番外編ーcigarretteー
あの時香っていたものとは違う、燻らせた煙の匂い。俺がいる時にはあまり吸うところを見なかったけれど、時折ベランダに灰皿を持って出ていることは知っていた。
あの頃ほどヘビースモーカーではなくなったと聞いてはいたが、それでも煙草自体を断つことはできなかったらしい。
「ユキさん、煙草替えました?」
「……いつの話?」
「え、5年前?」
「あぁ、そりゃまぁ……お前わかってて聞いてるだろ」
「えー。いやー、いつ替えたのかなーって」
怪訝な顔で煙を吐き出すユキさんは、じとりと横目で俺を睨んだ。まあ、分かってて聞いてるんだけど。
あの頃、あの男と同じ銘柄を吸っていたのを覚えている。同じ香りを纏わせるほどの独占欲をひしひしと感じて、こんなところでも牽制されるんだなと腹立たしかった。
「……暫くは同じの吸ってたよ」
「……そうですか」
そこ正直に答えちゃうかなぁ。そうですよね、だって最近まで引きずってたくらいですもんね。聞いたのは自分だけど、凹むものは凹む。
「いつ替えたとかは覚えてない」
「そーですかぁー……」
「自分で聞いたくせに」
「だってユキさん、意外と恋人に染まるタイプなのかと思ってたけど、なんかそうでもないし」
「お前オレに強要しないじゃん」
「強要されてたんですかあれ!?」
「いや、強要はされてないけど……まぁ、あいつも押しは強かったな」
俺が言うのもなんだけど、流されやすくない? それで刺青いれちゃったんだもんね?
本当に大丈夫なのかと心配になってきた。
「……」
「なに」
「いえ……なんか、自信無くなってきました」
彼らの繋がりはあまりにも特殊で。
未だあの男に勝てる気がしていないのは、二人の間に流れる特別な空気のせいだ。
もう元に戻ることはないとユキさんは言うけれど、それでもお互いに大切に思っているのだろうことはわかる。ユキさん曰く、家族に近いのだそうだ。
「傍で煙草吸うのにも気ぃ遣ってたお前が、今やオレの部屋で一緒に酒飲むようになったのに」
「それは、まぁ、20代も半ばになりましたし」
「こんな酒が強いとか知らなかったな」
「ええと……ユキさん?」
クス、と笑みを漏らしたかと思えば、ユキさんは吸い込んだ煙をこちらに向かって吹きかける。
「けほっ……ちょ、え!?」
「全く範疇になかった人間が恋人になるとか、普通に凄くない?」
肘をついた方の手で、ぐしゃりと前髪をかき上げながらそんなことを言うものだから。
あまりの色気に、うっかり息を呑んでしまって。
「ズ、ルいいぃ」
「ははっ、可愛い奴」
「うぐっ」
そんな楽しそうに笑うなんて、反則だ。
「で、どうする?」
「え、え?」
「あー、意味知らなかったか」
「意味?」
なに、どの意味!? 今の間になんのやり取りがあったのか俺には全くわからないんだが?
「仕方ないな」
そう言って煙草の火を消すと、ユキさんは俺の腕を引いて部屋の中へと戻った。
ちょっと楽しそうに鼻唄を口ずさんだかと思えば、至極小さな動作で思い切りベッドに押し倒される。
「……ええぇ!?」
情けなくも仰向けに倒れ込んでしまった俺の上にユキさんが跨ってくるけど、状況把握ができない。何これ。何が起こってますか。俺押し倒されたよね!? すげー軽い力で!
「涼、覚えとけよ」
「へ!?」
ユキさんは意地の悪い笑みを浮かべると、俺の耳元に唇を寄せる。
「顔に煙を吹きかけるのは、夜のお誘い」
「っ!」
待って。ユキさんがカッコ良すぎて死ぬ。
何度目かのジルのライブでユキさんファンの子が言ってたセリフとそっくりそのままのこと思っちゃったじゃん。
「って、ちょ! 待って!」
「え、だめ?」
「ダメではないですけど! ないん、ですけど……」
「うん」
「もしかして今から俺抱かれます?」
そのくらいの勢いでしたよね? 俺頂かれちゃうのでは?
