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Gift ~林檎の樹の下で~  作者: 秀田ごんぞう
第七幕 綻び
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第28話 無機質な瞳

「おお、音羽。来てくれて助かった。これ、保護者の方に渡しといてくれ」


 職員室へ入るや、僕の姿を見つけた堀口がクリアファイル片手に駆け寄ってくる。額に汗がうっすら浮かんでいて、相当焦っていたらしい。そうまでして渡したいプリントって何だろう?


 貰ったファイルには数枚のプリントが入っていて、一番上を見ると、なんでもない、ただの三者面談の日程のお知らせだった。

 堀口先生はついオーバーなリアクションを取ってしまうのがくせみたいで、今回もすっかり身構えてしまったが、どうやら杞憂だったらしい。


「ただの面談日程のお知らせじゃないですか。先生が急に呼び出すから何事かと思いましたよ」


 僕がそう言うと、堀口は眉を吊り上げてむっとする。


「ただの、とはなんだ。進路希望提出したの、お前が最後だったんだからな。……ったく、お前もあんまり俺をびっくりさせるな。ま、ご家庭で話し合った結果なら、俺がとやかく言うことじゃないが……いくらなんでも事前に相談してほしかったぞ」


「……なんのことですか?」


「お前の進路のことだよ。本気なのか? 英語の勉強もだいぶ頑張らないといかんぞ」


 堀口先生まで僕の進路を心配している。北城高校を志望するのはそんなに悪いことじゃないはずなのに。まぁ僕は上西ほど勉強できるわけじゃないから、堀口が担任として心配してくれるってのはわかるけど。胸の底に沸いたむしゃくしゃした気持ちを堀口にぶつけても仕方ない。ぐっと奥歯を噛みこむようにして、口を開いた。


「本気ですよ。当たり前じゃないですか」


 言い終わるか終わらないかくらいのところで、突然、首筋にひやりとしたものが触れて、一瞬、全身がぞくりと震えた。これは……こんなのは絶対りんごの仕業だ。なんてタイミングで仕掛けてきたんだ!? 堀口も目の前で生徒がいきなり顔面真っ青にして震えたもんだから、すっかり慌てている。


「どうした? 具合悪いのか?」


「ちょっと疲れてて……今日はもう帰ります。じゃ、先生さよなら!」


「お、おい、音羽! まだ話は終わってないぞ!


 僕は逃げるように職員室を出るはめになった。それもこれもりんごのせいだ。




 学校を出てからの帰り道、僕は周囲に人がいないのを確認してから、背後におぶさって呑気な顔をしてる少女に、びしり! と指先を突きつけた。


「さっきのは何のマネだよ、りんご! 不用意にその変な技使わないでって約束しただろ!」


 りんごは僕に怒られるのがわかっていたのか、特に驚くこともなく、けろっとした顔で返事をする。


『まぁまぁそう怒らないで。わたしは憑き主の思いを実現したまでのこと』


 僕の思い? 何をバカな。誰が好き好んで職員室であんなびっくり人間ショーをしたいっていうんだ。更なる文句を僕が言う前に、りんごは僕の口元をぴっと指さし言う。


『翔くん、早く帰りたがってたでしょ。わたしにはわかったから。堀口先生、話長いし……聞いてて翔くんがなんかモヤモヤを我慢してるのが伝わってきました』


「……ま、確かにな」


『で。さっき渡されたプリントには、いつ面談するって書いてあったんですか?』


 そういえば面談予定日を確認してなかった。鞄からプリントを取り出して確認する。

 ……え、明日? さすがに急すぎないか?


