第26話 受験生たちの悩み
それから何事もなく日常は進む。
僕は北城高校を目指して受験勉強をする傍ら、合間を見て杉野たちとの卒業制作にも取り組んでいた。
卒業制作のテーマは「小麦畑の少女」に決まった。
杉野が昔見た映画のワンシーンが元になっているらしい。一面の小麦畑を背景に、麦わら帽子をかぶった少女が風に髪をなびかせ微笑んでいるという情景だ。僕も杉野にDVDを借りて観たが、古き良き青春映画という感じだった。
それぞれの担当箇所も決まってきた。油彩の経験がある僕が背景の小麦畑の色塗りを担当し、人物の得意な上西が少女を描く。杉野は……よくわからないが、なにか描くらしい。
今は三条先生が背景の下書きを進めてくれているので、僕たちはそれぞれスケッチブックに画の下書きを始めている。これで、完成系のイメージを掴むというわけだ。
三人とも美術室で勉強をするようになって、自然、顔を合わせる機会も多くなる。
上西は勉強も順調に進んでいるらしく、制作もはかどっているようだった。
杉野の方はといえば……授業中は相変わらず寝てばかりいるし、僕の方が心配になってくる。奴なりに勉強はしているはずだが、あまりに余裕過ぎる気がする。友人として、とても不安だ。
ともあれ学校生活は平穏そのものだった。
今日もいつものように放課後、美術室に集まって三人で勉強していた。
美術室で各自一時間みっちり自習した後、日が暮れるまで卒業制作に取り掛かることになっている。まず勉強から入るのは、僕ら三人で決めた鉄の掟だった。だって、三人とも受験生だし、約一名、卒業制作してる場合じゃない成績の奴もいるし……。
しかし、例によって彼は机の上に広げた数学の受験対策問題集を胡乱げに見つめて、シャーペンをくるくる回しながら、うだつが上がらない声でぶつぶつ言っている。
「はぁ~あ。突然、入試免除チケットとかゲットできないかなぁ」
「バカなこと言ってないで勉強しろよ」
「音羽くんの言う通りだよ。私もあんま人の勉強の進め方に口出したくないけどさ、中三のこの時期に反比例の意味わからないのはヤバいって」
「反比例なんて知らなくても、人間生きてけるじゃねーか」
「まぁ生きてはいけるだろうけどさ。それじゃ試験は不合格待ったなしだな」
「そうなんだよなぁ~っ! ホント誰だよ、入試の制度考えた奴。ふざけんなよ~」
などと、受験生みんなが思ってそうなことをぼやく。杉野じゃないけど、僕も受験の制度考えたやつには文句の一つでも言いたくなる。
先生をはじめ、大人たちは今の時期の勉強がめちゃめちゃ大切だから! って力説するけど、とりあえずそう言ってるだけなんじゃないかって思うのが正直なところだ。それは僕がまだ中学生だからで、成長すれば考えが変わったりもするんだろうか……少なくとも今は、とてもじゃないけど勉強をさっさと終わらせて、キャンバスに筆を走らせたい気分だ。そこは僕も杉野に同意なんだけど……。
「グチグチ言ってないで、ペン動かせって。三十分でページの半分しか進んでないだろ?」
「うるさいなぁ……お前も俺と同じ勉強できない組だったじゃねーか!」
「『だった』だから。僕はちゃんと勉強したんだ。お前と一緒にするな」
「ははは。二人ともいつも通りだね。音羽くんも偉そうなこと言ってるけど、そこスペル間違ってるよ」
上西に英作文の間違いを指摘され、慌てて書き直す。こんな感じで、杉野は数学、僕は杉野ほどじゃないにしろ英語が苦手なんだけど、上西は強いて言うなら社会が若干苦手な――僕と杉野にとっては75点は高得点なんだけど――優等生なので、勉強のできる彼女にはもっぱら僕ら二人の教師役になってもらっている。
上西本人はすでに学校で自習する分の問題集は終わらせていて、僕らに勉強を教える傍ら、何やら小難しい本を読んでいる。
「なぁ上西。お前、さっきから何読んでんだ?」
「これ? 『世界の神秘図鑑』よ。図書室にあって面白そうだから借りちゃった」
本の表紙は書店のスピリチュアル本の棚にありそうな、ちょっと怪しげなデザインをしていて、なんで学校の図書室に置いてあるのか疑問である。
「お前、その手のオカルト本好きだったっけ?」
「特別好きって程じゃないけど、読んでると結構面白いよ。漫画のネタになりそうなことも色々書いてあるし」
彼女は趣味で漫画を描いているんだけど、恥ずかしがりで積極的に見せてくれない。以前ちらっと見せてもらった時もあるけど、絵は凄く上手なんだけど、ストーリーとキャラクターが独特の世界観すぎて、僕にはよくわからなかった。
