第8話
「おはようございます、相葉さん!」
初実験の日の翌朝。
いつものように図書室の扉を開けたところ、いつもの成瀬の笑顔に迎えられた。
「おはよう、成瀬。その様子だと、エネルギーは有り余ってる感じだな」
「ですです! 充電かんりょーですよ!」
びしっと敬礼する成瀬にホッと安心する。
昨日は急に消えてしまったが、今日はどうやら元気そうだ。
「それじゃあ化学室にいくか」
「あっ、ちょっと待ってください。……もしよかったら、相葉さんの教室に行ってみたいです」
だめですか? と成瀬は両手を胸の前で組み、上目づかいでこちらを見上げている。
……まったく、自覚なしでやってるなら大したもんだ。
「別に構わないぞ。3年のクラスはまだ決まってないから、2年の時の教室でいいな?」
俺の言葉に成瀬はぱあっと顔を明るくして、
「はい、よろしくおねがいします!」
うちの高校は1年から3年の全教室が集まっている棟と、化学室や図書室といった特別教室が繋がっている構造だ。棟の間は中庭になっていて、天気の良い日は弁当を食べる生徒で溢れ返る。もっとも、春休みの今は人影もなく、誰もいないベンチが並んでいるだけだが。
2人連れ立って教室棟に移り階段を上がる。目の前にあるのが俺が在籍していたクラス、2年3組だ。
扉を開けて中に入る。どこにでもある教室だ。ただ、いつもは教科書やノートが詰まっている机も、部屋の後方にあるロッカーの中も、今は何も入っていない。
がらんとした光景だと思ったが、成瀬の目には違うように映ったようだ。
「相葉さんの机はどこですか?」
「ん? 窓際の一番後ろだった」
「おー、特等席ですね!」
確かに、授業に集中していなくても見咎められないという意味では、特等席かもしれないな。俺にとってはどこでも同じだが。
成瀬はふわふわと俺の席の方へ飛んでいき、
「じゃあ私はこの席にします!」
そういって、俺の席の左隣に座った。ちゃんと座っているように見えるが、どう考えても空気椅子だ。細かいところにこだわる奴だな。
「相葉さんも、はやくはやく!」
「あー、わかったわかった」
手招きして急かす成瀬に苦笑しつつ、ついこの前まで毎日座っていた席に腰を下ろす。
隣に顔を向けると見慣れた成瀬の笑顔があった。
「相葉さんと一緒のクラスだったら、こんな感じだったんでしょうか」
「どういう感じだよ」
「私がいろいろお願いして。相葉さんはいつも文句を言いながら、でもちゃんと付き合ってくれる、みたいな感じです」
「……言っておくが、俺はクラスでは誰とも会話なんかしてなかったぞ」
「ええ!? そうなんですか!? 私とはこんなにおしゃべりしてるのに、どうしてです?」
おしゃべりって……まあ確かに、こいつと話していると会話が途切れないというか、どういうわけか不快ではないんだが。
「別に。テレビゲームの話とか、どのアイドルが可愛いとか、そういったくだらない会話に時間を使うのが無駄だから、一人で科学雑誌とかを読んでるだけだ」
「えー、せっかくの高校生活ですよ? もったいないですよー」
「もったいなくない。しょーもない会話をしているほうが、時間の無駄だ」
「むぅ……出ましたね、人付き合いしたくない病が」
ジトっとした目でこちらを見つめる成瀬。
「クラスでのなんでもないおしゃべりも、楽しいものですよ? ……じゃあ、練習に私とやってみましょうか!」
そういうと成瀬は、ずいっとこちら側に寄ってきた。
どうでもいいが顔が近い、よくいる距離感のわからない系女子か。さぞバカな男子を勘違いさせたことだろう。
「前から疑問に思っていたんですが、相葉さんはどうしてそんなに化学に詳しいんですか? 素人目で見ても、高校生の範疇じゃないですよ」
「あー、話してなかったか。うちは両親が結構有名な化学者なんだよ。今はふたりともアメリカの大学で研究してる。そんな両親の仲間に入りたくて……いや、褒めてもらいたくて、子供の頃から必死に勉強してたんだ」
「えっ……それじゃあ相葉さんって、今は一人暮らしなんですか?」
「高校に入ってからはそうだな。コンビニが近くで助かってるよ」
「もう、そんな食生活じゃ栄養が偏っちゃいますよ。ちゃんと自炊してください」
それから俺たちは、クラスメイトが休み時間にしているようなくだらない会話を、飽きもせずに続けた。
「相葉さんって、クラスに好きな子とかいないんですか?」
「さっきクラスの誰とも会話しないって言ったはずだが」
「喋ったことがなくても、可愛いなって思うこともあるじゃないですか。相葉さん、カッコいいですし女の子から話しかけられることも無かったんですか?」
「一年生の初めごろはあった。だがあいにく、化学の会話ができないやつとは話が続かなくてな。いつからか、俺に話しかける奴なんかいなくなってたよ」
「うわぁ……もったいないですねー」
「成瀬はずっと図書室にいたのか?」
「そうですねー。最初は学校の中をプカプカしてたんですが、見える人にはうっすらと気配が感じられるみたいで、幽霊騒動が起きちゃったりするんですよ……。だから、いつからか図書室の奥の方で本を読んで過ごすようになりました。さいわい、読書は好きだったので図書室にある本はけっこう読んでますよー!」
「この文系が……俺の助手になったんだから、さっさと理系に鞍替えするんだな」
「えー、化学も面白いですけど読書も楽しいですって! 今度おすすめ本を貸しますから絶対読んでくださいね!」
「貸すって、図書室の本だろうが……まあ、成瀬がそこまで進めるんだったら読んでみるか」
12時のチャイムが鳴ったので、鞄から朝コンビニで買ってきたサンドイッチとコーヒーを取り出す。
「サンドイッチひとつで足りますか? 相葉さんって意外と小食ですよね」
「意外と、ってなんだよ。腹いっぱい食べると眠くなるから、これぐらいでちょうどいいんだ」
「あー、わかります。私も中学生のころ午後の授業はよく居眠りしちゃってました」
「……よくこの高校の受験に合格できたな」
「親友の恵美ちゃんがつきっきりで勉強を教えてくれましたから!」
「成瀬みたいなポンコツ娘に、そんな優秀な親友がいたなんてな」
「ひどい! それを言うなら相葉さんだって私を助手にしてくれたじゃないですか」
「それは……確かにそうだな。なんだか、ほっとけないというか」
「あっ、それは恵美ちゃんにもよく言われてました!」
「なんでドヤ顔なんだよ……」
存外、悪くない時間だった。
こいつがそばで見ていてくれるなら、3年生からクラスで友達を作ってみるのも楽しいかもしれない。
窓の外、校庭の周りをぐるりと囲んでいる満開の桜を眺めながら、そんなことを思う。
──柄じゃないな。
とりあえずは目の前の論文からだ。ずいぶんサボってしまってたから、急いで仕上げないとな。
「成瀬、そろそろ化学室に行くぞ」
さっきからやけに静かな隣席のほうを振り向く。
「え……?」
そこには、他の席と同じように、主のいない机と椅子があるだけだった。
俺達の春休みが、終わろうとしていた。