「明日って、そんなに急いで話すようなことか? さっきもやたら僕の進路心配してたけど、杉野の方がよっぽど怪しい学力だし……なんで僕だけ」


『翔くんが提出するの遅すぎたせいじゃないですか? それより早く帰りましょうよ。今日は天気不安定だって、昨日の夜の天気予報で言ってたじゃないですか』


 気圧が不安定? だとかなんとかで、まぁ今日の天気は荒れる可能性が高い、と天気予報でやっていたっけ。週間天気もあんまり良くないらしい。今朝はテレビつける暇もなかったけど。

 幸い今は風が強いだけで雨は降っていない。りんごの言うとおり、今のうちにさっさと帰った方が良さそうだ。


 強風がびゅーびゅーと吹き付けて、電線がいつになく揺れていた。




   ◇ ◇ ◇




「ただいま」


 玄関の戸を開ける。おかえりなさいという返事はなかった。鍵がかかっていなかったので、てっきり母さんが家にいるものだと思っていた。

 鍵をかけ忘れて出掛けるなんて……母さんにしては珍しい。たぶん誰かに呼ばれてちょっと出ているだけだろう。きっとすぐに戻ってくる。

 脱いだ靴を揃えて置いて自分の部屋へと向かう。机の近くにリュックを下ろす。

 りんごは慣れた動作で勝手に僕の机の上に座っていた。どうせ座るにしても、椅子にしてもらいたいけれど、彼女に言っても無駄なことは知っていた。


『翔くん、手は洗いましたか? うがいもきっちりしてくださいよ』


 りんごに言われずともそんなことは百も承知だ。世間では風邪が流行しているし、受験を控えたこの時期に風邪で寝込んでいる暇はない。自分の受験だけでなく、美術部の卒業制作にだって影響する。健康管理は自分でしっかりしないと。

 洗面所で手洗いとうがいを済ませると、喉が渇いていることに気づいた。今日は給食以降、何も飲んでいなかったし当然かも知れない。

 冷蔵庫のジュースを取りに行こうとすると、りんごがわたしの分も当然持ってきてくれますよね、という顔つきで僕を見ている。

 彼女の横柄さに呆れつつ、僕はリビングへ続くドアノブを手にとった。

 扉を開けて僕は驚きのあまり、腰を抜かしそうになった。

 


 居間のテーブルのところに母さんが座っていた。



「母……さん……?」



 母さんは留守じゃなかったのか……!? 

 てっきり外に出掛けているはずだと思っていた母さんは、椅子に腰掛けてテーブルに視線を落とす。その姿勢のままピクリとも動いていない。僕の声にも気づいていないようで、僕が帰ってきたことすら気づいていないような、そんなふうに思われる。


 ノブを握っていた手が滑る。ドアノブが上がる音が、静かな室内にかちゃりと響いた。

 母さんがこっちを見た。見たこともないような表情だった。

 目は開いているが生気が感じられない。母さんの瞳は死んだ人みたいに虚ろな色をしていた。


「翔……? 帰ってたの?」


 母さんはひどくか細い声でそうつぶやいた。


「さっき、帰ったばかりです。部屋の明かりもついてなかったので、てっきり出かけてるのかと思いました」


「そう……」


 声の感じからして、母さんが疲れているのはよくわかった。見れば、なんだか顔色も悪く、体調が良くないのかもしれない。

 母さんはそれきり何も言わず、またテーブルに視線を戻した。僕の方も何と声をかけるべきかわからず、その場に立っているのがただ辛かった。

 そこで僕は、堀口先生から、母さんにプリントを渡してほしいと言われていたのを思い出す。


「あ……そう言えば、先生が渡してくれってプリントがあったんだ。今度の三者面談の日程らしいです。部屋にあるので取ってきます」


「あ、翔、ちょっと!」


 母さんが立ち上がって呼びかけたのに構わず、僕はプリントを取りに部屋へ戻った。


『翔くん? どうしたんですか慌てて戻ってきて。ああ、先生から貰ったプリントならほら、これです』


 ありがとうというのも忘れて、りんごからプリント類を入れたファイルを受け取って、僕は急いで居間へと戻る。りんごが不思議そうに見つめていたが構っている暇はない。


「これ、堀口先生から母さんに渡してくれ、って」


 僕からファイルを受け取ると、母さんは中のプリントを一枚一枚確認し始める。


「翔、ちょっとそこに座って」


「え?」


「いいから!」


 なんだか語気が荒い。やっぱり今日の母さんはいつもと違う。何かあったのだろうか。プリントを確認し終えると、母さんは大きなため息をついた。大きくて長い、どこに溜めていたのかわからないくらいのため息だった。プリントを握っている手がわずかに震えていた。


 長いため息を息を吐いてから、母さんはいきなり右手の平でテーブルを強く叩いた。突然の衝撃で体が震える。


「翔、正直に言って。あなた、嘘をついたでしょう?」


 なんだ? 母さんは何を言っているんだ?

