり、そこに黄金の天秤が形成される。
天秤の片方の秤の上に、シャーロットの額から出現した光が乗せられた。
「……これが私の、王子妃教育を受けた記憶。ハロルド・レノックス第一王子の妃となる為には覚えておかなければならない記憶、ですわね? ふふふ」
「まっ、待て!!」
ハロルドは、シャーロットを悪女として断罪しながらも……。
シャーロットから、その記憶が失われる事が致命的な何かに繋がるような予感がした。
「──記憶魔法」
『我が叡智を手放し、かの者らを拒絶せり』
カッ!!
と、黄金の天秤から光が迸り、シャーロットの身体を包み込んだ。
「あ……ああ……!」
取返しのつかない事が起きた。
ハロルドは、そう感じる。
シャーロット・グウィンズは7年近くも掛けて身に付けてきた『王子妃』になる為の記憶を捨てたのだ。
仮に。
仮に、シャーロットの罪が許されたとしても。
ハロルドの側妃などになる道も、遠のいてしまった。
(なんて事を! なんて事を……!)
シャーロットの言葉が本当かどうかは、まだ判断できない。
だが……。
「……ふぅ。今の魔法の行使によって、私の身体に……ハロルド・レノックス第一王子、ゼンク・ロセル侯爵令息、クロード・シェルベルク侯爵令息、マリーア・レント男爵令嬢が触れる事の出来なくなる『断絶の結界』を張らせて頂きましたわ。貴方達は、もう、ある程度の距離も私に近付く事さえ出来ません」
「な……」
「えっ!?」
シャーロットの婚約者だった『王子』ハロルド・レノックス。
不遇の状況に手を差し伸べた『友人』だったマリーア・レント。
長年、シャーロットとも交友を重ねていたはずの『王子の護衛騎士』ゼンク・ロセル。
何度も政務の手助けをしたきたはずの『宰相の部下』クロード・シェルベルク。
シャーロットは、かつては近しい関係だったはずの彼らを拒絶した。
7年分の王子妃教育の記憶と引き換えにシャーロットが得たのは、彼らを拒む断絶の結界。
王子妃教育の記憶を失い、近付く事、触れる事さえも出来なくなるとなれば、シャーロットがハロルドの妃に返り咲く事はありえなくなる。
正妃どころか側妃になる事さえもだ。
「お試しになりますか、殿下。ふふ。7年分の記憶ですから。効果時間も強度も、素晴らしいものになりましたわ」
「シャーロット! お前、なんて事を!」
ハロルドは、苦し気な表情を浮かべてシャーロットに向かって声を荒らげた。
「あら。婚約破棄をされた身ですもの。であれば王子妃教育の記憶など不要です。それにこの結界は『私の方からも貴方たちに近寄れない』ので、互いに良い事尽くしではありませんか?」
そう言いながらシャーロットは一歩、ハロルドたちに近寄って見せる。すると。
バチィ!
「きゃっ!?」
「うっ」
ハロルドとマリーアが衝撃に声を上げる。
シャーロットとハロルドたち双方に軽い衝撃が発生し、弾かれたのだ。
「上手く出来たようですわね? ふふ」
「シャーロット!」
すぐ近くに立っているのに。
ハロルドはもうシャーロットに触れる事も、近付く事さえも出来なくなっていた。
心での拒絶では済まず、もう物理的に触れられなくなっていたのだ。
(7年分の記憶の代償ならば、それだけの年月の……? ああ、なんて事を、なんて事を!)
ハロルドの胸の奥に痛みが走る。
たしかにハロルドは彼女のことを疎んでもいた。
自分よりも優秀なシャーロットに劣等感を抱いていて。
だが、いつからそんな気持ちだったのか。ハロルドの奥底に渦巻いている本心は。
本当は、彼女のことを、と。
未練とも、執着とも言える感情があったのだ。
(まだだ。シャーロットに、この結界を解かせれば、まだ……!)
「ふふ。私の魔法が如何様なものかを皆様に知っていただいたところで。
それでは2つ目の魔法を使わせていただきますわ。こちらが本命ですわね」
「2つ目だと? これ以上、何をするつもりだ、シャーロット!」
これ以上の記憶を失う事はシャーロットにだって負担のはずだ。
記憶が欠落した今の彼女の内心がどう変わっているのかも分からない。
これ以上、危険な真似はさせられなかった。
シャーロットのために止めなければならない、と。ハロルドは焦燥する。
「2つ目の魔法の代償に捧げるのは『私自身』でございます」
改めてカーテシーをして見せる悪女シャーロット・グウィンズ。
その姿は見る者がゾッとする程に美しく。
『悪女』と呼ばれたのは、この美しさ故かもしれないとそこに居た人々は感じた。
「……シャーロット自身、だと?」
「私の【記憶魔法】の根幹は、私自身の記憶を天秤に捧げ、それに釣り合うだけの事象を引き起こす事でございます。他人から奪うのではなく、私が身を削る事によるもの。つまり代償となるものが『私』であれば良いのです。他者の想いや、記憶は天秤には乗せられない。けれど」
それが【記憶魔法】の性質。けれど。
「『逆』の秤であれば他者の記憶も乗せられますのよ?」
「……逆の?」
シャーロットのペースに乗せられてしまった彼らは、ただ彼女の説明を聞き入るしかなかった。
「人々から。この国から。『私に関する記憶』を消し去る事が可能なのでございます」
「……は?」
シャーロットに関する記憶を消し去る。
国から、人々から。その記憶を。
「『いなかった事』に致しましょう。シャーロット・グウィンズという女そのものを。この国から私の痕跡を消し去る事を代償にして私の存在そのものを消去する。両方の天秤に乗るものが、すべて『私』なのです。ふふふ。私の【記憶魔法】最大最強の出力を誇る、自滅の業にございます」
妖艶に微笑んで見せる希代の悪女シャーロット・グウィンズ。
誰もがその言葉に魅入られるように聞き入り、口を挟めない。
(シャーロットの存在を、消す? 彼女のことを私たちが忘れる? 居なかったことに、なる?)
