乾くまで
「しょうもない人生でしたよねえ」
「……は?」
いきなり喧嘩を売られたのかと思った。
平日昼間のコインランドリー。最近冬で、雨ばかりで、全然洗濯物が乾かないからという理由で初めて来た、家から薬局までの間にある、やってるんだかやってないんだかよくわからないようなオンボロの建物の中で。
私の他にはもうひとり、黒髪に眼鏡のいかにも大人しそうな大学生くらいの男がいるだけで、つまりは消去法的にいま私に喧嘩を売ってきたのはこいつということだった。
ごうん、ごうん、と洗濯機は音を立てて回っている。
「そう思いませんか?」
男はまるで私と目を合わせようとしない。じーっと、何が楽しいのか洗濯物を回っているのを見ながらぼそぼそクッキーを齧っている。そのクッキーには見覚えがあった。隣のスーパーで78円で売ってるやつだ。平日昼間の貧乏学生。そんな感じだろう。見た目にはいきなり人に喧嘩を売るタイプには見えなかったから、なおさら危ないやつに思えた。
反射的に言い返してやりそうになったのを、自分で押しとどめる。こんなところで事件に巻き込まれてもかなわない。いくら薬局が近くにあるって言ったって、お腹をナイフで刺されたりすれば人は死ぬし、なんなら手首のあたりをざっくり切っただけでだって死ぬのだ。
「特別なことなんて、何一つなかったでしょう。
普通の家に生まれて、普通に育って、普通に屈折して。
普通に友達ができて、普通に勉強して、普通に大学に進学して。
普通にご飯を食べて、普通に眠って、普通に歩いて、普通に暮らして。
目標なんて何一つなくて、ただぼんやり生きているだけの、普通の人生だったでしょう」
好き勝手言いやがって、と拳を握ってしまった。
はっ、と気付いて、いかんいかん、とその拳を丁寧に指一本一本開いていく。こんなことで怒っていたって仕方がない。見透かしたようなこと言いやがって。いかんいかん、こんなのはバーナム効果。詐欺占い師がよくやる、誰にでも当てはまるようなことをさもその人だけの特別な特徴のように言い当ててくるやつ。
「でもあなた、死ぬときはすっかり、簡単に死んでしまうんですよ」
「喧嘩売ってんの?」
買ってしまった。
なんてタイミングで買うんだ、と自分で自分にハラハラしている。昔からこういうところがある。どうでもいいような場面ではいくらでも耐えられるのに、どうしてか致命的な場面に限って失われていた人間本来の闘争心みたいなのが蘇ってきて、いきり立ってしまう。別に見もしないのに手に持っていたスマホを鞄に入れて、椅子から立ち上がって、男の前に仁王立ちした。このまま男がポケットからヌッとナイフを取り出してスルッとお腹に突き刺してきたらそのまま死ぬ。それがわかりながら、私は正々堂々まっすぐ立っていた。
でも、男はそうしなかった。
ぽかん、とした顔で。眼鏡がずり落ちそうな角度で、私を見上げていた。眼鏡の奥の目は丸っこくて、思いのほか童顔だった。
「ええと、」
と男は言う。
「ごめんなさい。あなたに言っていたんじゃないんです」
心底、という声だった。
かあっ、と顔が熱くなる。紛らわしいことしてんじゃねーよ、スマホで通話中かよ、ワイヤレス通話かよ、通話中ですって札を首からぶら下げておけよ、と思って、男の上から下までを睨みつけてやる。
でも、男はスマホなんか持ってなかった。
代わりに、小さな空っぽの壜を手に持っていた。
「ちょっと、恋人に話しかけてただけなんです。――もう死んじゃったんですけど」
「ごくごく普通のふたりだったと思うんですよ」
コインランドリーから男の家に向かう途中の道で、男はそう言った。
「家が近くにあって……、でもまあ、それだけじゃ普通、友だちになるくらいがせいぜいですよね。でも、小学校でクラスが五回も一緒になったんです。中学で二回目に席が隣になったとき、そこから、自然と付き合い始めました」
私と男の洗濯が終わったタイミングはほぼ同じだった。もしよければ、と男は言った。洗濯物、僕の代わりに取ってくれませんか。ちょっとまだ、恥ずかしくって。
「高校は違うところに進んだので、正直くっついたり離れたりでしたね。別の人と付き合ったこともあります。でもやっぱりしっくりこなくて。運命ってものの確かめ算をしていたんです、とか言えたらかっこよくて最低なのかもしれないですけど、でも結局、いちばん馴染みのあるところに帰ってくるみたいな普通の話なのかもしれませんね」
男の洗濯物は、全部が全部、女物だった。ブラウス、スカート、ソックス、下着。何から何まで。華やかで、カラフルな。上から下まで一揃いの。
