09 サルモン崩し、始まる
ヴァーミンどもを根こそぎ始末し、二度と現れないようにできるアイデアがあるなら、生命なんて惜しくない。
――名も無きビィの言葉
熱気と悪臭、そして憎悪が全てを支配していた。
サルモン迷宮の奥深く、目がくらむほど深い縦坑の底。
光導板の光届かぬ闇の中で、幾何級数的個体数の生命が蠢いている。
ヴァーミンだ。
シャフトにバッタ型ヴァーミンが群れなしている。
あまりの数の多さに、下方にいたヴァーミンは重みでとうに押しつぶされ、腐肉のペーストと化していた。
押しつぶされ、沈み込み、新たな個体が生まれ、また押しつぶされる。
地層のように折り重なる不浄の丘に、なおも新たな個体が現れる。
バッタ型ヴァーミンが、なぜサルモン迷宮に蝟集し、なんのためにそれだけの数に増え、さらに増えようとしているのか知るものはいない。少なくともビィには。
彼ら自身、はたして理由を知っている個体がいるのだろうか。それを確かめる機会は過去1000エクセルターンには存在せず、同じくらい未来にも何もわからないままなのではないだろうか。
シャフトのあちこちには、”金剛環”が設置され、それらが一刻も休むことなく複雑回転し、三次元生命プリンタとして新しい個体を出力している。バッタヴァーミンはヌルヌルの粘液に包まれながらシャフトの底に落下し、何割かはそのまま墜落死する。運の良かった個体は生きたまま翅と脚力を使い、再び上を目指しシャフトを登る。
それがいったい何エクセルターン続いたのだろう。
ヴァーミンは外見こそビィと同じサイズの虫けらだが、決して知能のない生命体ではない。ビィと同じか、中にはそれ以上聡明な個体さえいるだろう。
そんな彼らが、数年数十年と生存競争を繰り返し、共食いをして、死んだ同類の血肉を啜って乾きを潤し、その場にいるだけで発狂するような熱気と悪臭に包まれて、やがて力尽きて底まで落ちていくのである。
穴ぐらの中には怨嗟が満ち満ちていた。ざわざわ、ざわざわと羽音が唸り、同類が互いに罵り合い、殺し合い、喰らい合う……。
そして個体数は閾値を超えた。
邪悪なほど大量の羽音がピタリと止み、シャフトはいっさいの音が途絶えた。
彼らの何かが暗転した。
次の瞬間、今度は凄まじい怒号と、超巨大ハンマーで数十階建のビルを一息に破壊したような猛烈な轟音がシャフトを駆け上がった。
闇の中ざわめいていたバッタヴァーミンたちの薄緑がかった表皮が、黒と黄色の入り混じった吐き気を催すような色へと変異していた。すべての個体がだ。いったいそれが何体にのぼるのか、推し量ることさえ困難だ。
もはや彼らをバッタ型と称することはできまい。
蝗。
イナゴ型ヴァーミンだ。
どす黒い悪鬼の相貌をはるかシャフトの外へ向け、イナゴの群れは羽ばたいた。
あたかも暗黒の大瀑布が上下反転したかのようにシャフトから溢れだし、嵐のような羽音を轟かせながら全てを埋め尽くしていく……。
*
タマリン蜂窩。
その主機関樹の見るからに危なっかしい最上部の片隅で、老人があぐらをかいて眠っていた。しわびた顔はいったいどれほどの長さを生きてきたのかわからない。やけに大きな荷物を傍らに置き、うとうとと光導板の光に浴している。
その耳が、ピクリと何かに反応した。
「来おったか」
そうつぶやいた老人はすでに眠ってもあぐらをかいてもおらず、大きすぎる荷物を簡単に抱え上げて飛ぶようにその場を後にした。
*
一方、スイレン蜂窩跡地。
「……このタイミングでか」
激しい修行の翌日にゲイン、ラトル、そしてゼナの三人で遅めの朝食を食べている時、ゲインが唐突に眉根を強く寄せた。
「どうかした?」
ゲインの態度に慣れているラトルが、何かを察してスープを口に運ぶ手を止めた。
「支度しろ」ゲインは言い放った。
「え?」
「出発する」
「どこに?」
「タマリン蜂窩だ」
「ちょ、何なのいきなり!」
すでに立ち上がって荷物をまとめはじめたゲインに、彼の扱いには慣れているはずのラトルでさえ困惑した。
ましてや1エムターンと少しの間師弟関係になったばかりのゼナには、何が始まったのかさっぱりわからなかった。
「お前も来い、ゼナ」
師の声の響きに、ゼナはいっさいの疑問を捨てて食器に盛られた食べ物を全部口の中に詰め込んで、自分の荷物のところまですっ飛んだ。ゲインは元々とっつきにくい男だが、ときおり質問を挟むことすら許さない気配を発する時がある。いまがそれだ。
タマリン蜂窩に行く、ということ自体はゼナに不服はない。
元々”仙人”に会えたら蜂窩に戻るつもりだったし、”仙人”ではなかったがゲインのおかげで双門術に目覚めた以上、一刻も早く母モカの元に帰って自分が門術を使えるようになったことを知らせてやりたかった。
