第2話
鈴がついた鍵を手で弄びながら、両親のことを思い出していた。
そういえば、最後に直接話した時も、こんな風に鍵をもらったな。
それは、図書室の鍵じゃなくて我が家の鍵だったけれど。
「母さんは最後まで心配していたな……」
両親のアメリカ行きが決まったとき俺が思ったことは、“とにかく重荷になりたくない”だった。研究者の間では、日本人史上初の夫婦ノーベル賞も夢ではない、と言われていることは知っていた。そんな二人がアメリカの有名な大学から招待されたのだ、嬉しかったに違いない。けれど、あの人達はその話を受けるか迷っていた。当時中学3年生だった俺がいるからだ。
俺だって、まだまだ子供レベルだが化学者を目指している人間だ。せっかくのチャンスを無駄にしてほしくはなかった。
“もうすぐ高校生になるんだから一人で暮らせる”と言い、自宅から通える高校を受験し、合格した。そんな俺を見て、両親は海外行きを決心したのだった。
幼少期からずっと、両親の背中を追いかけていた。最初はただ褒めてもらいたくて、絵本がわりに参考書を読むぐらいだったが、継続は力なりということだろう、俺の中にどんどん化学の知識が詰め込まれていった。今ではこうして、高校生にしては中々の論文が書けるようになっている。
──少しでも近づけているんだろうか。
頭をよぎった不安を振り払う。悩んでも仕方ないことだ。
白衣のポケットに図書室の鍵をしまい、俺は化学室へと足を向けた。
ゴーン、ゴーンとチャイムの音が鳴りひびく。時計を見ると、午後5時を示していた。
データ整理用のノートパソコンをパタリと閉じて化学室を出る。廊下はすでに薄暗かった。鍵をかけようとポケットに手を入れたところで、ちりん、と音が鳴った。
──図書室の下見でもしておくか。
化学室の鍵を閉めた後、昇降口とは反対方向に歩き出す。図書室は一階の西端だったはずだ。
普段はこの時間帯でも部活で残っている生徒の声が聞こえているが、明日から春休みということだろう、校舎内はガラリとして人の気配はまったく感じられなかった。
図書室の前に着く。ポケットから鍵を取り出し、
──ちりん。
静かな廊下に、鈴の音がやけに大きく響いた。
カチリと鍵を外し、部屋の中に入る。古い本特有の、どこか懐かしい匂いが鼻をついた。部屋の手前側には四人掛けの机が並び、奥の方には壁一面の本棚が見える。初めて入ったけど、思ったよりもちゃんとして──
そこで俺の思考は完全に停止した。
今しがた鍵を開けて入った部屋の中に、どういうわけか先客がいたのだ。
女子生徒だった。
夕焼けが射しこむ窓に背を預けて、部屋に入ってきた俺を気にも留めず、そいつは手元の文庫本に目を落としていた。
しばらく、ぼうっとそいつを眺めてしまっていた。夢中に本を読んでいる大きな瞳、肩まで伸ばしているおさげ、背丈は150センチほどだろうか、どこか古めかしい紺色のセーラー服を着ている。夕陽をたよりに本を読んでいる姿は、まるで一枚の絵画のようだった。
そんな風に観察していたところ、少しずつ冷静な思考が戻ってくる。
誰だこいつは。
着ている制服はうちの高校の物じゃない、それがどうしてこんな図書室で本を読んでるんだ。いや、そもそも、こいつはどうやってこの部屋に入ったんだ。
……まあいい。直接聞けばいいだけの話だ。
「おい、そこのお前。どこの学校の生徒か知らんが、どうやってここに入ったんだ」
「…………えっ?」
彼女は、しばらく本に目を落としていたが、ようやく自分が話しかけられていることに気づき、ぽかんとした表情で顔をあげた。
「そうそう、お前に話しかけてるんだよ。というか周りに誰もいないだろ。で、お前はどうしてここにいるんだ、この学校の生徒じゃないみたいだけど」
「……わ、わたし、は──」
彼女は大きな瞳を見開き口元に両手をあて、ゆっくりと、まるで久しく声を出していなかった喉を必死に震わせるように、言葉を紡ごうとして。
つーぅ、っと一筋の涙を流した。