「大学は同じだったんです。学部は違うけど。親元から離れたら、もうほら、寂しくなるじゃないですか。自分がどこにいるかわからなくなっちゃうし。そういうのを埋め合わせるように、実際寄りかかり合ったわけなんです。自分の足りないところって、大抵の場合、他の人が持ってるから」
手伝ってくれませんか、と男は言った。
私は頷いた。
「いろんなところに行きました。それこそ近所のスーパー、薬局から。大学の使われてない建物。学食、キャンパス周りのレストラン。電車に乗って、ネットで話題のデートスポット。遠出したのは、いちばんは北海道ですけど、でもいちばん遠くまで来ちゃったなあと思ったのは、やっぱりふたり一緒に地元に帰ったときですね」
オートロックのマンション。男は手慣れた手つきで正面玄関を開けて、エレベーターに乗って五階のボタンを押した。
「冬でね。むかし使ってた通学路を歩いていたんですよ。駅から来る道と同じだから。いまどきには珍しく、何も変わってなかったんですけどね。でも、何も変わってないのに、まるで違う場所に見えちゃったから、もう抑えきらなくて。涙なんか流すわけじゃないんですけど、僕も、彼女もふたりで立ち止まって、ぼんやり景色を見るんです。枯草まみれの空き地とか。まだ金木犀の香りが残ってた」
ドアを開ける。玄関には女物の靴が一足、男物の靴が二足置いてあって、いま、それが一足ずつ増えることになる。少し悪いような気もしたけれど、まあ仕方ない、と割り切って、脱いだ靴をしっかり整えて、中に上がった。
「手を繋ぎました。離れないようにって、そう思って」
お願いします、と言って男は頭を下げた。お願いされてやろう、と私は片手を上げた。
「でも、死んじゃうときは死んじゃうんですよね」
キッチンから中部屋に続く扉を開けて入ると、男の恋人の死体が、ベッドの上で待っていた。
近づいて、顔を覗きこむ。眠っているみたいだった。そうっと毛布を剥いでみる。見た目には、どうして死んだのかわからなかった。
「ごめんね」
と一言だけ断って、彼女の服を脱がせにかかった。人の服を脱がせるっていうのは、簡単に思えて案外難しい。相手に意識がもうさっぱりないのなら、なおさら。
床の上だったらコブのひとつくらいはできていたかもしれない。部屋の外から男が心配そうに「大丈夫ですか」と声をかけてくるのに、何度か「まあ何とか」と答えて、すっかり最後の布一枚まで剥ぎ取った。
こんな状況でまじまじ申し訳ないが、綺麗だ、と思った。人の裸というのは、どんなものだって何かの美しさを一滴は持っている。でも、その肌の灰がかっているのを見れば、もう生きてはいない人だということもわかった。
次は着せる作業。これもまた難しかった。なんでこんなにボタンの多い服を着るかな、と思いながら、それでも少しは手慣れて、脱がせるのと同じくらいの時間で、なんとか。
「できたよ」
と呼んでやる。男は恐る恐る中に入ってきて、それから彼女を見て、
「ああ」
と笑った。
「彼女、この服がいちばん好きだったんです。着せてやりたくて」
男はベッドの脇に屈みこむ。私が動かしている間にいくらか乱れてしまった髪を、手櫛で梳いてやっている。
それを見て、仕方がないから私は言った。
「私じゃなくてさ」
「え?」
「私じゃなくて、あんたが着せてやった方がよかったと思うよ。恥ずかしくても」
男は手を止めないまま、しばらく黙っていた。黙っていたけれど、最後には「ですか」と言うので、「そうだよ」と言ってやった。
「一緒に恥ずかしがってやんなきゃダメでしょ」
そうですね、と言って、それからぼろっと男の目から涙が零れ始めた。一度始まったらもう止めるすべはない。男は声を上げないまま、雨が降るみたいに泣いた。帰るタイミングを失った私は、そのまま馬鹿みたいに突っ立っていた。
男が眼鏡を外して、袖で顔を拭ったのを見て、私は言う。
「着せてやりなよ。あんたが、たくさん」
「そうします。うん、そうします。ありがとう。ありがとうございます」
男はポケットの中から、小さな壜を取り出した。ついさっき、コインランドリーで握り締めていた壜。何も入っていないと思っていたけれど、その手つきを見れば、本当は大事なものが入っているんだとわかった。
男が壜を開ける。少しだけ、金木犀の香りが部屋に舞った気がした。
「焼くの、その人。そのまま」
「考え中です」
「そ」
窓から外を見ると、ここ最近には珍しい綺麗な夕焼けが広がっていた。
これならコインランドリーなんか行かなくても、洗濯物は乾いたかもしれない、と思った。
ちょっとくらい、焦げ付いちゃったかもしれないけど。