「って、それはいいんだけど何でそんなに急ぐの!」慌てて食器を片付けながらラトルが大声で尋ねた。
敵が来る、とだけゲインは返した。
ラトルはきょとんとして何のことかわからない顔をしたが――ゼナは青ざめて、ようやく飲み込んだ朝食を戻しそうになった。
『敵が来る』。
その言葉が意味するのは、サルモン迷宮では一つに限られる。
「ヴァーミンが……イナゴが来る……?」
「そういうことだ。この音だと間違いなくタマリンに向かっている」
ゼナの肚に、ひと言では到底言い表せない感情の熱が沸いた。
イナゴヴァーミンは絶対的な敵だ。絶滅させなければいけない。そうしなければビィは餌以下の扱いを受けてしまう。
タマリン蜂窩がゲインのようにヴァーミンの接近を補足しているかどうか不明だが、遅かれ早かれ蜂窩全体が石棺に覆われ、迎撃準備が行われるだろう。
母は、祖父はどうなるだろうか。石棺が完全に閉じられても生き延びられる保証はない。なにしろ、前回の襲撃では石棺が開かれてイナゴの侵入を許してしまい、人口の3分の1が虐殺された。そして――図らずもその手引をしたのがダニヴァーミンに洗脳液を注入された母のモカなのだ。
苦い記憶がよみがえる。
モカは蜂窩の住民から迫害を受け、ゼナ自身もその余波を被った。
加えてゼナは門術不能者で、つまらないものを目で見られ、時には一方的な暴力を振るう同世代のビィすらいた。
――そんな蜂窩を、オレは救いたいのか?
そんな考えが一瞬よぎった。
愚問もいいところだ。
助けなければならないに決まっている。
母がいる。祖父がいる。どんなに白い目で見られたとしても――タマリン蜂窩は自分の故郷なのだ。
「急ごう。オレ、ここで何もできなかったら……」
と、その時ゼナの決意をせせら笑うように、無数の羽音が聞こえた。不気味な不協和音に、首筋のうぶ毛が逆だった。
「ビィいいいいいだああああ!!」
そして発狂したような叫び声。
ゼナが、ラトルが、そしてゲインが”彼ら”を見た。十匹を上回る、黒と黄色のおぞましい肌を晒したヴァーミンの群れが飛び狂う様を。
バサバサ音を立てて、イナゴヴァーミンたちはゼナたちを取り囲んだ。ただのバッタヴァーミンとは全く迫力が違う。身体は一回り大きく、その目には狂気が宿っている。
「殺ス! 食ラウ! 皆殺しだァアアア!!」
口々に叫び声を上げ、イナゴたちはゼナたち包囲を狭めていく。
――こんな数、どうすればいいんだ。
ゼナはごくりと息を呑み、師であるゲインの意を知ろうと顔色をうかがい――心の底から恐怖した。
「皆殺し? 皆殺しだと?」
ゲインは嘲笑っていた。その眼光も、表情も、声色も、全てがヴァーミン以上の狂気を撒き散らしていた。
「笑わせるな糞虫どもが。貴様らはこの場で死ぬ。生きたまま腹わたを引きずり出して、五体をバラバラにしてやる」
ゲインの言葉が通じたのか否か。イナゴの一匹がゲインに向かって自慢の脚力を駆使して一気に飛びかかってきた。
その速さ、勢いは恐ろしいほど鋭い。標準的なビィとほぼ同じ体重の高速体当たりである。まともに喰らえばこらえるのは不可能だろう。
だがそれは全く通用しなかった。
激突寸前、ゲインの長い足がカウンターで足刀蹴りを放ったのである。
ゼナはあっけにとられ、そして見惚れた。こんなに美しいフォームの足刀蹴りを見たのは初めてだった。
食らったヴァーミンの顔面は陥没し、どす濁った緑の体液を撒き散らして吹き飛ばされた。地面を転がり周り、前肢で顔を抑える。鼻骨と頬骨の粉砕骨折、眼球破裂、加えて脳挫傷といったところか。
「ゼナ」
「は、はい!」
「3匹殺れ。お前にくれてやる」
「オ、オレが? 3匹も!?」
「忘れたのか。お前はもう何もできない小僧っ子じゃあない。双門術を使え。これがお前の……」
ゲインは熱を孕んだ愉悦を浮かべた。
「デビュー戦だ」
*
ほんの少し前までは、三匹のイナゴヴァーミンは全く手に負えない相手だった。
恐ろしい数で蜂窩を攻め、捕まえれば貪り食われ、着ている服さえ残らない敵。おまけに自分はまだ成体式も迎えていないガキで、門術も使えない”出来損ない”だ。丸腰で、何をやっても叶うはずがない……。
――いまはもう、そうじゃない。
ゼナは両の拳を握りしめた。
エムターンと少しの間、ゲインの特訓によって目覚めたチカラがある。
――先生の言うとおりだ。オレはもう何もできない子供なんかじゃない。
よだれを撒き散らしながら、一匹のヴァーミンがゼナに狙いを定めた。野太い後肢に力を込め、ゼナの喉を食いちぎろうと迫ってくる。そのおぞましさ。
睾丸が引き縮む緊張感の中で、ゼナは師の教えどおりに己の内に流れる霊光が走る霊線の二重螺旋をイメージした。
――ビビるな、オレはもう何もできずいるビィじゃない!