杉野はすっかりペンを動かすのをやめて、上西の読んでる本に興味が移ったらしい。良くも悪くも彼は移り気で飽き性なのだ。
「今読んでたのは、これ。『ぬらりひょん』」
上西が開いて見せたページには頭が長いちんけな爺さんの絵が描いてある。
「ぬらりひょんはね、人の家にこっそり忍び込んで盗み食いをしたりする妖怪よ」
「なんだセコい奴だな」
「そ。でも、そんなセコい爺さんのくせして、実は妖怪の総大将ともいわれる凄い妖怪なの」
こっそり盗み食いなんてするやつが総大将なんて、妖怪の世界はよくわからない。僕もこの手のオカルト談義には疎いから、上西の本の話を興味津々に聞いていた。杉野と違ってちゃんとペンは動かしながら。
「他におすすめの妖怪は?」
「妖怪ばっかりじゃないんだけど、そうだなぁ……。これなんか面白いかも。二人とも『ドッペルゲンガー』って聞いたことある?」
「ドッペルゲンガー? なんだそれ? ポケモン?」
「ポケモンじゃないよ。誰しももう一人自分がいたらなぁ、って思ったことあるでしょ。ドッペルゲンガーっていうのは、自分とそっくりの姿をした、もう一人の自分って言ったらいいかしら? 世界には自分と同じ顔の人が三人いるって説もあるらしいのよね」
「あ、それ僕も聞いたことある。確率的な理由で、自分と似ている顔の人が世界に三人くらいいるはずだ、みたいな話」
「へー。要はそっくりさんだろ。大して怖くもねぇ」
「杉野くん。自分のドッペルゲンガーに出会ったら、どうなると思う?」
「……俺なら、握手して記念写真撮るかな。バズったらもうけだし」
杉野が何気なくそう答えると、上西が氷のように冷たい笑みでつぶやいた。
「――死んじゃうんだって」
まるで怪談家のような上西の口ぶりに、背中が強張ったように感じた。
「自分のドッペルゲンガーに出会った瞬間、死んじゃうんだってさ。理由は知らないけど」
自分のそっくりさんと出会った瞬間死んでしまうなんて物騒な話だ。聞かなかったことにしよっと。にしても……オカルトの本か。これまでそんなに深く調べてこなかったけど……いい機会かもしれない。
「ねぇ、その本に幽霊のこととかって載ってる?」
「幽霊……。載ってはいるけど、どうしたの急に」
「いや、僕もちょっと興味湧いてさ。幽霊の方がドッペルゲンガーとか、ぬらりひょんとかよりよっぽど身近だろ」
「そうかなぁ……? ま、いいけど。幽霊なら……ほら、このページ」
上西が幽霊について書いてあるページを開いて見せてくれた。少しはりんごのことについて何かわかるかなと思ったけど、本に書いてあったのは僕でも知ってるような当たり障りのない内容だけだった。
「幽霊っていいよなぁ。透明だから、なんだってすり抜け放題だし、空だって飛べるし。俺もなれるもんなら幽霊になりたいぜ。幽霊には勉強も必要ないし」
杉野は頬杖ついてぼんやりとそんなことをつぶやいている。僕は後ろで静かにしていたりんごをちらと見やる。
「いや……そんなにいいもんじゃないと思うな。肩こるし」
「は? 肩こり?」
「……なんとなく、そう思っただけ」
僕もはじめは杉野みたいに幽霊を都合よく解釈してたけど、りんごと生活するようになったからわかる。――幽霊って、そんなにいいものでもない。空なんて飛べないし、壁をすり抜けたりなんかもできない。他人と満足に会話するのだって難儀するし……腹だって減る。あいつにできるのはせいぜい、察知されないことを活かした悪戯くらいだ。
「音羽くん? さっきからぼんやりして、どうしたの?」
上の空になっていたら、上西がこちらを訝しむような目つきで見つめている。
「うぇ? ごめん、ちょっと考えごとしてた。なに?」
「杉野くんから聞いたんだけど、今日遅刻したんでしょ。珍しいこともあるなーって」
「あー……その話ね……」
人生で初めての遅刻だった。しかも寝坊で。
「お前が寝坊で遅刻するなんて、マジで天変地異級だろ。本当はなんで遅れたんだよ? 白状しやがれ。どうせ昨日遅くまでゲームしてたんだろ?」
「ホントに寝坊だって。杉野じゃあるまいし、徹夜でゲームなんてしないよ」
「でも……もし本当なら、音羽くん、知らないうちに疲れがたまってるんじゃない?」
上西が心配そうに僕を見つめる。そんな目で見られても、本当のことなんだから仕方ない。
ガチで本当の寝坊だ。ただしその責任は僕にはない。
美術室のポスターをにんまり眺めている幽霊女を横目で睨みながら思う。
今朝の寝坊に起因する遅刻の原因の全てはこいつのせいだ。