「ふ、ふふっ……ふ、くっ……」
「ユキさん?」
めちゃめちゃ肩震わせて笑ってるんですけどこの人。
口元に手の甲を当てる笑い方は相変わらずで、見上げながらでも可愛いなと思ってしまう。
いやいや違う、何笑とんねんって話ですよ。
「ユキさーん!?」
「あはははは!」
「はぁぁ!?」
そこで笑わないでほしい。元気に! ちょっと元気になっちゃうんで!
「はぁー、笑った」
「なんなんですかもー」
「いやもうヤる気削がれたなって」
「え、それは……ちょっとあの、」
「なに」
「いやできればそのお誘いには乗りたいっていうか、なんかもう雰囲気もへったくれもなくなってきましたね!」
「涼のせい」
「すみません!」
確かに俺のせいだけども!
煙草の煙を吹きかける意味とか普通の人知ってる? 知らなくない?
しかも今まで結構我慢して手は出さないでいたのに、まさかユキさんの方からとか。
「いつまで経っても手ぇ出してこないなと思ってたけど、普通に考えたらお前ノーマルだしな」
「いや高校生の時からアンタに性癖は乱されてますが?」
「……そうか」
「そうです、よ!」
ぐっとユキさんの体を抱えて体勢を逆転させる。クッションの上に散らばる伸びた髪が、ちょっとだけ背徳感をくすぐった。
「俺だって、男なんですから」
「……こっちがいい?」
「できれば」
「ふは、いいよ」
引き寄せて吐息混じりに囁く声が、いつもより熱を帯びる。視線が交わるその時に、唇が触れた。
「ん……ぅ」
鼻にかかるような甘ったるい声に触発されて、更に深く貪る。舌で唇をなぞって、食んで、絡ませて。
ちゅ、と音を立てて離れると、ユキさんは少し瞳を細めて、俺の頬を撫でる。
「まぁ、最初からこのつもりでいたけど」
「もー、人が悪い」
触れられた頬を膨らませて抗議すると、ユキさんはまた笑ってキスをしてくれた。
甘ったるい煙草の香りは、もうしない。
「お、はようございます……」
「おー、おはよう。泊まり?」
「あ、はい。一旦着替えようかと」
「あー……着替えくらい置かせてもらえば?」
「そ、すね……」
朝っぱらから気まずい! 非常に気まずい!
なんで俺はいつも最悪のタイミングでこの人に出会ってしまうのだろうか。
朝が弱そうなイメージしかない龍臣さんは、思いっきりロードワークに行くための格好をしていて、似合う上にカッコいいのが非常に腹立たしい。なんなのこの人。しかも走りに行くんかい。健康的な生活だな。
「ロードワークですか」
「おー、歳取るとすぐ体に出るかんなー。気をつけろってユキに言っとけー」
「ユキさん細いんで……て、そんな年齢じゃなくないです、か?」
いや待て。プロメテウスの人たち、年齢は公表してないけど、大して隠しもしてなかったような気がする。
「いやさすがに30半ばになりゃ代謝も落ちる……て、なに、どした?」
「30、なかば……?」
一度話を逸らされてから、確かに年齢は聞いてなかった。聞いてなかったけれども。
「え、お前24だろ? あいつ10コ上……てまさか知らなかったのか?」
「………なんで俺は、あの人の元彼からあの人の年齢を知らされなきゃいけないんですかねぇ」
年上だとは知っていたが、まさかそこまで離れてるとは。年齢差は気にならないけど、それを元彼から聞かされる身にもなってほしい。
「あーはは……なんつーか、ごめん?」
「アンタに謝られたかないですよ!」
「お前俺にキツいな!?」
「当たり前でしょ! なんで嫌われてないと思ってんですか!」
「理不尽!」
「俺、5年前のこと許してないですからぁ!」
「えぇー……」
言い逃げるように部屋の中へ入って扉を閉めると、後ろから戸惑いの声が聞こえた。
完全に勢いと八つ当たりだったことは認める。大変申し訳ない。あんま反省はしてないけど。
「もぉー…」
次は絶対に洗いざらい喋ってもらおうと心に決めて、少し乱暴に靴を脱ぎ捨てた。