そんな事をすれば。そんな事をすれば、一体どうなるのか。
「ハロルド・レノックス第一王子殿下。今一度、尋ねましょう。
私という『悪女』が居なくても、……貴方は彼女を愛したかしら?」
「なっ……」
ゾクッとハロルド達の背筋が震えた。
悪女シャーロットに迫害を受けていたはずのマリーア。
虐める者がいなければマリーア・レントは『被害者』でも、『守るべき者』でもなくなる。
『悪女』と比較されてきたからこその、マリーアの清廉さだったはず、なのに。
庇護対象ではないマリーアに、果たしてハロルドは惹かれただろうか?
「あの女に比べれば。あの女よりも。あの方よりも彼女の方が相応しい。
そう言って盛り上がった皆々様。
どうか悪女が居なくなろうとも。彼女の可憐さを愛してあげて下さいましね?」
その言葉はハロルドたちだけでない。
この場に揃った貴族子女のすべてにも向けられていた。
彼ら彼女らは今日までシャーロット・グウィンズの凋落を見て来た者たちだ。
高みに居た高貴な淑女が落ちぶれていく様を、どこか他人事のように楽しんできた者たち。
希代の悪女と罵られ、とうとう婚約破棄を突きつけられて。
更に落ちぶれるだろう、かつてあれほどに輝いていたグウィンズ侯爵令嬢の凋落の姿を、さらに楽しもうと考えていた者たち。
シャーロットが何もしないままで居れば更なる悪評が立てられていただろう。
悪女を退けて結ばれた元平民のマリーアとハロルド王子の恋物語はシャーロットを悪女に仕立てあげて、さらに広まったかもしれない。
瑕疵のついた侯爵令嬢に下世話な令息たちが言い寄って弄ぼうとしたかもしれない。
或いは内心で彼女の落ちぶれる様を心待ちにしていた誰かが、その結果を見て陰で嘲笑ったかもしれない。
……そういった人々の、これまでと、これからのすべての『悪意』を。
シャーロット・グウィンズは許さなかった。
許しはしなかったのだ。
「ま、待って! シャーロット! 私、貴方のこと忘れたくないの! だからやめて! そんな事!」
誰よりも先に未来の事に思い至った一人の令嬢が飛び出し、シャーロットに呼び掛ける。
「シーメル。ふふ。その言葉は嬉しく思うわ」
シーメル・クトゥン伯爵令嬢。
彼女はシャーロットの親友として、長く一緒に過ごしてきた女性だ。
「じゃ、じゃあやめて? 貴方の事を忘れるなんて、私、イヤ! それに……どんなに辛くたって皆からも貴方が忘れられるなんて、あってはならない事だわ!」
「…………」
泣きそうな顔をして訴えるシーメル。
だが、シャーロットは彼女の事を冷ややかに見つめた。
その表情の冷たさにビクッと固まるシーメル。
「そんなに私が大事なら。どうして貴方は先程まで私を庇おうとしなかったのかしらね?」
「えっ」
王子からの婚約破棄。そして冤罪を突きつける言葉。
それらには口をつぐんだ彼ら、彼女ら。
シャーロットを庇おうとした者はこの場には居なかったのだ。
にも関わらず、シャーロットが最後に使おうとする魔法だけは止めに掛かる。
まるで婚約破棄や、彼女の悪評は止める必要がなかったとでも言うように。
もしも、シーメルが先程の騒ぎでシャーロットを庇っていたならば。
きっと、こんな魔法の行使は出来なかっただろう。
出来るワケがなかった。だけれど、現実は。
その行為だけで、シャーロットからシーメルへの評価は地に落ちた。
「──極大『記録』消去魔法」
「シャ、シャーロット! だめ! やめて! やめなさい!」
シーメルの呼びかけなど、もう彼女の心には届かない。
『天よ。我が名と栄誉を捧げます』
黄金の天秤の秤は、どちらにも傾かず。
ただ両方の秤の上に大きな光が乗せられて、そして光の奔流となって夜会の会場を包んだ。
その光は、会場だけに留まらない。
壁をすり抜け、王都を包み、王国の多くの領地にまで届いた。
【記憶魔法】という出力しかなかったシャーロットだったが、その魔力の量は王国の誰よりも抜きん出たものがあった。
かつて王国全土を覆う結界を張って見せた聖女と同じレベルの、魔力量。
それ程の魔力によって行使された魔法は、人々の記憶からシャーロット・グウィンズという女の記憶を消し去った。
記憶だけではない。
シャーロット・グウィンズ侯爵令嬢が居た、という『記録』さえもすべて書き換えられ、抹消されていく。
シャーロットの魔力出力と代償にしたものの重さが、王国のほぼすべてに影響を及ぼすに至ったのだ。
そうして。
光の奔流が収まった時。
夜会の会場からは、シャーロット・グウィンズの姿は消えていた。
人々の記憶からも、あらゆる記録からも……彼女の名前は消えていたのだった。