 今や母さんの目はすっかり変わっていた。そこにあるのはただ、怒りの一色だ。

 母さんは持っていたプリントを乱暴に反転させて僕に見せつけた。

 そこには信じられないことが記載されていた。



 三年二組 四番 音羽翔

 第一志望 渡米留学 第二志望 ――高校 第三志望 ――高校



 まるで足下にぽっかり空いた穴に吸い込まれていく感じがした。穴はどこまでも暗い暗黒の世界で、そこに吸い込まれると、右も左も上も下もわからない。


 何が起きているのかわからない。僕がこのプリントを受け取ったのは今日の放課後。つい、三十分ほど前のことだ。その時はこんな紙は入っていなかった。僕の目が耄碌もうろくしていない限り確かに入ってなかったはずだ。先生に提出した進路希望の紙と様式はまるっきり同じだけど、昨日の晩、僕は確かに第一志望校に北城高校と書いたのだ。休み時間に堀口に提出する前も、この目で確認した。アメリカに留学するなどとふざけたことは書いていない。


 しかし、現実に今母さんがつきだしたこの紙には第一志望 渡米留学などと記載されている。意味がわからない。僕はただの一度だってアメリカに留学したいなどと誰かに話したことはない。考えたこともない。

 わけがわからなかった。この状況はなんだ? なぜ、どうしてこうなった? 解明不能な謎を前に、僕はただただ黙っていることしかできなかった。


「今日のお昼に堀口先生から電話があってね、母さんびっくりした。進路の話だったんだけど、聞いていた話と全然違うんですもの! アメリカに留学だなんて、私、あなたの口から一回だって聞いたことないわ!」


 耳を閉ざしてしまいたかった。そうすれば少なくとも言葉は耳に入ってこない。けれど僕にはそうすることさえできなかった。怒れる母さんを前に、僕は微動だにできない。


「先生も驚いていたわ。『てっきりご家庭で話し合われた結果なのだと思いまして……。留学に際して色々準備する必要もありますので、急ですが明日の三者面談でもっと詳しく聞こうと思っていたのです』なんて言って。翔、あなたは北城高校に行きたいんだと、私は思ってた。たぶん父さんもそう思ってる。あなた、自分でそう言ったものね?」


「はい……」


 震える声で返事をする。母さんはパニックになっているんだ。自分が聞いた話と先生から聞かされた話がまるで違うから、僕が嘘をついていたと思って戸惑っている。でも、そうじゃない。そうじゃないんだ!


「翔、黙ってないで説明して。母さんはね、あなたが本気で行きたいっていうのなら……」


「わかんない! 僕にもさっぱり、わけがわからないよ!」


 椅子を蹴飛ばすように立ち上がり、僕はそのまま玄関の方へ走った。

 わけのわからない現状を前に、僕はこれ以上その場にいられなくて、どうしようもなくて、逃げた。

 居間を出た廊下の所にはりんごが立っていた。背後霊である彼女には僕と母さんとのやりとりが一言漏れずに聞こえていたはずだ。りんごは氷のような無表情で突っ立っていた。笑うでもなく、心配するでもなく、彼女の表情はまさしく無感情だった。りんごの声は無機質な残響を伴って聞こえた。


『どこへ行くんですか、翔くん?』


 背中に問いかけるりんごの声を振り切り、僕は勢いのままかかとをつぶして乱暴に靴に足を突っ込んで、そのまま家を出た。





 走って、走って、走り続けた。不格好に腕を振りながらひた走る。不思議と息は上がらない。それよりも遠くへ、ずっと遠くへ、誰も自分のことを知らない場所へ行きたかった。

 空のオレンジ色は西の彼方にかすかに残るばかり。首に当たる風がどうしようもなく冷くて、鋭かった。



 ――ちっぽけな僕に行くあては無かった。


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