「開け……開け……開け! ”太陽の門”!」
暗闇の中で炎が灯る音がした。
ゼナの全身が金色のオーラに包まれる。
「喰らえ、ヴァーミン!」
渾身の力で拳を引き、ゼナは思いきりカウンターパンチを叩き込んだ。
イナゴヴァーミンの一匹は、悲鳴すら立てずに頭部から腹部にかけて粉々に打ち砕かれ、血煙になって死んだ。
一瞬だけ――ゲインも、懐から出したパルスガンを構えるラトルも、狂えるヴァーミンたちも、そして当のゼナ自身も、一瞬だけ押し黙り、静寂が支配した。
「……いい拳だ」
ゲインがにやりとして、弟子に負けてなるかとばかりに蹴りと右手のごつい義手で自分の受け持ちの一匹を血祭りにあげた。
ゼナは腹の底から叫んだ。
「次、二匹目ェ!!」
逆襲が始まった。
*
双門術によって開かれる”太陽の門”は、通常であれば内門に当たる身体能力――この場合特に反射神経と筋力――強化とともに外門の”太陽”を同時に開く形式をになる。
この状態で格闘戦に挑むとどうなるか。
加速された肉体での打撃はそれだけで必殺の一撃になりうるが、そこに燃え盛る霊光の炎が加わり、何倍もの破壊力をうみだすのである。
その威力はヴァーミンの中でもとりわけ凶悪なイナゴ相手でも遺憾なく発揮された。
この時の、脳がしびれるような愉悦。
物心ついてからずっと抱えてきた全ての鬱屈から解き放たれ、ゼナは戦士としての己にはっきりと目覚めた。
――母さん。じいちゃん。オレ、これで胸張って蜂窩に帰れるよ。
ゼナは再び咆哮して、二匹目のイナゴヴァーミンを殺しにかかった。
負ける気がしない。
*
「片付いたか」
足元に転がる瀕死のヴァーミンをブーツで踏みにじりながら、ゲインがつぶやいた。さきほどまで繰り広げられていた戦闘の時とはうって変わって、冷めた表情になっている。
「これで全部?」
ラトルが言った。ゲインの額に浮かぶ汗をかいがいしく拭いている。神経接続式の義手はプラグドとは違って頑丈な金属の塊で、パワーはあるが汗をぬぐうには向いていない。
「まさか。ただの先遣隊というところだ。本命はタマリン蜂窩だろう……ゼナ、急ぐぞ」
ゲインに急かされたゼナは、前かがみになって大きく息を弾ませていた。全身に汗をかいているのは、双門術を使った初めての実戦の緊張と、まだコントロールに慣れていない能力の発現に肉体が追随できず、激しく消耗しているためだ。
「早く慣れておけ。糞虫どもの本隊がどんなものか、お前も知っているだろう」
ゼナは返事もできなかった。あの何もかもを喰らい尽くし、ビィを虐殺するためだけに存在するかのようなヴァーミンにたいして一刻も早く防戦の準備を整えなければならない。そして自分はもうその中に組み入れられるべき戦闘要員なのだ。
「双門術は内外双方の門を同時に同じ強さで発現させる能力だ、内門で疲労を回復させつつ治癒系の外門で回復を一気に早めることはできないのか」
ゼナの荒い呼吸がピタリと止まった。そういうやり方もあるのかと言わんばかりに門術を使う。
「……できるみたい、です」
ゼナは顔を上げ、困ったように後ろ頭をかいた。
もうすっかりダメージは去っていた。
苦悩も、憎悪も、苛立ちも。




